新聞で見る『百年史』

その2

1881年(明治14)
○県病院4等助診の難波淳三君は駆楳院(梅毒病院)兼務を、5等助診の守口周策君は薬局係兼務を、2等助診兼監獄医の平田重君は師範学校手当医兼務を、4等助診兼師範学校手当医の岡田麟二君は、3等助診補を申し付けられた。(2.24)
○備前岡山区西中島町の駆楳院において、座敷出稼ぎの娼妓が梅毒検査によって有毒と診断された。県病院へ入院を申し付けられた娼妓は、西中島町魚与起内の若福なり。(3.6)
○変生の男子について、県病院より医師が警察署へ出張してその陰門を検査したが、その原因が不明のために一先ず止宿所へ返された。後日、清野院長の検査を受けることに決まり、検査のとき医師に陰門が生まれながら出来ていたのか尋ねられ、成長するに従って次第にこのようになったと答えたという。何にせよ奇妙希代の畸人なので、また詳しく探訪して好事家の望みを満足させたい。さてさて造作の悪戯もまた奇というベきであろう。(3.12)
 男子の陰部奇形は、おそらく真性または仮性半陰陽(hermaphrodism)であろう。学生時代に皮膚・泌尿器科ではなく、陣内教授の外科の臨床講義で珍しい症例として供覧された記憶がある。現在ではこのような臨床講義は不可能であろう。
○岡山師範学校や医学校などには、ときに手癖のわるい生徒がいて、同じ入塾生の金を盗んだ話を聞くことがある。先日も両校で時計がなくなって詮索され、ついに時計を盗んだ奴が露見したが、
師範学校では内々に退校を命じられ、医学校の生徒はその筋へ拘引されて今は岡山収獄署にいるという。しかるに、1昨日また師範で金8円を失ったものがあるという。いよいよ取り締まりも厳重になろう。(4.17)
○県庁より病院、医学校、駆楳院へ
 本月11日より9月10日まで暑中休暇賜り候旨公達これあり候条、その院においても、その校においても、御用差し支えこれなきよう繰り合わせ、各自日数30日以内休暇致すべく、休暇中旅行の義も差し許し候条、その行く先届け出るべくこの旨相達し候事。(7.15)
○県病院1等助診兼駆楳院長の生田安宅君は、19日に駆棋院長を申し付けられた。(7.23)
○県医学校では生徒就学の期間を8期とし、1年間に2度の進級試験を施行し、4年間で全科を卒業することに定められた。日本語で授業し他の医学校より就学の期間を短くする。現在では医学士も3名あり、助教も人員が揃い教授がよく行き届いている。そのため生徒の学術も非常に進歩し、学校は日に日に盛んになっており、このたび年齢16歳以上の生徒50名を募集している。このように医学校が盛んになるのは何より結構なことで、志願者は早く同校に入って完全なる教えを受けて良医になるように。願書など詳しいことは公告欄に掲載する。(12.8)     

1882年(明治15)
○県病院では『医事月報』を発行することになった。公衆の利益になることは新聞に摘録してもよい、ということで規則と一書を恵贈された。(1.14)
 「岡山県病院医事月報発行規則」によれば、毎月1回発行されることになっていた。第1号発行は明治15年4月であるが、現存しているのは1号、3号(16年1月)、4号(同2月)、5号(同3月) の4冊で、いつまで発行されたのか明らかでない。
○本県病院の病室において、患者と看病人の間にとかく猥劣の行為があるとの風評がある。まさか事実とは信じられないが。(1.17)
○岡山区下田町士族杉山某の次男(15年8ケ月)は、2年前より医
師海野某について針術を修行していた。昨秋より県医学校に通学し勉強していたが、学資が乏しく止むを得ず退校した。しかし貴重な時間を空しく過ごすべきではないと発奮し、所持品を残らず売払って旅費をつくり、ひそかに東京へ出立しようと海野氏に告げた。氏は両親に無断で上京するのはよくないと説諭したが、すでに断然志を立て意気盛んな有様を見て海野氏も大いに感激した。その志なら直ちに出立すベし、両親へは私よりよく話すからといって激励し、若干の金をはなむけとして贈った。感涙にむせびながら出発したが末頼もしい少年である。(2.11)
