日本住血吸虫発見100年

 桂田富士郎先生の顕彰
 

日本住血吸虫発見100年

 今年は桂田富士郎先生が世界で初めて日本住血吸虫を発見して100年の記念すべき年である。日本の誇る画期的な研究として世界をリードし、医学、公衆衛生を中心とする多くの関係者の努力によって、日本から日本住血吸虫は完全に根絶されている。
 昨年の3月末に、かつての流行地であった筑後川流域の久留米大学御井キャンパスで「日本住血吸虫発見100年記念国際シンポジウム」が開催された。この会は第72回日本寄生虫学会と国際協力事業団、国際厚生事業団との共催で開かれた。中国、フィリピンなどの流行地だけでなく世界中から多くの研究者が参加し、発見100年を記念する、時機を得たすばらしい企画であったといわれている。このシンポジウム以外にも、11月に成田で「アジアの寄生虫症へのアジア独自の戦略研究国際シンポジウム」も開かれている。
 日本医師会『日医ニュース』は「医史百年−20世紀の医学・医療をふり返る」の連載記事で、すでに2001年952号に「日本住血吸虫症と桂田富士郎」と題して発見にいたる経過を紹介しており、さらに昨年1,008号は「日本住血吸虫発見100年」を掲載して、桂田の後世にのこる業績を称賛している。また本年1月10日発行の『医学のあゆみ』208巻2号も「日本住血吸虫発見100年」を特集し、本学の寄生虫学を担当された石井明名誉教授がその巻頭文を執筆している。
 昨年の夏も終わりに近づいたころに医学部長の岡田教授に面談し、日本住血吸虫の発見100年を迎えるに当たって、岡大医学部として桂田富士郎先生の顕彰を要望した。桂田先生は本学の初代病理学教授であり、学部長はその流れを継いだ教授であることから、即座にご理解をいただいた。その後に文書での提案を希望され、翌日には資料を添えて提言を郵送した。

 

岡大医学部長 岡 田 茂先生 2003年11月17日
                  小 田 晧 二
桂田富士郎先生顕彰の提言
    趣  旨
 日本住血吸虫の発見とその生活史の解明は、20世紀の医学で日本人が果たした最も輝かしい業績であるといわれています。かつて広島県神辺町片山一帯、山梨県甲府盆地、福岡県筑後川流域などの各地に、たんぼに入ると皮膚のかゆみ、発熱、下痢、腹水を来たす風土病が地域住民に深刻な被害を与え、原因不明の奇病として恐れられていました。
 1904年(明治37)4月9日に、本学の前身である岡山医学専門学校の桂田富士郎教授(病理学)は、流行地甲府の三神医師の好意によってネコを解剖し、臓器を岡山に持ち帰り、5月26日にその門脈内から新しい寄生虫を発見しました。また肝組織内に患者の糞便に見られたものと同一の虫卵を認めました。さらに7月に再び甲府でネコを解剖し、門脈から多数の雌雄異体の吸虫を検出して「日本住血吸虫」(Schistosoma japonicum KATSURADA,1904)と命名し、世界の学会から認められました。
 1913年(大正2)に九大の宮入慶之助、鈴木稔(のちに本学細菌学教授)によって中間宿主カタヤマガイが発見され、日本住血吸虫の生活史のほとんどが日本で解明され、1918年(大正7)、桂田は人体から虫体を発見した京大の藤浪鑑教授とともに学士院賞の栄誉に輝きました。
 日本住血吸虫は日本から消滅していますが、今でもアジアに広く分布し多くの人びとを苦しめています。そのため本年3月、流行地であった久留米で「日本住血吸虫発見百年記念国際シンポジウム」が、さらに11月には、成田で「アジアの寄生虫症へのアジア独自の戦略研究国際シンポジウム」が開かれました。日本医師会も、最近の『日医ニュース』で桂田の業績を称賛しています。
 片山地方には藤浪の顕彰碑があり、宮入も学勲碑、記念館、九大医学部の宮入通りなどにより顕彰されています。桂田は郷里の加賀市医師会によって母校の小学校に胸像、中央公園にレリーフが設置されていますが、岡山では何らの顕彰も行われていません。
独立行政法人化を迎えるに当たり、日本住血吸虫発見100年を記念し、本学部の誇りとして、不朽の業績によって医学の進歩に貢献した桂田富士郎先生の顕彰を提案します。

 

記念事業
 @桂田富士郎大理石像(資料室蔵)のリニューアル公開、2004年5月26日(水)除幕
 A記念シンポジウム開催(できれば)
 B桂田の収集と公開(できれば)
資 料
 1. 略歴(『岡山県歴史人物事典』中山沃、1996)
 2. 桂田富士郎写真(『岡山医学会50年史』、1939)
 3. 講義写真(資料室アルバム)
 4. 大理石像(資料室)
 5. 加賀市錦城小学校の再建胸像碑文(『同大病理学教室開講百周年記念誌』1993)
 6. 論文の一部
 7. 日本住血吸虫と生活史(『医寄生虫学』1983)
 8. 片山貝(資料室)
 9. 日本医師会『日医ニュース』2003.9.5
 10. 「日本住血吸虫発見百年記念国際シンポジウム」2003.3.30(日本寄生虫学会ホームページ)
 11. 「アジアの寄生虫症へのアジア独自の戦略研究国際シンポジウム」2003.11.12〜14(日本寄生虫学会ホームページ)

