新聞で見る『百年史』

医学教場から医学校へ
『岡山大学医学部百年史』は、本学部の創立100年を記念して1972年(昭和47)に発刊された。第1部の「岡山藩医学館設立前史」と第2部「医学部沿革史」のうち、本学部の揺籃期である「岡山藩医学館設立」から「甲種岡山医学校」までは、生理学の中山沃名名誉教授(元日本医史学会会長)が担当された。
 本学部の沿革は1870年(明治3)の岡山藩医学館に始まり、1872年に医学所から医学教場となり、1880年(明治13年)に岡山県医学校と改称された。現在は医学部があって病院はその付属であるが、当時は病院が主で学校の方が付属であった。教育内容が充実したのは県医学校になってからであり、次いで第三高等中学校医学部、第三高等学校医学部、医学専門学校、医科大学を経て、現在の岡大医学部に至っている。
 『岡山医学会雑誌』の第1号が発行されたのは1889年(明治20)に本学部が戦災を受けたため、それ以前の記録はきわめて乏しい。百年史の執筆に当たっては、古い岡山県の記録や医学雑誌、『山陽新報』(山陽新聞の前身)が利用され、アルバイト学生が新聞から関連記事を拾い出し、筆記するという今期を要する作業が行われた。まだコピー機以前の時代であり、こうして集められた資料によって本学部の前史が執筆されたもので、当時のご苦労がしのばれる。
 最近、備前の浦上新一郎先生によって、通史編と資料編の2巻からなる『和気の医療史』が発刊された。その編集に当たっても古い新聞記事が最大限に利用され、多くのアルバイトにより山陽新報から関係記事がしらみつぶしに抽出されている。発行者と執筆された仙田実先生のご厚意により、整理された新聞コピーを閲覧することができた。これらのコピーから、本学についての記事と関連記事を抽出し、百年史補遺として紹介する。その中には多くの興味深い記事が見られ、公式記録だけでなく当時のマスコミの目を通じた、いわば埋もれた実録史も含まれている。ただし、本学に関する資料の収集を目的としたものでないため、脱落があるのは止むを得ない。
 山陽新報は1879年(明治12)に発刊されたが残念ながら欠落もあって、とくに1892年(明治25)から6年間の紙面はすべて失われている。その間、1年分は『中国民報』があり、県文化センターで領しのマイクロフィルムを見ることができる。当時の新聞はほとんど文語文で、公告は候文が多く、旧仮名づかいで今は使われない漢字があり、読みにくく理解に苦しむ記述もある。古い新聞のコピーで判読困難なものも少なくない。そのため布達、条文、公告などの他は、原意をそこなわないよう現代表記に改めた。会報が横書きのために漢数字は洋数字とし、百年史に掲載されている記事や年譜については、◎印とし、できるだけ重複を避けた。本学の揺籃期といえる明治12年と13年の記事を紹介する。
 1879年(明治12)
○備中笠岡の私立医学講習所愈止社(窪田次郎社長)では、前川氏が昨年3月から治療していた患者の局部解剖を称念寺で行った。岡山、広島両県の有名医と油絵師等が集まり、備中、備後の医師と小学教員が見学した。岡山公立病院から院長、副院長など6人が派遣され、午前8時に解剖にとりかかり、午後1時に患部を取り出し終了後に葬式が行われた。(2.15)
○上道郡網浜村で、菰に包んだ生まれて間もない赤子の死体が捨てられ、28日に検挙された。死体は公立病院に引き取られ、同病院でアルコール浸けにして岡山民立博覧会に出展されるという。(3.3)
○岡山県録事丁第57号
 当県下において虎列刺病患者これあり、追々蔓延の兆もこれあり候条、各地の病勢により閉校致すべくこの旨相達候事。
 明治12年5月31日 岡山県令 高崎五六(6.4)
◎岡山県録事乙第65号
 岡山公立病院が岡山県病院へ名称変更(6.12)
◎公立病院の医師を免職(6.14)