○貸費医学生募集
 備中阿賀郡では郡中より4名の貸費医学生を募り、卒業後は郡内で開業させれば草根木皮などによって死ななくてもよい人が死に、若死にする人が少なくなるであろうと募集を始めた。本県31郡区中には例がなく阿賀郡が最初である。同郡で先般衛生会が開かれたとき某医師の言に、いかに衛生、衛生といっても飲んだ 薬代を納めない郡民であり、事業の成功は疑わしいというのを郡長が開き、もっともなことと各村戸長へ内意を通じ、できるだけ戸長の手元で薬代を取りたて、医師に払い込むことになったという。(2.19)
○管令第4号
 医術開業試験を要せず開業免状下付の布達
 医術開業せんとするものは、明治12年甲第3号布達医師試験規則第3条に記載したるものの外は、すべて開業試験を遂げ免状送付に来り候処、自今文部卿の認可を得、左の条件をそなえたる医学校卒業生は、詮議の上試験を要せず、直ちに開業免状を下付することあるべし。ただし卒業試験の節は、時機により内務省より吏員を派出し臨検せしむことあるべし。3名以上の医学士(欧米の大学を卒業したるもの等、その履歴により本条に準ずることもあるべし)をもって教諭に充つること、生徒の員数に相当せる助教をおくこと、4年以上の学期を定めて、教則ならびに試験法の完備せること、付属病院ありて生徒の実地演習をなすこと。
右布達候事。
 明治15年2月17日  太政大臣 三条 実美
            内務卿  山田 顕義
           文部卿  福岡 孝弟 (2.22)
○県病院で10日に死亡した患者の父兄親戚が、規則にしたがって死体解剖の願書を提出した。直ちに聞き届けられ、12日に上道郡国富村(岡山市国富)の三軒家で病院の正副院長だけでなく、その他の医学士、病院生徒、父兄、親戚等およそ200人ばかりの立会で解剖された。(2.26)
○清野病院長は、運動のために撃剣(剣道)をするのは脳に害があるから弓術の方がよいという。近々協議のうえ弓術会が開かれる。(3.2)
○医会概則 岡山県録事 乙第13号 郡役所、戸長、役場
 今般伝染病および治療法等研究のため、医会概則左の通り相定め候条、各開業医の者へこの会を心得られるべく相達し候事。 
明治15年3月1日  岡山県令 高崎五六   (3.2)
○県病院は入院患者がしだいに増加して狭くなったので、近々増築される。(3.3)
○医師親睦会
 岡山市上之町細謹社の北村氏が発起人となり、15日に旧一の丸の観風閣で区内の医師の親睦会を開いて囲碁、書画など、それぞれ好きなことを楽しもうと提案し、多数の同意者があり開会される予定。(4.13)
 観風閣の医師親睦会は正午から開かれ、まづ清野病院長と菅校長の演説があり、それより囲碁や書画等を楽しみ、日暮れより酒宴が始まり、芸者を呼んで各自が十分に楽しんで深夜に及んだ。(4.18)
○乙第26号(医師子弟開業許可)
 本年3月乙第14号をもって相達し候、開業医子弟へ開業許可の証を与え候は当15年8月を限り、右期限におくれ候者は一切聞き届けざる儀と相心得べし。この旨相達し候事。(4.23)
 1874年(明治7)に医制が公布され、1879年(明治12)甲第3号布達によって、新たに医師になろうとする者は医術開業試験を受けなければならなくなった。 現在の医師国家試験である。ただし、それまで開業していた医師(従来開業医)、大学(東京大学のみ)卒業者、医術をもって勤めている者(奉職履歴医)は試験を免除された。さらに1882年(明治15)年3月には「開業医の子弟にしてその助手となり、医業をもって家名相続を欲する者は試験を要せず開業許可」という布達が内務省から出されている。開業医からの強い要望によるものであろうが、1ケ月後には早くも廃止が告示きれている。