 

片 山 病
 岡山県に接する広島県神辺町片山付近の風土病については、19世紀初めの文化時代から記載されて、古くから不治の病として地域の住民から恐れられていた。『西備名区(1804)や『福山志料』(1809)にこの病気と思われる記述があり、沼隈郡山手付(現福山市山手町)の漢方医・藤井好直は、幕末の1847年(弘化4)に『片山記』を執筆している。地域の風土病の症状などについて驚くほど正確に記録しており、これは最初の貴重な医学文献である。原因が全く不明で治療法がないことを嘆いており、以来この病気は片山病と称されてきた。片山記は漢文で書かれ要約すると次のようである。
 「備後の国の神辺の南は川南村といい、小山が2つあって1つは碇(いかり)山、もう1つは片山といい片山は漆山ともいう。昔はこの盆地は海で、あるとき漆を積んだ船が転覆した。初夏のころ田を排して水に入る者は漆にかぶれ、手やすねが薄くなり、牛馬も同じで多くの人々が患った。これは漆のせいだとされた。
 次いで下痢をしたり、手足がやせ細り、体が黄色くなって腹ばかり太鼓のようにふくれ、だんだん弱って死んでしまう人もいる。自分が診ただけでも30人以上の人がこの病気で死んだ。牛や馬も何10頭も倒れた。この病気は片山の周辺だけではなく、もっと広く存在している。どういう毒でこの病気になるのか、原因がわかれば治療もできるが、今まで誰も成功した者はいない。よその同業者に聞いてみたい。」
 さらに30年後に『片山附記』を書き「片山病はいぜんとして人々を苦しめており、原因は水田に入ったとき手足がかぶれる毒物であるに違いはないが、それが何か、東西の医学書を見てもわからない」と病因の解明が急務であると述べている。
 1882年(明治15)に広島県は片山病調査委員会を組織し、はじめて本格的な調査に乗り出しており、本病の対策に早くから岡山県医学校が関係していた。
その年の『山陽新報』によると
11月28日 「ベルツ来岡 東大医学部内科教師ドクトル・ベルツは、医療視察のため11月24日に来岡し、県庁、医学校、病院を視察した。26日に備中国都宇郡妹尾村を訪れ県病院の菅、清野、山形、中浜氏らとともに肝臓と脾臓が腫れる患者(肝吸虫)を診察した。次いで内山下の観風閣で医師との懇親会に出席した。明治5年頃に備後国安那郡川南村(現神辺町)片山という所で、同郡粟根村の医師・窪田次郎が1種の病気を発見した。その原因がわからず、土地の名から片山病といわれていた。窪田はベルツの来岡を知り、片山に来て病気の原因を調べてほしいと懇願した。備後の福山地方には風土病に罹るものが多く、昨日、県病院より医学土菅之芳、中浜東一郎の両氏が見聞のために出張した。」
 ベルツは日本の寄生虫学に初めて近代的な光を当てたドイツ人医師で、岡山地方における肝吸虫の調査に関心を持って来岡した。教え子の医学校教授とともに妹尾と岡山監獄で肝吸虫の患者を診察し、窪田の依頼によって神辺へも調査に行き、岡山では医学校で学生に講演を行っている。余談であるが、このとき会場になった2階教室の底が抜け落ちるというハプニングで大混乱になった。ベルツは岡山から帰ってから内務省に肝吸虫に関する意見書を提出している。
 1883年(明治16)6月6日「昨年、治療検分のために来岡した東大医学部教師のドクトル・ベルツ氏は、近々東京を出発して再び当地へ来られるという。」
 同12月6日「福山地方の風土病の調査のため菅、中浜両医学士が出張した。」
 1884年(明治17)5月13日「5月10日にドクトル・ベルツ氏が来岡し、県病院の中浜医学士とともに粟根村の医師、窪田次郎が発見した片山病の調査のために備後国安那郡川南村片山を訪れた。」
同5月14日「同日は郡長、警察、郡の衛生委員など50人が集まり、20人の患者を診察して病気について説明し、翌日は広島に向かった。」
 最大の流行地であった山梨県においても、武田信玄の故書で知られる『甲陽軍鑑』(1582)に、すでに本症と思われる記載があるという。長いあいだ水腫腸満、はらっぱり、などといわれて苦しんでいた患者の訴えにより、1881年(明治14)頃から医師が注目するようになった。1887年(明治20)に患者の糞便に1種の虫卵が認められ、1897年(明治30)には山梨県における最初の剖検で、肝臓と十二指腸に特有な新虫卵を認め、寄生虫が原因ではないかと疑われるようになっていた。
 このように1寄生虫卵が病原の焦点となったため、1902年(明治35)に山梨県医学会により、県内外の研究者を招いて「山梨県における1種の肝脾肥大の原因について」の研究会が開かれた。研究者の意見は一致しなかったが、原因としての新寄生虫への焦点がますます狭められて来た。岡山に多い肝吸虫の発育史に関心を持っていた桂田は、山梨の病気にも肝吸虫が関係しているのではないかと疑っていた。そのため、2カ月前にドイツ留学から帰朝したばかりであったが、この研究会に参加した。

