医界ジャーナリスト 山谷徳治郎

  岡山県医学校
 本学部は2000年に創立130年を迎えた。『岡山大学医学部百年史』(1972)に「異色の教官および卒業生」が掲載されている。教官は歌人として有名であった眼科教授の井上通泰(宮中顧問官)ただ一人で、卒業生は矢部辰三郎(海軍軍医学校長、1884・明治17卒)、山谷徳治郎(医界ジャーナリスト、1885・明治18)、矢野恒太(第一生命の創設者、1889・明治22)、石井十次(児童福祉)、秦佐八郎(梅毒の治療薬サルバルサン発見、1895・明治28)、三木行治(岡山県知事、1929・昭和4)など6人の名が挙げられている。
 矢部と山谷は岡山県医学校、矢野は第三高等中学校医学部、秦は第三高等学校医学部、三木は岡山医科大学時代の卒業である。石井は正式には卒業していないが、日本における孤児救済という社会福祉の先覚者としての偉業を称え、本学『会員名簿』に明治22年卒業と掲載されている。四年中退と小さく記されており、中退ながら会員名簿に掲載されているのは、石井十次ただ一人である。
 これら異色の先人に共通していることは、臨床医ではなかったが、それぞれの分野において先覚者、または傑出した第一人者であったことである。
 異色の卒業生といわれる山谷徳治郎は、異色と呼ぶにふさわしい先人である。多くの著書、編書、評論、さらに古希と日新医学社の創業25年を記念した『学堂古稀記念集』(1935)、嗣子太郎の『故山谷徳治郎追悼尊誌』(1940)、孫の渉氏による『山谷太郎メモ』(1993)や、岡山の記録などによって、山谷徳治郎の人とその功業を紹介したい。
 山谷は1865年(慶応2)、岡山県真庭郡勝山町三田に山谷弥太郎の次男として生まれた。勝山町は三浦氏2万3000石の山紫水明の陣屋町である。『勝山が生んだ人物略伝』(勝山町教育委員会、1999)によると、山谷家は勝山町常安の本家の外に6つの分家があり、多くの山林や田畑を有した真庭郡でも有数の徳望の家であった。  兄の虎三は明治法律学校を卒業して代言人、いまの弁護士になって東京で事務所を開いていた。犬養毅らとともに自由民権運動に参加し、のちに政治家になって衆議院議員を勤めたこともある。中国鉄道や、勝山銀行、阿哲銀行の創立に尽力して両銀行の顧問を勤めていた。
 北海道に<富良野塾>という若手の俳優や脚本家を育てるための私塾があり、主宰者で「文五捕物絵図」「北の国から」「赤ひげ」「勝海舟」「前略おふくろ様」「わが青春の時」など、多くのテレビドラマを書いた倉本聡という有名な脚本家がいる。本名は山谷馨といい、山谷の孫(長男太郎の次男)である。三田の山谷家は藩政時代に庄屋を勤め、年貢米の管理をまかされ、蔵元と呼ばれていたことから倉本と名乗ったという。テレビや映画のシナリオ作家として毎日芸術賞や芸術選奨文部大臣賞など、多くの賞や国際的な賞も受賞している。『倉本聡コレクション』全集30巻があり、祖父の生まれ故郷である勝山に何回も公演に訪れている。
 山谷は裕福な家庭に育ち、勝山の川西にあった出藍小学校から落合にあった桜鳴る学舎で儒学者の進鴻渓に学んだ。進は松山藩の儒学者で落合になった勝山藩の蔵を利用して漢学を教え、県内はもちろん遠くからも塾生が集まっていた。山谷は若いころから漢学に親しんで素養があったため、「楽堂」と号して晩年になって漢詩を楽しんでおり、誕生日などに詩会を開き詩集『楽堂病余漫吟小集』を出している。
 1877年(明治10)7月、勝山の陣山に岡山県北部で初めての病院として岡山県公立真嶋支病院が開設された。80年1月に廃止されたが、山谷はこれに刺激されてなることを決意したという。本学部は1870年(明治3)の岡山藩医学館に始まり、岡山県医学校になったのは、80年(明治13)で、翌年の81年に入学し、85年(明治13)に第2期生として卒業した。
 この年、明治天皇が内山下の岡山城西の丸にあった県医学校に行幸され、内山下小学校に巨大な記念碑が建てられている。東大以外では、卒業すれば医師免許が無試験で与えられた初めての医学校で、山谷は最初にその特典を受けている。岡山の教育はきわめて厳しく、入学定員100人の中で85年に卒業できたのは15人に過ぎず、東の東大、西の岡山、といわれたほど評価が高かった。