○岡山県医学校特権下付の広告(5.2)
 岡山県医学校は東京大学以外で最初に、卒業すれば無試験で医師免許が与えられる特権を得たことを大々的に広告している。

○岡山県病院において来る10日より医学大会を開かれる由。(5.5) 
○岡山県医学校 今般規則と教則を改正し、毎年5月と11月に生徒50人を募集することになった。(5.11)進級試験は来る22日より行われる。(5.17)  
○本県より内務省へ伺い
 ここに人民奇症に罹り、百方治療を尽くすといえども漸次重症に陥り、全癒の目途これなき旨を了解し、我死後患部解剖あれば、医学上稗益少なからずやに思推し、生前において死後解剖願い出侯者等には、その赤心殊勝の至りと感ずべきにつき、死後解剖済追賞取り計らい候て云々。4月6日
 指令 書面伺いの赴き聞き届け難く候事。ただし学校費等により、遺族の者へ適宜帛祭料を交付するは苦しからず。5月1日(5.19)
 県病院で死後に病理解剖を行った場合、遺族に謝礼を支払うのは許されるかとの問い合わせに、謝礼はいけないが、適当な香料を贈るのは差し支えなかろう、という回答である。
○岡山県病院医学校
 岡山県医学校は先頃特別の免許を得ただけでなく、病院の評判も高くなり、この頃では諸府県より来て医学校、病院の模様を見学したいという人が続々あるという。(5.20)
○文部省は医学校通則を定め、医学校を甲乙の2種に分けて医育水準の向上をはかり、千葉、愛知、金沢、京都、大阪、三重、神戸、岡山、広島、長崎などの各医学校が甲種の認可を受けた。(5.27)
○医学校数論
 菅之芳、清野勇、山形仲芸、中浜東一郎、小川知彰は1等教諭に、吉田学は2等教諭に、川崎柄徳は3等教諭を命じられた。(5.30)
 県病院は眼科診察を清野医学士、外科診察を山形医学士、内科診察を菅、中浜医学士と定めた。(6.4)
○医学校の試験
 県医学校において過日試験があり、生徒200余名のうち試験生171人、及第生150人、第1優等生2人、第2優等生4人、落第生は21人であった。優等生には医書が褒賞として贈られた。(6.4)
○医学校
 岡山県医学校はこれまで夏中休暇のところ、来る11日より開校し、その日より入学試験を執行せられるという。(9.8)
○岡山医術研究会
 10月10日に岡山の開業医が医術研究会を開催した。出席者が多いために2つに別け、一方は生田安宅を、一方は難波立愿を会
頭に選んだ。(10.12)
○県医学校の実況 同校は甲種の特権を有する医学校で、医学士4名、製薬士1名、その他に別科卒業生数名、おのおの主要の学科を教授し、登校生200余名、すでに本年4月中に全科を卒業した生徒は別に内務省の試験を要せず、直ちに開業免状を下付される特権を有し、またこの頃は医学校に付属予備校の設置が計画されている。 設置の理由は甲種医学校で入学試験が難しくなったので、不合格者は予備校に入れて学力を養成するのが目的という。(10.17)  

○卵巣水腫病の手術
 和気郡日笠村の田中某という女性(26歳)は、卵巣水腫病(嚢腫)を患っていた。この病気は東京で有名な順天堂の佐藤進医師が手術をして、全治したのは1 人だけで外には助かった者はいない。田中某は県病院を受診し、たとえ死んでも恨みませんのでぜひ手術をと懇願した。そのため10月16日に外科の山形仲芸医師が、他の医師の協力のもとに手術を行い幸いなことに成功した。愚者と家族の喜びはいうに及ばず県病院の評判も高まった。この手術の成功によって、近日中に岡山の医師が集まって研究会が開かれるという。