新寄生虫発見
 2年後の1904年(明治37)4月6日、桂田は再び甲府へ行って三神三郎医師を訪れた。三神は「多くの患者を診療して患者の糞便から特有の虫卵を見つけて、それが本症に関係しているのではないかと主張していた篤学の医師であった。桂田はすでに剖検された3人の肝臓を入手して詳細な病理組織学的な検査を行っており、肝臓内に患者の糞便に見られるものと同じ卵が存在することを確認していた。
 甲府で男女12人の患者について臨床的に観察し、11人の糞便検査から5人に問題の虫卵を見つけ、詳細に観察して次のように考えた。この虫卵は1種の吸虫と思われ、すでに知られている吸虫の中ではビルハルツ住血吸虫(Schistosoma hematobium)に一番近いがそれとも違っている。卵蓋がないので1種の雌雄異体吸虫のものであろうと予想した。この卵は患者の糞便にいつも見られるのではなく、下剤を使用したときに多く見られることから、母虫はおそらく消化管内にいるのではなく、消化管壁または消化管に関係のある臓器に住んでいるものと推定した。さらに飛躍して、その母虫が1種の吸虫であるならばヒト以外の宿主、たとえばイヌやネコにも寄生している可能性があるのではないかと考えた。驚異的な卓見であり、これらの推理は見事に的中した。
 4月9日、三神宅に11年間飼育され感染の疑いがある1匹のメスネコが提供された。これを解剖し、とりあえず内蔵の肉眼的な検査を行い、アルコール漬けにして詳しい検索は岡山で行うことにした。このとき2頭の犬も解剖されたが得るところはなかった。
 5月26日、桂田は岡山医専の病理学研究室で、山梨から持ち帰ったネコの内臓、とくに肝臓について詳しい検索にとりかかった。肝臓の出入管をいちいち調べて、ついに門脈から十二指腸虫より細く小さい1匹の虫体が見つかった。顕微鏡で調べると、体の後の部分が欠損しているが間違いなく1種の虫体である。いままで日本で見られたことのない寄生虫であり、おそらく住血ニロ虫またはそれに近い吸虫、しかもオス虫であろうと推測した。このネコの肝臓から、他の患者の肝臓や糞便に見られたと同じ虫卵も見つかった。
 桂田は門脈内の虫体と、肝小葉間の虫卵とは親子の関係にあり、本病の原因としてきわめて重要な意義を持つものと考えた。そこでこの虫体について、日本における近代寄生虫学の開祖である東大動物学の飯島魁教授の意見を求めた。
 「冊子が着いたのは京都の藤浪君が来て、これまでは不安定であった卵中にmiracidiumらしいものが見られたと聞き、その話をした数時間後のことで大変興味を感じました。貴説のとおり吸虫類の卵であることは疑う余地はありません。しかもBilharziaまたは、それに近い属の1種であろうとの貴君のご意見と全く同じです。7月14日」という返事であった。
 桂田が甲府で初めて新しい虫体を発見したわずか4日後の5月30日に、藤浪もまた片山で殺人による患者の屍体から1匹のメスの虫体を発見していた。しかしその虫体も後部が欠損した不完全なもので、新種として報告するには無理と思われた。桂田が飯島に送った論文は「山梨県下の地方病に就いて」と題した『岡山医学会雑誌』173号と思われ、『東京医事新誌』にも「山梨外数県に於ける一種の寄生虫病の病原確定」と題する同じ論文を投稿している。
 同年7月、桂田はまたも甲府を訪れた。前回と同じょうに三神医師の世話により、同地で飼われていた腹部の膨満した、栄養不良のネコを解剖した。その結果、肝臓門脈枝からオス24匹、メス8匹の完全な虫体、しかもオスメス抱擁する5組の虫体を得ることができ、肝臓内からも、これまで患者の肝臓内に見いだされているものと同じ虫卵も認められた。
 これで予想どおりこの虫体が問題の虫卵の母虫で、しかも本病の病原虫であることが確実になった。桂田は同年8月、日本で発見され血管内に住む吸盤を持った寄生虫ということから、新種としてSchistosomum japonicum 日本住血吸虫と命名、のちにSchistosoma japonicumと改めた。桂田の発見は1904年(明治37)8月13日の官報第6337号に掲載され、ドイツ語でも発表されている。一方、ドイツのカットーがシンガポールで同じ吸虫を発見しており、1905年にカットー吸虫と命名したが、命名法の規則によって桂田が第一発見者であると追認された。桂田に次いで藤浪による人体における虫体発見があり、その他の研究者の追認があって本症の原因が確定されたが、桂田に虫体最初の発見者という輝かしい栄誉が与えられた。
 中山沃名誉教授の「桂田教授の日本住血吸虫発見の地探訪記」(『同窓会報』74号)によると、いまは三神医師のお孫さんの柏氏が、同地で脳外科内科を開業している。診療所に隣接する居宅の広い庭に、銅版がはめ込まれた高さ約1mの自然石があり「明治三十七年七月三十日此の地に於いて初めて日本住血吸虫が発見された 三神三郎」と刻まれている。この日は桂田が再び三神家を訪れてネコを解剖し、完全なオスメス32匹の虫体を摘出した記念の日である。新しい寄生虫の発見という偉業は、三神の理解と協力なくしてはなし得なかったであろう。桂田は論文の中で三神に対して深甚な感謝のことばを記している。