 卒業した翌86年(明治19)に上京し、小石川にあった全修学校というドイツ語学校で学び、一時は東京の神田錦町で開業していたこともあったという。88年に東大医学部病理学選科に入って三浦守治教授について病理学を専攻し、初めは臨床医になる予定であったために、佐々木政吉教授の指導を受けて内科も研修していた。
 東大選科とは、東大別科や府県立医学校の卒業生のなかで、さらに専門的な研修を希望する者のために87年にできた制度である。山谷は最初の選科生として、同年9月に試験を受けて病理教室に入った。選科には全国から多くの希望者が集まり、一時は60人もの入学があった。山谷は選科総代に選ばれて学校との交渉に当たり、選科生は専修学会という会を組織して毎月1会学術講演会を開いていた。その後も山谷は東大病理学教室と長年にわたって交流があり、教室への協力を惜しまなかったし、のちに東大総長に就任した長与又郎など、日本医学界の指導者となった数多くの知友を得ることができ、中央での活躍にとって大きな支えとなったといえる。
 選科で研修したのち、さらに引き続いて国家医学講習科を受講しており、弱冠20歳代の若さで『医事衛生制度全書』を出版した。次いで医学雑誌『国家医学』を発行し、一時的に中断はあったが、その後は50年以上にわたり、医療ジャーナリストの先駆けとして文筆生活と医学雑誌経営の生涯を送ることになった。
 母校回顧
 山谷家に古いガラスの写真原版が保存されており、桐箱には「山谷氏肖像、山谷徳治郎は美作国真島郡三田村に生まれ、十六才にて岡山県医学校に入り刀圭(医学)の道を学ぶ」と記されている。岡山東中山下の佐々木写真師により、1884年(明治17)6月に撮影されたものであり、当時の写真は珍しく、孫の渉氏は新しい物が好きだった祖父の面目躍如たる思いがするという。
 山谷は自分が発行した『医学公論』に、母校の岡山県医学校の少史を執筆している。これは古稀記念集にも掲載され、その一部は本学の百年史に引用されている。
○明治天皇行幸の御事跡
 山谷が特筆しているのは、明治天皇の異例の行幸と大学昇格計画の挫折である。天皇の行幸は府県立医学校としては初めてのことであり、1885年(明治18)に卒業した山谷は在学中に天皇を奉迎しており、50年が経過して、晴れの盛儀を伝える記録が乏しいことを残念に思っていた。内山下小学校の記念碑は、行幸50年を記念して1939年(明治14)に岡山市、池田侯爵家、医科大学、内山下主学校校友会などによって建立されたものである。
 天皇行幸より前の、県医学校になって間もない82年(明治15)に、早くも清野病院長らが教師陣を充実して東大に次ぐ第2の大学昇格を企図した。しかし無謀な計画として、ときの県知事の同意が得られず実現しなかったという。
○母校旧師の学勲
 児島湾沿岸に肝臓の腫れる地方病があり、原因不明の病気として恐れられていた。清野、菅、山形の3教授らが多くの患者を診察し、解剖して研究して、この病気が肝臓ヂストマであることを明らかにした。全国的に地方病の原因が解明された例がなく、岡山で肝臓のヂストマが発見されたのは画期的であると学界の称賛を博した。 ○社会事業家石井十次君の追懐
 在学中に後輩の石井を紹介されて交際し、ともに実験をしたこともあった。たいへん優秀な人物で、卒業を目前にして孤児の悲惨な状況を見て心を動かされ、孤児救済の事業を始めた。以前からの目的である医師になることを止めて新しい事業の転向邁進した。これが非凡なところで、没後20年に当たって実に感慨にたえないと石井を追懐している。
○中浜東一郎教諭の不眠症
 中浜教諭(ジョン万次郎の長男)は学問該博、教授懇篤で学生に人気があった。勉強が過ぎて健康を害することを恐れて、毎月4、5回、夜を徹して酒を飲んだ。そのため翌朝は酔眼朦朧、精神恍惚として学校に行くことができなかった。学生には定期性不眠症のために一睡もできず、翌日には心身疲労のため講義を欠席したと話していた。