 患者の病室は2週間前より厳重に掃除され、亜硫酸ガス、石炭酸蒸気などで消毒し人びとの出入りを禁止した。患者はもちろん術者などは3日前より他の患者に接しず、体を清潔にし、その日は消毒した衣服を着て手術器械の消毒も厳重にした。早朝より手術室に石炭酸蒸気を充満させて、患者、術者、助手が入った。手術は腹部を3寸5分(約10cm)切開し、5升(9,000ml)ほどの病水を含んだ卵巣の袋を摘出し、傷ぐちを縫い合わせて1時間で終了した。手術を受けた患者は意外に元気で日々快方に向かっている。(10.22)
○解剖伝染
 解剖も伝染するものか、この頃は各地から解剖を出願するものが増えている。都窪郡帯江の某は風土病でとでも助かりそうにないので、せめて死後は世のためになりたいと解剖を希望した。医師は都窪郡漸進社員(医師会員と思われる)を招集して協議し、県病院副院長の山形医学士の診断を受けた。虎列刺(コレラ)と違い、このような病気の解剖はよいことで世間の利益になる。(10.20)
○開業医試験
 県下で医術開業を希望するものに、来月15日より県医学校で医術開業試験が行われる。(10.27)
○備中浅口郡占見新田村の某は、母の死後に解剖して欲しいと出願していたが、このほど死亡し県病院より清野、菅、中浜の3氏が出張し、同郡中の医師がすべて集まり本日解剖せられるという。(11.5)
○医師取締規則
 このたび内務省は医師取締規則を改正するが、すでに草案もでき、逐条審議も終了したので参事院へ回される。条例中にこれまで医師に不都合があって営業停止を命じられたら、生涯にわたって復業できないという規則があった。このたびの改正により停止と禁止の2つ、禁止も重くて10年となり復業ができるように なった。またこの外に医師試験規則ができ中央衛生会において審議中という。(11.18)
○ベルツ来岡
 東京大学医学部内科教師ドクトル・ベルツ氏が医療視察のために24日に来岡。25日に県庁、医学校病院を視察。(11.26)
 ベルツ氏は26日に備中都宇郡妹尾村を訪れ、県病院の菅、清野、山形、中浜氏らとともに肝臓と脾臓が腫れる患者(肝臓ジストマ、現在の肝吸虫)を診察し、内山下の観風閣で医師との懇親会に出席した。
 また備後国安那郡川南村(神辺町)片山で、明治5年頃に同郡粟根村の医師窪田次郎が1種の病気を発見した。その原因がわからず土地の名から片山病と呼ばれていた。窪田はベルツの来岡を知り片山に来て病気の原因を調べてほしいと懇願した。この頃は備後福山地方に風土病に罹る者が数多くあるため、昨日岡山県病院より医学土中浜東一郎と菅之芳の両氏が検分のため出張した。(11.28)

1883年(明治16)
○私立衛生会創設広告 会員募集(3.8)
○告示第45条
 来る5月1日午前第9時より、本県病院において新開業医定期試験開場候条、右志願の者は明治12年2月内務省甲第3号布達医師試験規則第2条により、4月10日までに県庁へ出願可致此旨告示候事。
 明治16年3月19日 岡山県令  高崎五六 (4.1)
○眼科室新築の噂
 岡山区中の薬種商が募金して、県病院内に新たに眼科室を建設しようと協議中。(5.3)
○大医会
 明午前8時より県庁内において大医会が開かれた。諸案は各郡区小医会に巡回教師を招聘する件という。また衛生課より役所へ指示された各郡区小医会よりの 議案が提出された。大医会役員は清野勇、山形仲芸、生田安宅、その他の諸氏という。(5.16)
○人工体
 県病院より東大医学部本部庶務課へ値500円の人工体を注文していたが、完成したので送られるという。(5.15)
 人工体とは教育用の人体モデルであろう。
○ドクトル・ベルツ氏
 昨年本県へ治療検分のために来た東京大学医学部教師ドクトル・ベルツ氏は、近々東京を発して再び当地へ来られるという。(6.6)
○その筋(政府)において、各府県下の官公私立の病院および医師、薬舗(薬局)の数を調査した。
 官立病院3ケ所、同支院19、公立病院193、同支院40、私立同202、同支院11、計467ケ所。また官許を得 た開業医は内外科34,799人、産科514、眼科561、口科(歯科)504、整骨科286、産婆14,381人、薬舗(官許開業)6,481人。(6.12)