感染実験
 片山病は広島県の神辺町片山地区だけでなく、高屋川流域の風土病であり、岡山県の井原市にもあった。神辺町に隣接する井原市西部の高屋町では耕地名から「西代(にしだい)病」といわれ、場所は高屋であるが、病人はその地を耕作していた大江の住民であった。ただし片山地区より患者の数ははるかに少なく、井原市には西代病に関して全く記録が残っていない。しかし、当時の新聞や『岡山医学会雑誌』には詳しい記録がある。
 1908年(明治41)11月27日の『山陽新報』には「日本住血吸虫病発生 備中国小田郡大江村に日本住血吸虫病が発生しているので、その地域について調査の必要があり、桂田博士は去る20日に同地へ出張し、種々取り調べの上22日に引き揚げた。
 備中国後月郡高屋村より南下して、大江村を通過する一流れの川があり、高屋川という。その西側に西代と称す土地が五町歩余あって、その田用水は高屋川の支流で、大江村の北端より別れて西代の西側を流れ、同地の潅漑に使われている。同病の発原地はその田用水の分流にあって同水に手足を触れるときは、たちまち「カブレ」の姿になり、しだいに痺みを感じ、次に腹部が大いに膨張するという。最も発病し易いのは田植時期より田草取り期である。西代と称す土地を耕作する者は、田上と称する20戸ばかりの部落で、同地より大江小学校に通学する児童の35人中の8人は同病の疑があり、検便が必要であるために目下同博士の手で取調べ中という。」
 このような記事があり、翌年6月13日には

 「日本住血吸虫病調査 小田郡大江村字西代(西代は高屋)と称する所に、日本住血吸虫病が発生してから、岡山医学専門学校教授の桂田博士が専心研究していることは再三にわたって報道されている。この病気は毎年田植え時期から田草取り期に、人体の皮膚より侵入して、発生するのであろうと想像されているが、未だ確実な調査は行われていない。今回はその研究をするのが目的で、去る11日に桂田博士は同校の長谷川助手医とともに、笠岡駅午前10時47分着の山陽線下り列車で下車しただちに同地に出張した。ちなみに研究材料としてイヌ4頭、ネコ1頭を持参したが、一行は後月郡高屋村大字高屋の角中旅館に一週間ばかり宿泊の予定という。」
 桂田による西代病の調査と実験は1908年の秋から始まった。大江地区は高屋と神辺町に隣接して、一部は高屋川が境になっている。当時の大江村は戸数342、人口1,840人、そのほとんどが農家であった。田上という小部落は戸数53、人口は262人で、人家は滝山という小山の南にあって、住民の生活は大江の他の地区民と変わるところはなかった。この部落の20戸(人口117人)は滝山の北にある西代の5ヘクタールの地を耕作しており、わずか117人の中から西代病にかかる者が多かったという。1906年(明治39)の深安郡中津原(福山市中津原)小学校児童の片山病は151人中33人で21.8%、片山地区の最盛期であった1920年(大正9)の片山地区の患者は2,150人で、地区人口の7%にも達していた。
 西代病もせまい地域にかなり濃厚な感染があったものと推測される。毎年初夏の田植えの時期に西代の水田や溝に入ると、非常な痺みを感じてから〈かぶれ〉ができ、日中の炎天よりも朝夕に田へ入ったときが多かった。これは人間だけでなく水田で働くウシも同じであった。
 イヌ、ネコを用いた実験は6月12日から始まった。改良した首かせを特製し、頭部は板上にあって寄生虫が口から入らないようにし、腹壁を一部剃毛して1日3回30分づつ水に浸け直ちに岡山へ帰して飼育した。ネコは7月上旬より衰弱し、中旬には糞便に虫卵が認められ、同月26日に斃死し、解剖によって門脈内に多数の虫体を確認した。イヌの実験でも同様の虫卵を認めることができた。このような感染実験、石灰などによる予防実験を行い、皮膚から感染すること、石灰によって感染を予防できることを実証し、早くから予防対策を提唱している。この実験は官報第7840号(1909、明治42年8月12日)に「日本住血吸虫の動物体内に侵入する経路およびその予防法」と題して掲載されている。中間宿主が発見される以前のことである。
 1913年(大正2)に流行地であった九州鳥栖で、九大の宮入慶之助教授と鈴木稔助手により中間宿主のミヤイリガイが発見され、本虫に関する知見はほぼ完全になった。鈴木はのちに本学の細菌学教授になったが、この貝を発見したのは鈴木であるといわれ、岡山ではミヤイリガイでなく、カタヤマガイと称され、資料室には鈴木が発見した貝と、そのとき使ったという杖が保存されている。