 しかし学生は中浜のゴマカシを知り、弁解のたびに笑っていた。内科各論の神経病篤で不眠症の原因について講義したが、学生はどうして自分の不眠症の原因を説明しないのかと私語していたという。
○旧岡山県医学校の第1回卒業生
 百年史に全文が引用されている。その他にも○創立と発達、○母校旧師の追懐、○同校の寿命とその卒業生、○旧学友の追懐、などがある。
 1918年(大正7)に本学の官立30周年、県病院40周年祝賀会、卒業生同窓大会の寄付計画が成立した。しかし筒井校長の死去などによって中止になった。(『岡山医学会50年史』1939)
 
 国家医学
 1889年(明治22)12月、当時はまだ日本に普及していなかった疾病の予防、衛生、裁判医学(法医学)などの知識レベルの向上のために、卒後教育として東大に新たに国家医学講習科が開設された。
 病理解剖、衛生学、法医学、精神病学、毒物学、黴菌学、医制および衛生法、その他に臨床各科の講義もあり、はじめ講習期間は12週間、のちに4ヵ月に決められた。東大の教授が講義に当たり、講習生は府県からの特撰医師と試験によって選ばれた医師があった。講習生の募集は全国的に反響を呼んで募集者が多く、岡山の出身者もこの講習を受けている。行政上の必要からも再三にわたって講習が開かれ、のちには必要に応じて不定期に募集と講習が行われた。
 国家医学講習科より前の1883年(明治16)、長谷川泰らによって東京私立国政医学研究会が発足し、87年に国政医学会と改称して『国政医学会雑誌』と変わった。  山谷は選科で2年間学び、講習科が始まって1年後の90年春に第3回生として受講した。91年には、早くも時の衛生局長の長与専斎による「眼前皆赤子頭上是晴天」の題字を得て、『医事衛生制度全書』(鶴山堂)を編纂し出版している。日本の衛生制度に関する法規をまとめた700頁の大冊で、それに注釈を加えた本は初めての企画であったため1,200部も売れたという。本書の出版はその後に山谷が文筆と出版を志す動機になったと思われ、次いで94年(明治27)には増補改訂した『現行増訂医事衛生制度全書』(国家医学社)を再出版している。
 さらに国家医学の必要性と将来性に注目して、月刊の『国家医学』を創刊し、関連する学術記事の他にも医界の時事ニュースを報道した。また毎月2回、号外として約60頁の『国家医学講義録』を発行していた。国家医学の創刊に当たっては、岡山の後輩で、のちに第一生命を創設した矢野や、ドイツ医書の翻約をしていた高坂駒三郎(香川)が協力しており、岡山の眼科教授になった井上通泰が依頼を受けて添削していた。いろいろな事情と山谷の病気で発行がおくれた上に、ほぼ完成していた雑誌が神田の大火で類焼したために謝罪文を出している。
 創刊号では社会的に大きな関心を持たれていた相馬事件を論評しており、相馬事件とは、相馬誠胤子爵の精神症状と死因をめぐる当時の有名な大疑惑である。第2号では「北里医学博士の帰朝」と題して、92年にドイツから帰った北里柴三郎の不滅の業績を紹介し、積極的に活動を支援した。以来、伝染病研究所長として、また日本医師会長として、医学界の巨頭になった北里の知遇を得ることができた。国会学に連載した「時評」「医界奇譚」などが、没後に『山谷徳治郎戯筆集』(1946)に収録されている。
 1893年(明治26)には純然たる医学時事雑誌が他社から発行されたこともあって、国家医学を廃して医事ニュースを論評する『医界時報』を発行した。翌94年に『医海時報』と改めており、同誌はA3判の医事評論誌で、雑誌というより週刊新聞であった。また出版の他にも陸軍の嘱託になって徴兵検査医務に従事し、東京音楽学校などの校医も勤めていた。
 医海時報で特筆すべきことは、すでに文人として名高かった軍医森鴎外との大論戦である。鴎外は自分が創刊した『衛生療病誌』の誌上に「傍観機関」欄を設け、93年5月から翌年2月にかけて山谷と激論を展開している。山谷が高木兼寛、長谷川泰らの大日本医会を支援していたため、これらの旧勢力を反動と称し、「余們は医海時報を以て反動機関なりとす。医海時報の主筆山谷氏、之を妄(でたらめ)なりと弁ずるところあり。余們はここに傍観機関の一隅を塞ぎて、時報の反動機関たる所以を明らかにし、山谷氏の妄とする所の妄に非ざることを示さんとす」と痛罵している。