○1昨日より県庁職員はそれぞれの暑中休暇となった。しかし県病院内の衛生課警察出張所の警部3名、巡査13名は休暇もなく昼夜詰めきりで伝染病を警戒している。疲れても休めず、一層社会のため県民のために尽くそうと、倒れてのち止まんとの覚悟はまことに感心である。(7.13)
 当時は伝染病、とくに全国的にコレラが大流行しており、県の発表(8.19)によると、7月の新患は131人、その中死亡51人、7月末の患者総計は7.510人、死亡は3.822人に達していた。医療に関する新聞記事のほとんどは、各地におけるコレラの発生を報道した物で、衛生に関する業務は警察に属し、弓之町の県病院いは警察の出張所があった。
○清野勇 本県病院長兼医学教頭に就任。(10)
○英学から独逸へ
 これまで医学教場で解剖、生理、薬剤などの諸科目を卒業し、すでに卒業免状を受領した者も全くこれを破棄されることとなった。今回より理学から試験し、今までのように単に机上の学問ではなく、器械を使用して実物について実際の学術を研究する法とし、これまでの英語からドCツ語に変わった。さらに、今度の試験に落第すると、すでに卒業した者も新たに理学から順序を踏んで学ばなければならなくなった。そのためい生徒の間では大議論いなっているという。
 また吉田学君は理化学の教授で病院の当直を兼ね、小川知彰君は解剖、生理の教授をかけ持ちして薬局長も兼任するという。(10.26)
○県病院はこのたび大改革を行う予定で、その第一は月給取りを減らすという。これまで病院は毎月180円の赤字になっており、赤字解消のために2人の衛生掛が病院へ来て、月給取りを集めてそのことを伝えた。
 リストラの対象とする人を、みんなで投票して選んで欲しいと説明されたが、職員はたいへん不服の様子で、もし経費が多いために病院を維持できないなら、給料を減らされてもよいが、リストラされる人を投票で選ぶことはできないと主張した。それでも投票せよとしきりに勧められたが、話が折り合わなかったので衛生掛は引き揚げた。(10.31)
○県病院の前医員平井武策、和気周輔、付属医学教場前教員の大石喜全の3氏は、拝命以来多年にわたって職務を精励し、そのうえ今年のコレラ流行の際には、日夜奔走して患者を治療した。その功績が大きいので賞として平井氏へ15円、和気氏へ5円、大石氏へ15円下賜された。(11.5)
○西中山下の松の江楼において、岡山区西洋開業医の人たちが、このたび本県病院長として赴任した清野勇君を應饗するため、午後1時から黄薇楽を奏し、5時まで酒宴があって解散した。参加人員はおよそ50人であった。(11.7)
○県病院医学教場は久しく休場になっていたが、このたび清野君が院長として教場を担当することになり、教則を改正して来る20日から授業を開始する。今後は書籍によらずに講義をして、生徒はこれを筆記することになるという。(11.9)
○このたび県病院の大改革が行われる予定で、東京大学医学部を卒業した清野勇、小川智彰、製薬科を卒業した吉田学の3君を招聘した。その改革の模様を聞くと、各地の病人を治療することは各開業医へ任せ、医業を繁盛させることは社会のためになる。もし県病院で県下各地の病人を治療しようとすれば、かえって社会の不便を招くようになり、たとえ金をかけても、とても行き届いた治療はできない。県病院は難治患者または貧窮の病人を治療するためにとどめ、主として医学生を教育し、早く良医を世間へ送り出すことが大目的と決まった。従来の規則を改めて、教科は大学医学部別科の教則にしたがって日本語で教授し、年期を4年と定め、志願者は本月30日までに申し出れば試験のうえ入学を許されるという。
 最近は医学が大いに進歩しているが、地方では新しい医学教育を受けられる医学校はすくない。ここで医学を学んで4年後に卒業すれば、地域の指導医となって社会へ貢献することもでき、自己の名利のためにもなる。資質強壮にして普通学を修め、医学の志しある人は期限内に志願して試験を受けるように。(11.16)