岡山の桂田
 桂田は1867年(慶応3)に、大聖寺藩士であった庄田豊哉の長男として石川県大聖寺(現在は加賀市)で生まれ、幼名は幸吉と称した。1882年(明治15)に錦城小学校の高等小学全科をトップで卒業し、翌83年5月に石川県金沢医学校に進んだ。満16歳であったが17歳以上でないと入学が許されなかったので、願書には17歳と記載したという。在学中に金沢医学校は甲種医学校となり、医術開業試験を経ずに医術開業免許が授与されることになった。成績優秀のために置時計を賞与されており、87年(明治20)7月に成績甲、医学校もトップで卒業した。この年、桂田家に入り名を富士郎と改めている。
 卒業後は友人とともに上京して、郷里の先輩で東大薬物学の教授であった高橋順次郎に入門を希望した。ところが高橋は将来のため薬物ではなく、ドイツ留学から帰朝したばかりの三浦守治教授について病理学を学ぶように勧めた。当時の病理学教室は教室員が少なかったために歓待され、無給助手、次いで新たな制度による専科生として指導を受けた。89年4月から翌年11月まで付属の第一医院勤務を命じられ、診療と研究のため脚気病室に勤務している。さらに内務技師見習として中浜東一郎に細菌学も学んでいる。中浜は岡山から金沢医学校に校長として転任した、かつての恩師であった。
 早くから頭角をあらわし、三浦の推薦によって1890年(明治23)7月14日に、岡山の第三高等中学校医学部の講師を命じられた。23歳の若さで赴任し、病理学と法医学を担当することになった。3年後の93年9月1日に教授に昇任し、これは東大以外の医育機関では初めての専任の病理学教授であった。学生の教育とともに多くの論文を発表しており、早くも1894年(明治27)には『病理汎論』を執筆している。
 1899年(明治32)5月26日、文部大臣より病理学研究のために2年間ドイツ留学を命じられた。8月31日に神戸港から若狭丸で出航し、フライブルグ大学のチーグレル教授に師事した。フライブルグで7編の論文を発表し、動物学、生化学、衛生学、内科、外科、婦人科なども聴講して知識を広め、ドイツの大学に共通する学位試験を受け、ドクトル・メヂチーネ・ウニヘルゼーの学位を受領している。これは新しい規定による最初の外国人であったという。1901年(明治34)1月、文部大臣よりイタリア、オーストリア、ロシア巡遊を許可され、ロンドンを経由し1902年2月に帰朝した。同年5月に東京大学に論文を提出して医学博士の学位を授与された。
 05年(明治38)1月、京都帝大福岡医大(現九大医学部)の講師を嘱託されて病理学教室の責任者に指名され、翌年の8月に講師の嘱託を解かれた。そのとき桂田を福岡の専任教授として招きたいとの要望があり、福岡の学長が岡山に来て懇望した。九州から3人の学生代表も来て桂田に請願し、岡山の菅校長も九州への転任を了承した。しかし桂田は学長の厚意に感謝しながらも「学者がいたずらに水草を追うように、多少の好条件に幻惑されて転々としてその椅子を変えるのは節操上よくない。私は岡山の椅子をして高価ならしめることに興味がある」という自己の信念により、九大への転任は実現しなかった。
 のちに桂田は「九州への転任は同僚教授といい学生の素質といい、何一つ不足はなかった。ただ一つ転任を躊躇したのは、当時熱心に主張していた医育統一、医学専門学校の大学昇格問題とあい入れなかったからである。医専にあって大学教授の声がかかると、すぐ転任してしまったら、その医専は発展のしようもなくなり、また大学教授の名にあこがれて医育統一と騒いでいると思われるのは心苦しい、という考えから福岡行きをお断りした」と述べている。しかしながら岡山留任は、その後の桂田の人生に大きな影響を与えることになった。
 桂田は岡山へ赴任して以来、教育と研究に対して精力的に情熱を傾け、世界に誇る研究業績はすでに学会においても周知されており、とくに、日本住血吸虫の発見者として確固たる名声を博していた。学内にあっては1903年(明治36)には早くも岡山医学会の副会長に推され、会の発展に尽力して第一人者になっていた。『岡山医学会雑誌』が発行されて以来、桂田自身または指導による研究論文をほとんど毎号にわたって発表しており、さらに医学制度、医学史についての随筆や批判、論戦なども掲載されている。『岡山医学会五十年史』の明治編も桂田が執筆したものである。
 