○中浜医学士は肝臓病と温泉の調査のため作州へ出張した。(9.20)
○9月の県病院外来総数1,998人。(10.3)
○岡山県医学校はいよいよ内山下旧城内西の丸へ移転が定まり、その営繕に取りかかる。(10.20)
○医学校広告(11.15)
 医学校の募集は5月と11月の2回であったが、11月の1回に変わった。試験は本科、予備科ともに12月17日に施行する。11月12日(11.27)
○福山地方の風土病(片山病)の調査のために菅、中浜両医学士が出張した。
(12.6)

1884年(明治17)
○通常県議会へ提出の支出予算議案
 総額64万円
  病院及び衛生費 22,078円
  衛生費1,659円 県病院費19,259円 伝染病予防費1,163円
 教育費
  中学校、師範学校費16,197円 医学校費10,099円(3.7)
○医学校数論の森田弘道氏は馬で通勤し校内に馬をつないでいたが、他の馬があばれだしたため森田氏の馬もあぼれ、そのため森田氏は釘で腹部を切り大怪我をした。(5.10)
○ベルツ氏 5月10日にベルツ氏が来岡し、県病院の中浜医学士とともに粟根村の医師窪田次郎が発見した片山病の調査のために、備後国安那郡川南村片山を訪れた。(5.13)
 同日は郡長、警察、郡の衛生会員が50人集まり、20人の患者を診察して病気について説明し、翌日は広島に向かった。(5.14)
○凛告 今般本校岡山区内山下西の丸へ移転す
 明治17年5月19日  岡山県医学校(5.22)
○医学校移転、第1回卒業証書授与式
 医学校は19日に内山下西の丸へ移転し、卒業試験を行い16人中及第者は11人であった。6月1日に移転式と卒業証書授与式が行われ、当日の出席者は県より県令、書記官、諸課長、裁判所より検事、判事、県下の都区長、県会議員、衛生委員、開業医などであった。『岡大医学部百年史』に出席者700人とあり、子孫の保存していた中浜東一郎教諭祝辞が掲載されている。しかし新聞によると出席者100人で、知事、校長、病院長、教論などの祝辞や卒業生の答辞の全文が掲載さ れている。午前10時の鐘を合図に着席し、音楽が演奏され、最初に高崎県令が祝辞を述べた。
 祝辞「本県医学校の営繕工事が竣工し、ここに開校の式を挙げ、あわせて医学全科の卒業証書授与式を 行います。この好結果を得るに至ったのは、県下の有志者の力と長年の地方税の力により、徐々に拡張した効果によりますが、そもそも本校の教員がよくその職に努力し、経理、教育が適切で、生徒がよくその教えに服従し、刻苦勉励しなかったなら、どうしてこのように立派になったでしょうか。
 私がかねてから強く希望していたことであり、喜びに耐えません。将来ますます奮励努力し、その成績を挙げられますよう心から期待し祝辞といたします。
 明治17年6月1日  岡山県令 高崎 五六」
 菅校長挨拶 「今日明治17年6月1日に移転式と、 医学全科卒業証書授与式という最大の盛典を行うに当たって、県令閣下のご列席を賜わり、金玉の祝辞をいただいたことは本校にとって大きな光栄であります。私は非才ながら校長兼教諭の重責をお受けし、日夜努力しましたが性魯鈍で、常にその任に耐え得ないことを恐れる者であります。ここに租辞ながらお祝いのご挨拶を申し上げます。
 今般本校において医学の全科を修め卒業証書を受ける諸君は11名です。そもそも本校の濫觴(らんしょう(はじまり))は明治3年で、爾来幾多の変遷があって、しばしば名称を改めましたが、おおむね病院の付属でした。明治12年に一大変革を行い、教則授業法を改正し、もっぱら東京大学医学部において医学士および別科生を養成する教授法を取り入れ、本校の教授法を新設し、とくにその実地経験は各々の実際に徴してこれを教示し、生徒もまた自ら親炙(しんしゃ)錬磨することができました。