◎今般本県病院付属医学教場は、規則改正につき在学は4ヶ年とし、6ヵ月を1期とし昨日より学科が改正された。
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 此度岡山県病院長医学士清野勇、製薬士吉田学の両先生に請願して、毎月第1第3土曜日午後1時より、伝染病試験製薬等の講義を医学教場にて相開き申候。同僚の有志者は、何れの郡区を論ぜず御出席あらん事を希望す。依って報告申候。
 11月24日        岡山区医有志中(12.2)

○清野院長就任演説
 国家の興亡は、その国民の忍耐力の強弱にかかっています。制度文物が整い、学問技術が進歩し、貿易貨殖がますます盛んになるなど、人生を益し国運の命脈を維持し、社会が振興する国で、国民の忍耐力の欠如する国はありません。そうでない社会は、野蛮の域を脱出することはできません。もし我が国の世論が目標としている欧米の文明国が、現在の制度文物、学問技術、貿易貨殖が1つでも欠ければ、その文明は1歩退き、2つなくなれば、その文明は2歩退かざるを得なくなるのは明らかです。文明か野蛮かの別れは、これ以外にないといえます。文明国になるか否かは国民が持っている忍耐力によります。穴のなかに住んで木の実を食っている蛮人と、船で地球を巡って人間に有用な大業を計画する文明人を比較すれば、その忍耐力に雲泥の差があることは一目瞭然です。
 この忍耐力は知と勇の2つによりなり、その1つである勇は体力より生じ知は勇に続いて発し、勇に先立って起こることはないことから、結局その基礎は体力にあります。したがって体力の強弱があるのではありません。体力が1歩進めば忍耐が1歩増し、体力が2歩加われば忍耐が2歩進むことはありません。体力は原因にして忍耐はその結果です。
 人類が動物と異なるのは知と勇の集合である忍耐力です。動物になく人類に特有な貴重な忍耐力によって体力が強壮となり、すでに述べた世運の隆盛も、その淵源はすべて体力にあると言わざるを得ません。衛生は片時も人生から離れることはできず、医学において衛生は欠くべからざるものであります。そのため欧米各国は、早くから衛生をもって政府、人民を保護する1大項目とし、人民もまた、衛生法を行って百般に結うような学術、技術を修める基礎としています。それによって医学の進歩は、日進月歩でとどまることはありません。我が国でも10数年の昔を回顧すれば、衛生が何物か理解できず、はなはだしきは健康をそこねて自負する風潮もあったり、いつまでも実益のない古い方法に固守する者もありました。
 数年前から政府は東京に衛生局および東京大学を、各府県に衛生掛を設けて、病院と教場を建て、病人を診療し、医学生を教育し、その他いろいろの企画により衛生の充実に努力しています。国民もまた、体力の増強に必要な健康福祉の充実が緊要であることを理解し、その手段を考え利用する者が増えているのは大変喜ばしいことです。そうすれば将来は多くの人が若死にしなくなり、体力が増強して忍耐力が増し、社会が富み、欧米各国と肩を並べるようになるのは間違いありません。このたび重ねて岡山県からお招きをいただいて県病院長として赴任し、その責任の重大さを痛感しています。
 もともと県病院は地方税で経営されています。将来に望まれることは病院の経営に払われる経費以上に、はるかに県民福祉の向上に寄与することが重要であると考えています。どんな事業でも寡は衆に勝てず、小は大にかなわないのは天下の決まりです、医療もまた同じです。県病院がただ患者の診療だけが本業であるとするならば、岡山一区だけでも、すべての患者を見ることはできないしまして全県下の患者を診ることは到底できないことです。開業医を向こうに回してその職を奪えば、県病院は開業医から敵視されるようになり、それが県下の風潮になれば、どうして県病院がその目的を達することができるでしょうか。目的を達し得ないのは明らかです。