分限休職と学校紛争

「文官分限令第十一条第一項第四号により休職を命ず
 大正元年十一月九日      文部省」

  1912年のこの日に突然、桂田は休職を命じられた。『岡山大学医学部百年史』にも、この間題についての記事が見られる。当時は学校の設備改善や、医科大学への昇格という強い要望がなかなか達成されず、学生間に学校当局とくに菅校長への不満が高まっていた。桂田は研究や教育に熱心な看板教授として学生に人望があり、学校の改善についても忌憚のない意見を述べることもあった。そのために校長との間にふかい亀裂が生じ、校長は文部省に対して桂田を非難する報告を行った。自信満々の桂田への恐怖感、新しい寄生虫発見の先陣争いに関する中傷もあったという。文部省は菅校長の意見にしたがって桂田を休職処分とした。
 これに対して学生は桂田の復職を要求してストライキを行い、さらに代表が上京して文部省に桂田の復職と学校の改善を陳情した。校内にも学生に同調する声があり、岡山市民や病理学会などからも桂田への同情が寄せられ、校長だけでなく文部省への非難も高まってきた。その解決のために文部省としては桂田を復職させることはしないが、その他については学生の要望にある程度の理解を示したことから、学生も一応平静となってストライキを中止した。
 紛争の責任をとって校長が辞任するものと期待されていたが、辞意の表明はなく、学校改善についても実現の動きが見られなかった。そのため5月の校友会が紛糾し、学生が校長や教授を罵倒したことから、教授会は過激な発言をした3人の学生を放校処分とした。そこで学生は大会を開いて決議し、岡山市や商工会議所などによる努力も空しく、再びストライキに突入した。解決が困難であったが文部省から局長が来校し、校長が辞表を提出したことによってストライキが解除された。しかし放校処分の3人に対しては処分が撤回されず、全国の注目を集めて半年以上にわたった岡山医専の騒動もようやく終結した。
 付属病院の改善については、すでに1906年(明治39)2月頃から学生が校長に要望を出していた。医専と付属病院である岡山県病院に関して多くの不合理があることから、別に付属病院を新設するか、国が県病院を買い上げて文部省の直轄とし、医専の付属とするよう学生が決議した。そのため議員に依頼して国会へも請願し、さらに政府へも建白書を提出した。
 当時は福岡医大の新設、仙台医専を大学に昇格して東北帝大を新設する機運が熟しており、また東大医学部の教授有志も、官立医専の教育水準を高めて、医科大学にすべきであると建議していた。さらに近い将来には医術開業試験の廃止も予測されており、文部省にも医学教育を統一して医学専門学校を大学に統一する意見も出始めていた。学生は同志会を組織し、規約を決議して大学昇格の運動を始めており、校長に対して早期実現をつよく要望していたが、なかなか進展は見られなかった。
 そのため、学生の声に理解を示していた桂田と校長との関係が急速に悪化したのであろう。付属病院の改善にしろ、大学昇格にしろ、どちらも一校長の権限で簡単に解決できる問題ではなかったし、大学教授への栄転を辞退し、岡山へのつよい愛着と期待を抱いていた桂田にとっても残念な幕切れとなった。
 桂田の岡山在任は25年で終わりを告げた。結果として岡山はすぐれた有名教授を失い、33年間も校長として貢献した菅校長にとっても、まことに不本意な退陣であり、桂田の休職と校長の交替は当時の岡山医専にとっては重大事件であった。桂田が現職を去ったことは、学界はもちろん岡山の関係者や在学生に大きな衝撃を与えた。「岡山の桂田」として天下に鳴らした桂田を失うに至ったことは、岡山医専としても大きなマイナスになったといえる。
 菅校長は辞表を提出し、7月15日に校長兼教授を免じられ、千葉医専教授であった筒井八百珠がその後任に任命された。新校長は大学への昇格について抱負を語り、反抗の悪弊を去り、和衷協同を最重視すべきであると新任の辞を強調した。
 文部省は桂田の休職処分が早計であったと考慮したためか、その翌年の1913年(大正2)にロンドンで開かれた万国医学会の日本代表委員として桂田を派遣している。命によって医学会で日本住血吸虫に関する講演を行い、帰朝後に文部大臣に復命し、これにより休職問題が一段落することになった。
 しかし一連の紛争は学内外に大きな影響を与えた。1914年(大正3)の第25回岡山医学会総会は、例年のように2月に開かれたが、第1日午前10時の開会予定になっても来会するものが少なく、そのために副会長の桂田が11時半に開会を告げたが、なお来会者が少ないため予定を変更し、午後1時閉会を宣告し退散した、と記録に残っているを見ても明らかである。なお2日日学会後の懇親会も出席者は37人という、かつてない淋しさであったのも波瀾の余波であった。
        

