最古参学校医・船石保太

坂門俊才
 わが国で学校医制度が始まった当初に校医となり、46年間勤めて80歳で引退し、最古参で最高齢の校医といわれた船石保太先生を紹介する。
 船石は1865年(慶応1)広島県安那郡八尋村、現在の深安郡神辺町八尋で生まれた。同じ年に広島県ではふたりの傑出した医人、日本における精神病学の創始者となった呉秀三、呉とともに医史学の創始者といわれる富士川游が誕生している。神辺は旧山陽道に沿う宿場町であり、八尋は神辺町のいちばん東で岡山県との県境である。生地には石垣だけが残っており、すぐ近くの江戸時代の琴の名手として名高かった葛原勾当、童謡「ギンギラギン」の作詞者である孫の葛原しげるの生家がある。
 1872年(明治5)に日本で学制が公布され、船石が育った時代は、まだ教育制度が十分に整備されていなかった。はじめ同村の第103番下等小学1級に学び、御領の庄屋であった諏沢熊太郎宅で漢書の講義を受けており、78年(明治11)に12歳で井原の興譲館に入学した。現在の興譲館高等学校である。
 興譲館は1853年(嘉永6)に漢学塾として始まり、74年(明治7)に国語漢文と数学の2科目の私立学校として認可された。創立150年を迎え、江戸時代からの校門、講堂、書斎が岡山県史跡に指定されている。船石が薫陶を受けた2代目館長の坂田警軒は、県議会が開設されたときに選ばれて初代議長となり、国会が開かれたとき最初の議員に選出されている。船石が学んだのは3年間で、最年少でありながら早くから頭角をあらわし、成績優秀のため教室の掃除を免除されていたという。のちに警軒の後継者となった鴨方の山下秋堂、ジャーナリストとして有名になった笠岡の森田思軒とともに「坂門の三俊才」と称されていた。

医術開業免状
 1881年(明治14)、船石は医師を志して岡山県医学校に入学した。船石氏蔵のサインがある調剤学の講義録が残っている。その緒言に<本書は教官小川知彰氏の講述を、筆記の労をはぶくために活字した。急いだのでミスがあれば了承してほしい。明治15年9月、岡山県医学校本期生識>と漢文で書かれている。県医学校は1970年(明治3)に岡山藩医学校として創設され、80年に岡山県医学校と改称し岡山城西の丸の跡地にあった。最初のころは5月と10月の2回募集があり、年齢は16歳から35歳まで、50人づつの計100人、種痘接種すみの者、初等小学校の上級全科卒業者と付属予備科の出身者は無試験で、定員に足りないこともあったという。
 船石は86年(明治19)に卒業したが、在学中の82年(明治15)に、東大以外では卒業後ただちに医師免許が与えられる最初の医学校となった。83年に甲種医学校となり、85年に文部大臣森有礼が視察に訪れて激賞している。さらにこの年、明治天皇が医学校に行幸された。全国の医学校として初めてのことであり、医学校跡地にある内山下小学校に巨大な行幸記念碑が建てられている。卒業後の88年に医学校は、近畿・中国・四国で唯一の国立の第三高等中学校医学部となった。
 県医学校の1学年定員は100人であるが、『岡大医学部百年史』(1972)によれば5年間の卒業は90人、『会員名簿』に氏名があるのは49人、船石の同期は9人に過ぎず、入学はできても卒業はきわめて難しかったことがわかる。
 卒業試験はとくに重視され<この試験においては係官吏、校長、教員および病院長の立会を要す>と規則にあり、前病院長の息子でも点数が足りなかったために卒業できなかった。また<成績点数は10点をもって最高点とし、6点をもって最下点とす>とあり、6点に足りなかったら再試験があった。それでも点数が足りなかったら<爾後の卒業試験開場の時にあらざれば更に之を受るを得ず>とあり、1大科目に失敗すれば次の大科目の試験を受けることができず、4大科目に合格しなければ卒業できなかった。