 できる範囲の診療を行って、無理をすべきではありません。同じ県に住み同じく経費を支出する県民に、不公平であってはなりません。病院を設立するために県民を苦しめ悩まし、血税との交換である経費を支出して、その幾分かを無駄にし、あるいは貧者から剥ぎ取って富める者に与え、権利ある者を貧しくし、権利のない者に与える心配はないでしょうか。このような状態で病院が経営されるならば、社会を豊かにして、人生の楽しみを増進すべき衛生の一端である医術を、一方において多少の利益があっても、他方では、病院を設立したことによる損失の方が大きいかもわかりません。いかにすべきでしょうか。
 医学生を教育し、開業医と親しくし、その及ばざるところに支援し、広く県下に医療の人材を生み出すことを第1の主眼としなければなりません。患者の診療をおろそかにしてはならないのは当然ですが、診療は第2の主眼と定め、1つは県民の難病を治療し、1つは医学生の実習や、開業医に必要な医療器具など手段の乏しさを支援し協力し、将来の医学の進歩を図るべきであろうと思います。この方法によれば県病院で県病院で直接診療する患者の数は減るかも知れないが、前の方法に比べると4つの大きな利益があります。
1つは、多くの医師により県民の治療に当たれば過不足の心配がない。2つは多くの患者を診療することができる。3つは、多くの良き医師を育てることができる。4つは、万一病院がすたれ衰えることがあっても、依然として医術は県下に普及して、県民がその恩恵に浴することができます。その他、間接的な利益は枚挙にいとまがないほど多くないrます。県病院はこの4つの実益だけでも、経費と経営成績が償うだけでなく、それ以上の利益が出るであろうし、県民衛生の向上は、中国随一になると言っても過言ではありません。さらに間接的にも大きな利益が生まれます。
 これまで各府県の病院設立に際して、なぜこのような方針が考えられなかったのでしょうか。それは我が国が文明開化後まだ日浅く、目の前の利益だけ考え、将来の利益を考えないからであり、学術、技術の貴重であることを知らないからであり、時勢上やむを得ないと思われます。しかし時代が変わって明治も12年となれば、いままでと同じではありません。目の前の小利を利とせず、将来の大益を利益とする風潮が芽生え、学術、文化の重要性を知る人たちが増えてきました。県民がこうしたことを望むならば、今後の収穫は期して待つべきものがあります。私が心より希望するところです。
 お招きに応えて東京を出発するとき考えた方針を、知事閣下にお会いして残らず申し上げました。閣下のご理解をいただくことができ、私は手の舞い足の踏むばかり医学を学びましたが、いまだ経験が浅く未熟者です。しかしながら知事閣下のご指導と有志諸君のご協力をもとに、駄馬を鞭打ち、自己を叱咤し、政府の方針を謹んでおしいただき、県民の福祉を目的として努力する覚悟です。
 本日は県庁においト得難い機会を与えられ、親しく知事閣下のご出席を賜り光栄の至りです、愚見を述べさせていただきました(12.11〜13)
 これは清野院長の新任演説である。岡山県病院の再出発に当たって、運営の基本方針になったと考えられるので、長文であるが全文を紹介した。この記事は、横山宇六という人物が「清野県病院長の県庁における就任演説の主意書を得たので貴社に投ず。幸いに一日の余白を貸せ。これを筐(かご)底に投ずるに忍びざる所あればなり」と前置きした寄書(投書)で、3回に分けて掲載された。
 清野は第2期生として東大医学部を卒業(第1期生は明治9年卒)、その年に校長として岡山へ赴任し、県病院と医学教場の思いきった大改革を断行した。それまでの教場の卒業証を無効にして、新たに東大別科(本科はドイツ語、別科は日本語で教育)の教則にならって1期6ヶ月、8期4年で卒業とし、英語からドイツ語への変更など、岡山の医学教育は中央の流れに沿って清野により根本から一新されたといえる。