学界奉仕50年
 1914年5月、桂田はかねてから東大理学部に提出していた「吸虫類の研究について」の論文により、理学博士の学位を授与された。また11月に大阪商船の中橋徳五郎社長の支援によって、念願していた船員病及び熱帯病研究所と付属摂津病院が神戸に設立されて所長兼院長に就任した。
 16年(大正5)2月に、岡山医学会は総会において新たに桂田を名誉会長に准挙し、次いで18年(大正7)5月に、桂田は「日本住血吸虫の研究」によって、京大教授の藤浪とともに帝国学士院賞受賞の栄に輝いた。桂田自身の研究と、指導した病理学のテーマは寄生虫に関するものが最も多く、桂田の名で発表した論文は200編に達し、そのうち欧文論文は21編であった。とくに寄生虫の病原的意義については、世界的にもその権威が認められていた。
 1911年(明治44)から2年間は日本病理学会の副会長を勤め、18年(大正7)に会長、31年(昭和6)に名誉会長に推挙されている。この間、20年(大正9)にイタリアのゼノアで開かれた海員に関する労働会議の日本政府代表委員顧問として派遣され、欧米各国における医学教育に関する調査を命じられた。29年(昭和4)にはロンドン王立医学会の名誉会員に推され、同年の第2回日本寄生虫会の会長を勤めている。
 桂田の該博な知識と行動力のため、日本海員救済会の名誉院長、財団法人大阪病院やその他の病院の医事顧問、岡山からも県地方病調査委員、検疫委員、検疫官、市立衛生試験所顧問を委嘱されていた。18年には私財を投じて生前処分による寄付行為により、1万2千円を寄付して財団法人・船員病及び熱帯病学奨励会を設立した。この研究所からは多くの優れた研究が公にされ、寄生虫学の進歩と後進の指導に貢献した。
 桂田が1890年(明治23)7月14日に岡山へ赴任して50年を迎えるのを記念し、門下生によって「桂田博士学界奉仕第五十周年記念会」が企画された。記念祝賀会は39年(昭和14)10月14日、神戸オリエンタルホテルで開かれ、発起人307人、協賛人418人という多数で出席者は数百人に達した。
 門弟代表        台北帝大教授 横川 定
 友人総代  前大阪医大(阪大)学長 佐多 愛助
 岡山医科大学         学長 田村 於兎
 東京帝国大学        前総長 長与 又郎
 日本病理学会    東京帝大教授 三田村篤志郎
 日本寄生虫学会     岡山医大教授 鈴木 稔
 兵庫県医師会         会長 細身 慶吉
 これら医学界の他にも、郷里の代表や後援者の大阪商船社長など名士の祝辞があいつぎ、まれに見る盛大な祝賀会であった。世界に誇る業績、気力旺盛で3時間の睡眠による超人的な活動、門弟へのふかい思いやりと支援、明日に延ばさない即決主義などの人間像が紹介された。岡山から田村学長と鈴木細菌学教授が出席し、学長は次のように祝辞を述べている。

 「桂田先生の学界奉仕50周年記念式に当たり祝辞を述べるのは大変光栄です。
 先生が学会に奉仕せられること実に50年、その多彩な功績は数えられないほど多く、わが岡山医科大学との関係は、明治23年7月に本学の前身である第三高等中学校医学部に来任され、病理学および法医学の主任として親しく教鞭をとられました。のちに大正3年11月に岡山医学専門学校の教授の職を辞任されるまで、25年の長い育英と研究に全力を傾倒されました。
 わが医学界は当時はまだ黎明期で、病理学の勃興は絢爛たる先生の業績にまつものが多かったのは申すまでもありません。教室の基礎が固まり、医学界の評価も高まってきました。本学は岡山医学専門学校の後身で、わが病理学教室はその基礎の上に立っています。さらに私は若いころに福岡医科大学(九大)で学び、親しく先生に教えを受けました。私が病理学に専心することになったのは、先生の蘊蓄と雄弁がこの学問に興味を向けさせたからであります。
 私は先生の教え子であり、専門が同じで病理学教室の主任として先生の後継者であるだけでなく、さらに岡山医科大学長の職にあります。奇しくも三重の宿縁があり、喜びもひとしおです。先生は古希を過ぎても精励ぶりは往時と変わらず、まことに常人の企及し得るところではありません。ここに先生のご長寿を念じて慶賀の意を表します。」
 翌40年9月20日、奨学金と優等生に時計を贈っていた郷里大聖寺の母校、錦城小学校において記念の胸像が除幕され、桂田邸内の記念文庫が披露された。胸像の作者は新進気鋭の彫刻家・樽谷清太郎で、1基は小学校に、もう1基は邸内に置かれた。除幕に当たって門人を代表して台北帝大教授の横川定、町長、岡山医大(田村学長)、東大病理などからの祝辞の外に、文部、海軍、厚生省の3省からも祝辞が寄せられた。
       

