「日本住血吸虫感染経路実験地の碑」建立について

井原医師会副会長 森本 允裕 

 かって、広島県深安郡片山地区、山梨県甲府地区、福岡県ならびに佐賀県筑後川流域などの地域に、田んぼに入ると皮膚が痒くなり発熱・下痢を引き起こし、やがては肝臓や脾臓の腫脹のため腹部が腫れ黄疸や腹水などの肝硬変の症状や虫卵による脳症状のために住民を死に陥れる風土病があり、原因不明の奇病として有病地の住民に恐れられていた。
片山地区の地方病であった片山病についての記載は福山の医師、藤井好直による「片山記」(1847年)に見られる。片山地区に隣接した後月郡高屋川流域(現井原市高屋町)でも、農耕に従事した小田郡大江村(現井原市大江町)の一部住民の間に流行し、耕地名の西代に由来し「西代病」と呼ばれた。日本でのこの病気の撲滅運動は1871年(明治14)に始まっているが、後月郡医師組合(井原医師会の前身)でもこの病気の原因解明と治療のため、私立「後月郡博愛会」を1893年(明治26)に結成している。

 この風土病の原因究明についてはそれぞれの感染地で真剣に取組まれていたが、岡山医学専門学校(現岡山大学医学部)の桂田富士朗教授が、1904年(明治37)5月26日に流行地の甲府盆地から持ち帰った猫を解剖し、その門脈内から新しい寄生虫を世界で始めて発見した。新寄生虫発見の3日後には、京都大学の藤波鑑教授が片山地区で亡くなった人体を解剖し、その門脈から同じ寄生虫を発見している。桂田教授は同年7月30日に雌雄抱合した完全な虫体を見つけ「日本住血吸虫」と命名した。

 1909年(明治42)には、後月郡高屋村西代地区で犬や猫を用いた感染経路の実験を行い、動物が有病地の水に浸漬されることにより皮膚から感染することを実証した。調査は1908年秋から始まり1908年11月17日の山陽新報には「日本住血吸虫病発生 備中国小田郡大江村に日本住血吸虫病が発生しているので、その地域について調査の必要があり、桂田博士は去る20日に同地へ出張し、種々取調べの上22日に引き揚げた。備中国後月郡高屋村より南下して、大江村を通過する一流れの川があり、高屋川という。その西側に西代と称す土地が五町歩余あって、その田用水は高屋川の支流で、大江村の北端より分かれて西代の西側を流れ同地の灌漑に使われている。同病の発原地はその田用水の分流にあって同水に手足を触れると、たちまち「かぶれ」の姿になり、しだいに痒みを感じ、次に腹部が大いに膨張するという。もっとも発病し易いのは田植え期より田草取り期である。西代と称す土地を耕作する者は、田上と称する20戸ばかりの部落で、同地より大江小学校に通学する児童の35人中の8人は同病の疑いがあり、検便が必要であるために目下、同博士の手で取調べ中という。」当時の大江村は戸数342、人口1840人、そのほとんどが農家であった。田上という小部落は戸数53、人口は262人で、人家は滝山という小山の南にあって、住民の生活は大江の他の地区民と変わることはなかった。この部落の20戸(人口117人)は滝山の北にある西代の5ヘクタールの土地を耕作しており、わずか117人の中から西代病に罹る者が多かったという。西代病は狭い地域にかなり濃厚な感染があったものと推測される。

 翌年6月13日には「日本住血吸虫病調査 小田郡大江村字西代(西代は高屋村)と称する所に、日本住血吸虫病が発生してから、岡山医学専門学校の桂田博士が専心研究していることが再三にわたり報道されている。この病気は毎年田植え時期から田草取り期に、人体の皮膚より侵入して、発生するのであろうと想像されているが、未だ確実な調査は行われていない。今回はその研究をするのが目的で、さる11日に桂田博士は同校の長谷川助手医とともに、笠岡駅午前10時47分着の山陽線下り列車で下車し、ただちに同地に出張した。ちなみに研究材料としてイヌ4頭、ネコ1頭を持参したが、一行は後月郡高屋村大字高屋の角中旅館に1週間ばかり宿泊の予定という」と報道されている。

 イヌ、ネコを用いた実験は6月12日から始まった。改良した首かせを特製し,頭部は板上にあって寄生虫が口から入らないようにし、腹壁を一部剃毛して1日3回ずつ水に漬けただちに岡山へ帰して飼育した。ネコは7月上旬より衰弱し、中旬には糞便に虫卵が認められ、同月26日に斃死、解剖によって門脈内に多数の虫体を確認した。イヌの実験でも同様の虫卵を認めることができた。この実験は官報第7840号(1909、明治42年8月12日)に「日本住血吸虫の動物体内に侵入する経路およびその予防法」と題して掲載されている。

 予防法としては、農耕中に皮膚が直接に皮膚に浸漬しないように手袋や足袋の使用を推奨し、子虫の駆除には石灰窒素が人体への影響も少なく有用であると報告している。

 その後、1913年(大正2)になって中間宿主の宮入貝が感染地の鳥栖で九大の宮入慶之助教授と鈴木稔助手により発見され本虫の生活史がすべて解明された。生活史が解明され、感染経路や予防法の確立、治療薬の開発とともに、各地で撲滅運動が進み広島県では1976年(昭和51)患者発生がなくなり、山梨県での1996年(平成8)の流行終息宣言で、日本での日本住血吸虫症は完全に撲滅した。

 発育史の全容が解明されたにもかかわらず、他の多くの感染地では疾患そのものは消滅しなかったが、感染実験が行われた井原市では1924年を最後に住血吸虫症の新たな患者の発生は見出されていない。中間宿主の片山貝については昭和30年代までは西代地区を中心に生存が確認され、調査研究と撲滅運動は岡山県衛生研究所、井原市衛生保健課、地区住民を中心に行われ完全に撲滅している。

 SARSや鳥インフルエンザなど新たな感染症時代の到来が懸念され、感染経路の解明はこれらの感染症撲滅の命題となっている。日本住血吸虫症では、井原市で行われた感染経路実験が日本からの完全な日本住血吸虫の撲滅に大きく貢献したにもかかわらず、地元では話題になることも少ない。日本では住血吸虫は完全に撲滅されたが、アジアを中心に世界では、1億人以上の人がこの病気のために現在も苦しんでおり、今後の環境の変化、流通機構の発達によっては新たな感染者が出る可能性を警告する声もあり、住血吸虫に対する関心を持ち続けることの重要性が指摘されている。

 井原市の一部の地域の人々が、原因不明の病気に長年苦しんだことは不幸なことであるが、地域医師会員と地区住民は死と対峙した恐怖の中で、桂田教授の実験に協力した。当時はまだ原因不明の奇病と恐れられていた頃、未知の病の原因究明のため、地域関係者が果たした役割は大きく、深く敬意を表するものである。

 岡山大学医学部、岡山大学医学同窓会では、桂田教授の功績を後生に残すため、5月26日「桂田富士朗先生日本住血吸虫発見百年記念・胸像除幕式、記念講演会」が開催された。井原医師会でも、感染経路実験地として人類の健康に貢献した「世紀の偉業」を後世に遺すため、同じ日に井原医師会跡地に碑を建立した。

 「世紀の偉業 後生に」とマスコミにも大きく報道され、医師会では実験地の高屋地区にも碑の建立を計画し関係各位と交渉を重ねたが、理解と協力が得られず計画は中断している。

※山陽新聞 2004年5月27日 掲載

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