 第1科目 動物学 6 植物学 6 物理学 9 化学 6
 第2科目 解剖学 9 組織学 10 生理学 9
 第3科目 外科総論 8 外科各論 7 外科実地 7 眼科 6 眼科実地 6
 第4科目 内科総論 7 内科各論 7 内科実地 6 産科学 7 薬物学 7 婦人科学 7
 これは船石の成績で、定められていた第3科目の裁判医学(法医学)と衛生学、第4科目の小児科学は、試験が行われなかったのか点数が記載されていない。
 7月3日に卒業したのちは国の試験なしで同月8日に開業免状が与えられ、第1233号をもって医籍に登録された。卒業できなかった者は国の行う医術開業試験に合格しなければ免状を得ることができず、この試験もまた難関であった。
 医学部の資料室に<第○期エ進級候事>という「進級証」はあるが、今まで県医学校の「医業卒業証」はなかった。船石の卒業証は唯一の貴重な資料であり、<21歳6ヶ月>と満年齢が記載されている。私の要請によって、それまで存在が知られていなかった「卒業試験成績証」などとともにご遺族から寄贈され、116年ぶりに母校に収蔵されることになった。

国家医学講習科
 船石の没後に編纂された『一竿詩鈔』(1962)の履歴書によると、卒業したのち富士川游の誘いで上京し、研修と西洋医学の普及のために東京医事新報社へ入社している。富士川は同県人で同じ年であったが、医師になったのは船石が1年早いことから、上京後に交流が始まったのではないかと思われる。
 船石は井原町の医師千原貫一のむすめと結婚したため、家族の希望によって妻の実家で開業した。千原は『井原医史』(1972)によると緒方洪庵に学んだというが、適塾の門人帳には氏名が見られない。貫一の弟卓三郎は、洪庵の義弟となった芳井町出身の緒方郁蔵に学んでいる。千原の屋敷内に庚申堂があったことから「庚申堂の先生」と呼ばれていた。船石は千原が亡くなった翌年の1895年(明治28)に独立して開業しており、井原地方で初めて近代医学教育を受けた医師であった。その当時の田舎の医師は全科の診療をしなければならず、よくはやったために後月郡の郡名から「後月院長」といわれるほど信頼されていた。
 熱心な勉強家で、93年(明治26)には東大に開設されていた第9回国家医学講習科を受講している。この講習科は、明治の中期に当時はまだ普及していなかった予防医学、衛生学、法医学のレベル向上のために89年から開始された卒後教育である。講習をつうじて新しい医学の研修を受けた医師を増やし、同時にわが国に市区郡医制度ができたとき、候補者となり得る資格をもった医師の要請が要望されていた。
 東大教授が担当し、講習には病理解剖学、衛生学、精神病学、法医学、医制および衛生法などが含まれ、年に2回、4カ月にわたり全国からの推薦者や志願者を集めて講義が行われた。その他にも毒物学、黴菌学(細菌学)、薬物学、診断学、内科、外科、婦人科、産科、小児科など臨床各科の講義も行われた。講習生は20人から50人までとされ、すべての講習を終了すれば講習証を与えられ、試験にパスした者には及第証が授与されていた。受講した47人のなかには県医学校の先輩でのちに井原で開業した岡本恭重もいた。船石が受けた講習会のくわしい報告が『日本医史学会雑誌』(44巻3号、1998)に掲載されている。
 さらに、長男が京大医学部を卒業した翌年の1913年(大正2)に、京大で耳鼻咽喉科と産婦人科の講習を受けている。京大講習科は1909年(明治42)に始まった4週間の卒後教育である。現在とちがって交通がきわめて不便な時代にもかかわらず、遠く東京や京都で長期にわたって最新医学の講習を受けており、向上心に燃えた意欲ある医師であったことがわかる。
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学校医