 同13年に本校を別に設立して県立医学校とし、15年に無試験免許の特許の允可を得ました。今この全科を卒業せる諸君は、13年の前学期より新設の教則にしたがって教育を受け、蛍雪の苦をなめること4年ついに 好結果を結び、今日あるは諸君のよく努力したことによるもので、実に最初の本校卒業生であります。
 あえて申しますと、卒業生はその学説は大変高尚で文句はありませんが、未だ経験が浅く実地に至っては 旧医に遠く及びません。しかしながら学説と実地とはあたかも車の両輪のごとく、片時も離れてはならず、もしその1つを欠くと真正の医療とはいえません。
 最近は医学の進歩が早く、日々新たにして学説の変化も極まりなく、昨日の良説も今日すでに陳腐なものとなりますので、ますます勉強し努力しなければ医学競争の世に伍して行くことはできません。使命の重責を自覚し自戒し勉強して下さい。
 明治17年6月1日  岡山県医学校長 菅 之芳」
 祝辞が終わって卒業生を順次呼び出して卒業証書を授与し、さらに来賓や教師の祝辞がつづいた。
 県病院長祝辞「岡山県医学校の開校ならびに第1 回卒業証書授与式をお祝いします。本日の良き日に我が岡山県医学校の開校と第1回卒業証書授与式の盛典が行われます。これ以上の喜びはありません。
 そもそも我が岡山県医学校の沿革は、わずかに岡山県病院付属の一小教場に過ぎませんでしたが、早くから他府県の公立医学校に率先して規模を増大し、医学教育が盛大になりました。明治13年にこれを病院より分離して独立し、名声が高まり遠く他府県から笈を負うて入学するものが増えてきました。これは岡山県にとって栄誉なことです。次いで明治15年に医学校通則の交付せられる前から、政府はとくに本校に恩典を与えられ、他府県に率先し本校を卒業するものは別に内務省試験を要しないという特権を得るに至りました。これこそ我が岡山県の一大面目です。
そのうえ本年本日に至り、3たび他府県に率先し、第1回卒業証書授与式の盛典を挙げることができました。このように我が岡山県医学校は、他の医学校より率先して参りました。本校は多くの学生が東西より集まっていますが、その全力を学生の教育に注ぎ、あえて外観の美に重点をおいていませんので、その教育の進展度と校舎を比較すれば校舎はじつにお粗末であります。
 しかし昨年以来、校舎の建設に当たっては県下有志諸君は争うて貴重な財貨を提出され、地方税のカを借りずに完成しました。大変有難いことです。今日すでにその営繕を終わって本校を移転し、第1回の卒業証書授与式とともに開校式を挙行するこができました。岡山県人の学術を奨励する精神に富んでいることに感銘しました。
 衛生は文明生活に重要であり、広く人生の福祉に欠くべからざるは世間がよく承知しています。しかし、知っていても実行することは少ないように思います。我が岡山県の如きはそうではありません。大日本私立衛生会に加入する人員の数を見ても、岡山県人は加入する人が多く、東京を除くと他府県の遠く及ぶ所ではありません。これをもってしても、今日本校が天下に先鞭をつけたのも決して偶然ではありません。
 西洋諸国で盛んに学校が設立されるのは、実業上の効益が多いのは勿論ですが、これらの効益の外にも国民が忍苦艱難して経営し、風致ある高尚の事業を天下後世に伝える一大記念碑とすることができます。これを通常の金石で作る記念碑に比べ、無言のうちに人心を陶冶(とうや)する優劣は果たしてどちらが大きいか。本校が将来ますます奮励努力するならば、実用上の効益があるのは勿論、これを天下に公示して、厳然たる生きた記念碑とすることができるものと信じています。
 不肖の私がたまたま本県の知遇を受け、本校の第1回生から教育に従事し、そのため懐旧の情に耐えないものがあります。今日このような盛典を挙行する吉日を迎えるのは予想もできませんでした。私は手の舞い足の踏む所を知りません。本日、盛大な開校式と第1回卒業証書授与式に当たり、歓喜のあまり租辞ながら祝辞を述べました。    岡山県病院長兼医学校一等教諭 清野勇」