桂 田 賞
 桂田は1945年(昭和20)3月の神戸の空襲ですべてを焼失したのち、生地の加賀大聖寺に帰って、翌年4月5日に肺炎で死去し79年の生涯を閉じた。
 1940年(昭和15)に盛大に除幕された郷里の胸像は、早くも3年後の43年に軍需用に供出されてしまった。戦後は代わりに木柱が立てられていたが、撤去されて30年が経過した73年(昭和48)に加賀市医師会によって再建された。また加賀市は、桂田など郷土の先人顕彰のために、中央公園の歴史民俗広場の一角にふるさと人物ロードを設置し、自然石に肖像と業績をブロンズレリーフとしてはめ込んで功績を讃えている。
 戦後の1948年(昭和23)に桂田賞が創設された。この賞は桂田が学士院賞の賞金をもとに奨励会を設立し、熱帯病や寄生虫病に関する優れた研究者に贈っていた奨励賞を受けついだものである。第1回の桂田賞は、台湾から引揚げたばかりの、台北帝大医学部の寄生虫学教授を勤めていた横川定が受賞した。横川は本学の出身で、桂田の推薦によって赴任した台湾で新しい寄生虫を発見し、桂田によって横川吸虫(Metagonimus Yokogawai Katsurada,1911)と命名された。千葉大医学部長であった横川の3男宗雄も桂田賞を受賞しており、珍しく親子2代の受賞であった。
 横川の外に本学の関係では、田部浩(涼鳥住血吸虫に関する研究、1953)、稲臣成一(寄生蠕虫類の微細構造に関する研究、1998)の2人の名誉教授がこの賞を受けている。桂田賞は日本寄生虫病学奨励会から贈られていたが、本年3月からは日本寄生虫予防会より贈呈されることになった。
 日本、ビルハルツ、マンソン、メコンの4種の住血吸虫症は、マラリア、フィラリアとともに世界の3大寄生虫病の1つであり、現在でも世界中で1億ともいわれる感染者が存在している。日本住血吸虫は1996年に終息宣言を行った山梨県を最後に、日本からは完全に消滅している。しかし最大の流行地である中国大陸をはじめ、フィリピン、インドネシアなど東南アジアには、いまでも広範な流行地があって多くの患者がこの病気で苦しんでいる。

 『寄生虫との100年戦争一日本住血吸虫症・撲滅への道』(毎日新聞社、2000)は、海外における本症の撲滅を目指した奉仕の記録である。著者の林正高氏は25年間に60数回も流行地のフィリピンを訪れており、現地で医療に従事しながら、さらにボランティア団体「地方病に挑む会」を結成して、募金によって海外の患者の救済を行っている甲府の奇特な医師である。
 本症の虫卵は、中国湖南省長沙の馬王堆(まおうたい)古墳で発掘された、紀元前の女性の遺体からも発見されている。日本住血吸虫症(schistosommiasis japonica)は古代から存在している病気であり、せまい地域の風土病ではなく、ひろく国際的な人畜共通疾患(zoonosis)であり、撲滅への道はまだまだ遠い。しかし、たとえ世界中から日本住血吸虫が消え去っても、桂田富士郎の名は消えることはないであろう。
 1998年(平成10)8月、千葉幕張メツセで開かれた第9回国際寄生虫学会の開会式に天皇・皇后両陛下が臨席された。
 「…寄生虫感染によって起こる病気は古くから人類を苦しめて来ました。我が国においても寄生虫による様々な疾患が知られていました。命にかかわる重大な寄生虫症として、地域社会に悲惨な状況をつくり出したものに日本住血吸虫症があります。この病気の病原虫として、桂田富士郎博士により日本住血吸虫が新種として記載されました…」
 世界の各地から700人を超える参加者を迎えた祝辞の冒頭で、陛下はこのように桂田の業績をたかく評価するお言葉を述べられている。
 長いあいだ大理石の桂田像は非公開の資料室の一隅でほこりをかぶっていた。このたび5月26日の岡山における発見100年を記念して、ゆかりの本学部新総合教育研究棟で新たに除幕され、末永く顕彰されることになった。国際交流の活発化にともなう輸入感染症・寄生虫疾患に警告が発せられており、桂田先生の顕彰はまことに意義深いことであり、当日は記念講演会も計画されている。今年は独立行政法人としてスタートする節目の年であり、桂田先生に学び、伝統あるこの医学部キャンパスから桂田先生にせまる、桂田先生を超える、優れた業績が生まれることを期待するものである。
 ご理解とご支援をいただいた岡田茂医学部長、桂田先生の顕彰に協賛して、本学部に旧蔵の桂田書簡を寄贈された横川みどり様(船橋)、桂田賞メダルを贈呈された日本寄生虫予防会、ご教示とお世話をいただいた辻守康広大名誉教授、ご協力下さった佐藤秀毅神辺町長、稲臣成一、中山沃、工藤尚文3名誉教授、村上宅郎教授、安治敏樹講師、仙田実先生(岡山)、小山由紀様(同窓会)に感謝する。(文献略)