 98年(明治31)1月、学校医制度が勅令として公布され、全国の公立学校に校医をおくことが世界で初めての制度として定められた。ただし人口5,000人以下の町村は特別の事情があれば、当分は校医を置かなくてもよいとされていた。
 次いで2月に、校医の職務規程と資格が文部省令として布達された。主な目的は学校における環境衛生の監視、身体検査、伝染病の予防などで、校医の任命権は市町村長ではなく知事にあった。現在の校医より職務がはるかに多く、毎月少なくとも1回、さらに学期の初めには授業時間内に衛生状況を視察しなければならなかった。
 学校医の資格はきびしく、同年3月の文部省令第7号によって次のように定められていた。
第1条 学校医を嘱託するには左(下)に掲ぐる各項中の1に該当し、かつ医術開業免状を有する者の中に於いてすへし
 1.帝国大学医科大学医学科卒業の者
 2.元東京大学医学部医学科本科、または別科卒業の者
 3.高等学校医学部医学科卒業の者
 4.元高等中学校医学部医学科卒業の者
 5.大阪府、京都府、愛知県医学校医学科卒業の者
 6.元府立甲種医学校卒業の者
 7.試験を経て帝国大学医科大学国家医学講習科に入学し同科を終了したる者
第2条 第1条の資格を具ふる者を得難き場合においては、明治16年布告第35条医師免許規則第2条、または第4条により医術開業免状を有する者に嘱託することを得
 漢方医は頭から排除され、この資格に関する条例を文字どおりに解釈すると、府立以外の甲種医学校卒業者は資格者に含まれていない。西日本でもっとも優れていたといわれた岡山県医学校の卒業者は該当しないことになり、船石の資格は7の国家医学講習科を終了したる者に該当する。資格者が得られない場合には、やむを得ず医術開業免許所有者でもよいと決められていた。
 資格が厳しかったために、はじめは校医の有資格者が少なかった。そのため勅令が公布された翌年の校医設置率は20%に過ぎず、10年かかって50%、20年後の1918年(大正7)にやっと80%に達している。岡山県の校医の設置は尋常中学校、師範学校、岡山や倉敷などの大きな町の小学校から始められた。
 『岡山医学会雑誌』(99号、1898)には、○山谷徳治郎君は津山尋常中学校校医を嘱託せられたり。○山田忠治君は高梁尋常中学校、○岸千尋君は岡山尋常師範学校の校医を嘱託せられたり。などの記録が見られる。山谷は1885年(明治18)、山田86年、岸は84年卒である。
 当時の後月郡井原町の人口は約4,700人で5,000人に達していなかったため、特別な事情があれば校医の設置は免除されていた。しかし船石は制度が公布された翌1899年(明治32)5月30日に井原精研高等小学校の校医を嘱託されており、ついで1903年8月31日に井原尋常小学校、1912年(大正1)6月5日に隣村の出部尋常小学校、1915年8月26日に井原町立高等女学校の校医となり、私が井原小学校のち(国民学校と改称)のときも校医であった。毎年、あごひげの老先生に身体検査を受けたことを覚えている。
 1928年(昭和3)、学校保健功労者として県知事、町長より表彰され、1936年(昭和11)には教育功労者として県教育委員会より表彰を受けている。終戦の直前、1944年(昭和19)に80歳を迎えて46年間にわたる校医を引退した。
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頌徳
 辞任にあたって、船石に対して町議会はとくに感謝議決を行っており、井原小学校は日本一の校医と功績をたたえて『頌徳録』を贈呈している。
 「頌徳文
 先生は日本第一の校医、天資寛厚、人に接して城府を設けず歯徳(年齢と徳行)共に高き仁者なり。医業の傍ら、明治三二年精研高等小学校の昔より井原国民学校の今に至るまで、終始一貫学校医として献替尽瘁(善をすすめ懸命に努力)、よく教育の基礎をして安固ならしめたるの功績は他の及ぶ能はざるものなり。勤続四十六年間、学童の多くは父祖三代に亙りて其の愛護を受く。其の数無慮五千人なり。日本第一の校医と称するも過言にあらざるべし。