 つづいて教師、来賓として当時の岡山における政財界の指導者であった中川横太郎が祝辞を、次いで卒業生代表の津下甫一郎が答辞を述べた。
 菅校長謝辞「本日の開校式ならびに卒業証書授与式に当たり、紳士諸君のご臨席をお願いしたところ、貴重なお時間をいただき、遠路よりもご臨席を賜りご祝辞をいただきました。
 本校はご承知のように本県病院の中にありました。生徒が増加し 300人以上になり、校舎が狭く教育に不便となり移転しなければならなくなりました。この新校舎は高い所にあり、広く清潔で教育に便利となりました。皆様のお陰であると感謝にたえません。今後ともこの医学校で良医を養成し、国民の病気を救い若死を少なくし、衛生を充実して皆様のご厚意に報いたいと決意しています。諸教室に医学に関する器具、図書などを陳列して皆様に供覧し、その後に粗酒租肴ながら祝賀会を予定しています。」
 と挨拶があり、見学が終わって式場で盛大な宴会が開かれ、各自が歓をつくし午後3時に閉会となった。当日は市内の第1組、第2組の消防団が警備のために医学校に集まり、新校舎と第1回の卒業を祝い、まれに見る盛大な式典であった。(6.3〜4)
○医学卒業生広告
「本校定規の学科を脩め卒業試験に於いて及第せしもの11名あり。茲において内務省はその証書を認定し、客年交付の第35号医師免許規則第3条に基き、別に試験を須ひず医術開業免状を授与せられたり。特許医学校の卒業生にして之の規則に適ふたるものは之をもって嚆矢とす。」
 明治17年7月 岡山県医学校(7.20)
 卒業生11人全員の氏名が記載されており、その中の10人は岡山県出身で、最年少は20年10カ月、最年長者は29年10カ月で9年の年齢差があり、平均年齢は26年 6カ月であった。掲載の順位はイロハ順でなく、あいうえお順でもなく、生年順でもないことから、成績順であったと考えられる。
 第1回卒業生は11人に過ぎなかったが、母校に残った人、他県医学校の助教諭に推薦された人、軍医の道に進んだ人もあった。トップで卒業した津下(守屋)は陸軍一等軍医正となり、海軍軍医の矢部は、卒後3年足らずで早くも『ばくてりあ病理新説』を翻訳出版しており、日本人で初めてフランスのパスツール研究所へ留学し、のちに海軍軍医学校長に昇進した。

○追善供養
 県医学校では岡山区花畑の国清寺で、これまで医学研究のために解剖した人の追善供養を行い、生徒一同が参列した。(6.4)
○臨時病院設置
 備中浅口郡玉島町では先般の暴風で多くの死傷者が出たため臨時病院が設置され、県病院から2人の医師が出張し、児島郡福田新開でも同じく臨時病院が設置 され、県病院より2人の医師が出張した。(8.30)
○解職
 このたび県病院では大改革が行われ、一昨日三等医以下助診補に至るまで一同解職を命じられた。(9.7)
○広告 本校は徴兵令第19条に相当せる学校にして、修業1ケ年以上の過程を卆りたる生徒は、6個年以内徴兵猶予は勿論なり。然るに本校は同条に当否如何の質問者、往々これあるに付きここに広告す。
 明治17年9月30日 岡山県医学校(10.8)
○広告 今般本校におい本科、予備科生徒各100名を募集す。入学志願者は来る12月10日間迄に願出べし。但し入学試験は本科、予備科共12月15日より施行す。
 明治17年10月17日 岡山県医学校(10.26)
○県医学校では、このたび解剖学教室と器械室が新築された。(10.21)
○岡山区甲山下芳春館で行われる内務省医術開業試験の志願者は150人であるという。内務省御用掛の北里柴三郎、同省5等属の2人が内務省医術開業試験のため当地へ出張された。(10.29)
 のちに医界の巨星となった北里が、東大卒後2年目で早くも試験官として来岡している。(以下次号)