 就任演説において、県病院の方針は第1に医学教育と開業医との強調であり、第2が診療であることを強く訴えている。剛腹をうたわれえた高崎県令の理解と協力を得て改革を進めたが、お雇いアメリカ人医師の辞任を巡って激しく対立したこともあった。しかし病院の発展のためには、開業医との強調が何より大切で、卒後教育へ積極的に協力するなど、今でいう病診連携の重要性を主張している。まさに卓見である。県病院の発展が、その後の医学教育の充実に大きく寄与したといえる。
 存続の危機にあった岡山県病院の院長として、病院と教場を改革し、教育の充実に尽力し、全国の数多い公立医学校の中から、東大以外で最初に無試験で医術開業免状が付与される医学校となった。西日本において規模、内容ともに最高の医学校と評価されたのは、清野の功績であるといわれている。さらに、近畿・中国四国で唯一の、国立の第三校等中学校医学部び選ばれてたのも清野の力に負うところが大きい。さきの中山氏も清野の貢献を強調しており、清野はのちに岡山から大阪府立医学院長に転じ、阪大医学部の基礎づくりをした人である。
○寄書 生田安宅
 烟艸の人身を毒するや世人の往々之を知る者ありといえども、未だその詳細の説あるを見ず。頃日幸いに製薬士吉田学君の「ニコチン試験の説」を得る。よって貴社の余白を借りもって衛生の諸君に告ぐ。(12.14)
 本文は省略するが、初代岡山県病院長であった生田安宅は、早くからすでにタバコが健康に有害であることを警告している。

 1880年(明治13)
○5日間県病院解剖場で人体解剖が始まった。
(1.28)
○医学教場の田中教師は、桑田町のさん子に首ったけとなり免職となった。さらに生徒9人が勉強しないので中島へ放逐された(2.22)
○無試験開業資格
 これまでは卒業しても、医術開業試験という国家試験に合格しなければ開業できない規則がある。このたび病院に内務省と同様の試験を行い、合格者は直ちに開業が許されるようにしたいと、清野勇院長がその建言したという。(3.6)
◎弓之町旧県庁跡に岡山県病院を新築移転。
○稟告 移転公告
 今般弓之町旧県庁跡に落成相成候に付本月6日該所に移転、是迄通い診察致候条此段公告す。
 岡山県病院(3.7)
○教場生徒放蕩堕落で退場多い
 医学教場の生徒うち、放蕩懶惰に流れて中途退場になるものが多く、刻苦勉励して卒業するものが少ないのは遺憾なことである。そこで岡山区一到社員が、父兄にかわって別紙の規則書のように医学教場へ入場を紹介し、入場の後は生徒を監督することになった。目下教場生徒募集の時期であり、教場へ子弟を入れたいと希望する父兄は、必ず一到社員へ依頼するようにしてください。
 医学生紹介規則
本社中この規則を設けたる所以のものは、医学篤志の父兄、その子弟をして我が岡山県病院に業を得さしめんとするに当たり、その紹介の便を助け在学中父兄に代わりて本人を監督し、遊治を禁じ学業を励まし、年期を過ごさず、卒業の好結果を得せしめんとするにあり。
第1条 本社は岡山県病院付属医学教場に入る者を紹介するに止どまり、その他に至りては、敢えて関係せざるものとす。その年齢及び入学試験の如きは、該場の成規に従うは勿論たるべし。
第2条 本社に紹介を依頼するをなお便にせんため、各郡に1名づつの引合人を置くべし。ただしその人員の如きは追って報告すべし。
第3条 本社に紹介を依頼し、入学許可を得たるときは第1号書式の通り委嘱証書を差出すべし。
第4条 本社に紹介を受けたる生徒は1个月分の学資金を4円と仮定し、3个月分前金を徴収すべし。ただし運送の便否により、1个月ないし半个年分を前収するも差支えなし。 第5条 学資金は本社より之を第22国立銀行に預け、毎月出納すべし。その計算表は毎年両度その父兄に報告すべし。