 宜なる哉。後月郡学校衛生会長に推され輿望日に隆なりき。先生退職の報伝わるや学童皆別れを惜しみ、町民ひとしく其の恩徳を報ぜんことを希う。町会は議して感謝の表意を決したり。
 本日茲に先生の最も愛好する井原国民学校に於いて式典を設け、有志多数相会し以て其の徳を頌う。捧ぐるところ不腆(粗末)其の大功に応ぜず唯微意のみ。以て記念とならば幸いなり。」
 7月8日、井原小学校の講堂に県教育会長を兼任していた橋本清吉県知事(代理)、県医師会長、郡医師会員、教育関係者、職員、父兄、児童など多くの人びとが出席して盛大な式典が開かれた。その席上、教育会長や医師会長より長年にわたる功績を讃える祝辞が述べられている。県医師会長であった掛谷令三は医専時代の耳鼻科教授であり、船石の生まれた八尋に隣接する旧坪生村(現在は福山市)の出身であった。
 「祝辞
 今日茲に元井原国民学校校医、船石保太氏頌徳の式を挙行せらるるに当たり、一言祝意を表することを得るは余の最も欣幸とする所なり。  惟ふに学校教育上、体育衛生部門の重要性は言を要せざる所、我が国学制史につきて之をみるに、当局夙に意を此の点に注ぎ、明治二十三年小学校令を実施するに当たり、特に設備準則を定め児童身体の発育環境の整理につき深く考慮する所あり。同二十七年八月、文部省令を以て体育衛生に関する注意を与え、更に明治三十一年一月八日、勅令を以て学校医設置の制を定められる。
 船石保太氏夙に医学を志し、学成って業を此の地に開く。明治三十二年五月、精研高等小学校医に就任し、本年三月老齢の故を以て退職せらるる迄、終始一貫其の職に盡瘁せられ、其の間実に四十六有六年なり。即ち学校医制度創始以来勤務せられたるものにして、全国に之を索むも其例極めて稀なるべし。
 人格高潔、教育尊重の思慮堅固なる人にして初めてなし得る所にして、功績洵に大なるものあり。茲に船石氏永年の御労苦と其の御功績に対し、衷心より深甚なる敬意を払うと共に、此の盛儀を挙げられたる町、並びに学校当局に対し感謝の意を表し、蕪辞(そまつなことば)を陳べて祝詞となす。
  昭和十九年七月八日
          岡山県教育会長 橋本 清吉」
 「祝辞
 本日茲に船石保太君の学校医勤続四十六年に及ぶ功績を讃ふる頌徳式を挙げらるるに際し、不肖県医師会長として其の席末を汚し、親しく君の風貌に接し、一言祝辞を呈し得るは私の最も光栄とするところなり。
 惟ふに我国に於いて、勅令に基く学校制度の施行せられたるは、遠く明治三十一年一月にして、医師の公的任務としては最も古く、当時、地方長官の学校医委託の条件は厳重を極め、有資格者の人選には相当の困難ありしやに風聞す。
 然るに君は翌三十二年五月当局の認むる所となり、已に早く井原小学校に学校医として嘱託を命じらる。蓋し当時に於いて、君が学識経験の尋常一様に在らざりし証左なりと謂ふべし。爾来、君は多忙なる医業生活の余暇、学校医として勤務せらるること実に四十六年。人生の大半を学校衛生の進展に捧げ、その間、君の健康診断、体格検査を受けたる学童の数は幾万なるを知らず。小国民の保健向上に資するところ蓋し僅少に在らざるなり。
 他面高潔なる君の人格は同僚の先達として率先範を垂れ、或いは郡学校衛生会長として学校衛生の振興に力を致し、或いは郡医師会長として医事衛生の発達に寄与せらるること多年。同僚等しく君の高風を仰ぎ、着々として事績の見るべきもの少なからざるは、実に君の医を通じて国に報ぜんとする崇高なる風格の然るらしむるところ。また以て後進に対し無言の教訓を示せるものと謂ふべきなり。
 今や戦局真に重大。皇国興廃の関頭に立って、我等国民は一億総進軍の決意も固く、各の職場を守り抜かんとするの秋、私を滅て公に奉ずること厚き君の如きは、以て一世の範とするに足るものと謂ふべく、本日頌徳式に参列し得たる光栄を感謝し、船石君の心身の益々健やかならんことを祈る。
 昭和十九年七月八日
           岡山県医師会長 掛谷令三」
 「祝辞
 ここに本日を卜して、前後月郡学校衛生会長船石保太君の頌徳式を挙げられ、まことに慶賀に堪えざるところであります。
 惟うに君は崇高なる人格と、高邁なる学識を以て医業に従事せられ、本郡医師会役員および会長を歴任され、我ら医人を統率垂範し、地方医事衛生のために貢献せらるること多大であります。また井原校、出部校の校医として学校衛生のために尽くされ、学校衛生会創立とともに理事となり、会長となられて絶大の努力を傾注されました。
 斯界の前途、君の力に俟つもの極めて大なるの秋、高齢の故を以て勇退されました。その功績、吾人の齊しく景仰して措かざる所であります。今や高齢八十歳に及ぶも、なお矍鑠として壮者を凌ぎ、悠々医療に力められ、傍ら最も造詣深き文筆に親しまれています。益々加療自重せられて、斯界のために尽瘁せられんことを嘱望して止まざる所であります。いささか蕪辞を呈して祝辞と致します。
 昭和十七年七月八日
      岡山県医師会後月郡支部長 岡田淳一」

一竿
 医師として、とくに学校医としての船石の貢献はこれらの祝辞で尽くされている。制度が創設された翌年から終戦直前の1944年(昭和19)まで、46年間も勤めた最古参の校医であり、人生50年といわれていた戦前にあって最高齢の校医といわれていた。井原市の男性最高齢者として表彰された翌年、1959年(昭和34)に94年のながい生涯を終えた。
 名は保、字は漸郷、保太は通称。釣りを好み、囲碁を愛し、若いときから「一竿」と号して漢詩に親しみ、書にもすぐれ今でも多くの筆跡が残されている。地域における指導的文化人であり、没後に長男によって漢詩集・一竿詩鈔が発刊された。長男と3男が京大出身の縁故により、京大の同窓でときの岡大学長であった八木富士雄が題字を書いている。詩鈔のなかに、1939年(昭和14)に富士川が亡くなったとき、不朽の業績をたたえて贈った<悼富士川游博士>と題する追悼の漢詩がある。
   煥然大著杏林光
   恩賞名声播四強
   畢生志存医国術
   刀圭末技任扁倉
 富士川の大著『日本医学史』は医界に光りかがやく名著であり、帝国学士院恩賜賞を受賞した名声はひろく日本中に知れわたっている。臨床の末技は扁鵲や倉公(ともに中国古代の名医)にまかせ、生涯の志は国をいやすことにあった、という意味であろう。
 船石は3男6女に恵まれた。長男の晋一は眼科医となって秋田日赤の初代眼科医長、南満医学堂の教授を経て、ドイツに留学したのち満州医科大学の教授、病院長となった。次男は東大工学部を出て鉄道省に入り、鉄道監を経て東京急行の重役を勤めていた。3男平八郎も長男と同じく京大を出て眼科医となり、ハルピン医科大学の教授となり、戦後も1953年(昭和28)まで新中国の医学教育のために抑留された。帰国したのち郷里で眼科を開業し、1978年(昭和54)に死去したが後継者がなく医院は閉鎖された。
 6人の女子のうち5人も女専、女高師、女子大に進んだ稀にみる教育一家で、1911年(明治4)生まれの6女は今も健在である。
 昨年、資料室になかった本学部のもっとも古い県医学校時代の医学卒業証、卒業試験成績証、医術開業免状などの貴重な資料が寄贈された。この機会に教授などの顕職にはなかったが、明治から昭和にかけて多年にわたって黙々と地域医療に従事し、とくに学校医として制度の発足時より学校保健に挺身し、地域住民からふかく尊敬された先人、井原医師会の大先輩である船石保太先生を紹介した。(ご協力いただいたご遺族と岡利子様に深謝す。)