第6条 物価の高低等により、学資金を増減することあるときは、本社より速やかに之を報告すべし。ただし予定金額のほか、みだりに本人へ送金するを許さず。
第7条 在学中は専ら節倹を旨とすべし。故に本社に委嘱する生徒は、卒業まで衣服寝具等、一切絹布を着用するを禁ず。
第8条 書籍、器械、その他学場の要用品は、教場監事の承認を得て買求め相渡すべし。ただし、その時々の代価を記載したる帳簿へ本人の認印を取り置くべし。
第9条 本院自然疾病に罹るときは病院に入れおき、早速之を通報すべし。
第10条 事故あり帰省せんとするも、その父兄よりその事実を詳記したる証書、あるいは該地医員の診断書を添え、実印を捺したる書簡を得るに非ざれば許さざるべし。
第11条 本社において、金銀を貸付けせざるは勿論、同僚中といえども貸借は一切之を禁ず。
第12条 医学の才乏しく、あるいは怠惰放蕩にして成業の目途これなき者あれば、その父兄に懇談して方向を転ぜしむべし。
第13条 およそ生徒紹介事務は、月番の監事一切之を担当す。
 明治13年5月  岡山県岡山区  一到社(5.8)
○公告 本月17日より25日迄、当院付属医学教場において第1期生徒進級試験試行候に付、右生徒之親戚朋友は傍聴を許す。之旨報告す。
岡山県病院(5.8〜9)
 一到社は岡山市内の開業医の協議によって結成された会で、当時の社員は50人。生田安宅が社長になって佐治有輝が副社長、平松吉、前川準の2氏が監督、その他7人が幹事に選ばれた。毎月第1、3土曜日の午後1時より清野院長、副院長、薬局長などが出席して医事衛生について公演することになっていた。この会は新しい医学知識を学ぶための勉強会であり、親睦の会でもあった。
 さらに清野院長の、県病院は医学教育と開業医との関係を最重視するとの方針を歓迎し、病院付属であった医学教場の教育を側面から支援することとし、その後援会の性格を持っていたことは明かである。このように、本学の基礎ずくりに地元岡山の医師会が積極的に協力していたことがわかる。
 紹介規則が掲載された日の新聞広告によると、医学教場の進級試験が親戚や友人にも公開される、というユニークな制度があった。
◎弓の町に病院新築落成
 6月1日、岡山県弓之町の県庁跡地に新築せられた病院の開院式挙行。(6.3)
◎当地病院の米人医ベルリーは大変わがままで困る。(6.14)
○県病院の病室へ石関町の陶器所のかまどの煙が入るので、その筋でも余程ご尽力されているが、このほど衛生掛が他へ移転するように交渉した。カマドの主は不当な金額を要求しているようで、これについて石関町の辺りには尻押しをしている者があり、弓之町では説論する者があるという。(8.8)
○東京大学医学部卒業の医学士菅君
 今般月給120円にて本県病院へ雇い入れられ、昨日より同院において診療を始められた。(9.2)
◎岡山県医学校と改称
 岡山県病院付属であった医学教場を岡山県医学校と改称し、菅之芳を学校長兼副院長に任命、清野勇はそのまま病院長(9.15)
○県病院生徒肺病に罹り死亡、局所の解剖をする。(10.7)
○衛生課報告第96号
 我が県下の人員不幸にして難病奇疾に罹り、その身貧困窮乏なるより両用をなし得ざる者は、今後当県病院において診断の上、医学生へ臨床講義の考診に充つべきものと認めるときは、薬価、食餌料等を給与し、不断患者5人を限り入院施療候条、入院を乞うものは左の雛形(見本)に照らし、願書を同院へ差出し指置を受くべく、この旨広告す。ただし往復旅費ならびに異時の入費等は自弁たるべし(10.8)
◎稟告 入学志願者案内
 県医学校の広告(10月21日、11月1日、28日)によると、入学願書の締切りは11月20日であったが、募集期限が12月15日まで延長されており、当時は定員に満たなかったので追加募集が行われている。
 (以下次号 浦上新一郎先生、仙田実先生、中山沃先生のご協力に深謝する)