 鴎外の戦闘的文筆活動の時期とも評されているが、『鴎外全集』(岩波書店、1989)巻30に、9回にわたる100頁を超す鴎外の反論が収録されている。坂内正『鴎外最大の悲劇』(新潮社、2001)によると、「論争に勝つためには自説を曲げず、詭弁も辞さない鴎外の強引な論法」であるという。執拗に論断した鴎外はやがて軍医学校長になり、94年(明治27)に日清戦争が始まって朝鮮、中国へ出征した。二人の和解に尽力したのが両者と親しかった井上通泰である。  この大論争と関係があったかどうか不明であるが、翌95年に医学雑誌の経営を編集人であった田中義一に譲っている。言論の場から離れ、警視庁警察医長でのちに日本医大の学長になった山根正次の世話で、滋賀県の検疫官になり、96年には日本最高の研究所であった北里の伝染病研究所で細菌学を学んでいる。  97年(明治30)に、郷里に近い津山に岡山県北で初めての私立津山病院を開設した。当時としては設備のととのった病院で、人気がよく津山周辺からも多くの患者が集まるようになった。地域医療のために活躍する病院はできたが、思わぬ波紋を引き起こした。津山病院の盛業によって町内の開業医の患者が半減したために、これに対抗して8人の医師が合同して千田病院を開設した。山谷はこのような対立をきらって折角開いた病院を閉鎖し、恩師である大阪の清野勇に招かれ清野病院の副院長として診療に従事した。
 清野は79年(明治12)に東大を卒業して直ちに岡山県病院長に就任し、山谷は組織学、診断学、眼科学などの講義を受けている。88年(明治21)に清野は大阪府医学校の校長に転任し、医学雑誌を発行していた山谷は、大阪に出張した時は清野を訪れていた。1901年(明治34)に、清野は校長兼病院長を辞任して大阪で開業し、翌年から山谷は副院長として勤務し自分でも夜間開業していた。その頃、山谷は将来性が見込まれていたアメリカへの移住を本気で考えていたが、その影響によって、清野は自分の息子をアメリカへ移住させて大成功を収めている。
 のちに山谷は独立開業したとき、清野は患者を紹介して支援しており、そのため市長、銀行頭取、住友家や鴻池家、薬業界の武田、塩野など、大阪政財界の有名人のかかりつけ医となることができた。地磐の全くなかった大都市で、山谷は清野から受けた指導と恩顧を生涯にわたって感謝していた。
 
 ドイツ留学
○山谷徳治郎君 嚢日(先日)本誌に記載せし如く、同君は愈旅装を整え、本月二九日神戸解纜(出港)の神奈川丸に塔し(乗り)独逸国の途に上られたり。  (岡山医会誌 209号、1907年6月)
 北里の推薦によって、高峰譲吉のタカジアスターゼやアドレナリンの販売で有名な三共合資会社から留学資金の一部を提供され、先輩や知友の協力もあり念願のドイツ留学が決まった。1907年(明治40)6月末に神戸港を出港し、49日後の8月16日にフランスのマルセーユに上陸した。土地不案内でしかも言語不通の、全くの1人旅でスイスを経由してギーセンに着いた。人工3万の小さな町でありながら、ギーセンには300年の古い歴史を有する大学があった。日本からの留学生は少なかったが、20年来の友人で精神科教授であった荒木蒼太郎(1889・明治22卒)が留学していた。
 ギーセンに5ヵ月滞在し、その後ゲッチンゲン大学へ転学して、ドクトル・メヂチーネの学位を受けた。留学中に医海時報へ『独逸留学の一年」「碩学コッホの事績」など多くの随筆、紀行、評論、日記を寄稿している。桂田富士郎(病理学教授)や菅之芳校長に宛てた手紙によれば、その当時ドイツへの医学留学生は東大に次いで岡山が多く、岡山出身者の消息を詳しく報告している。
○独逸通信
 …内地に於いては虎列拉病処々に蔓延の兆し之有り候由、我が県下は如何に候や。三十五年の当時を思い出し候えば膚に粟を生じ候。定めし学兄には県下防疫に御鞅掌(忙しく働く)遊ばされ候事と存じ奉り候。
 日本にては近来「ペスト」殆ど風土病の如くに発生し来り、容易に根絶し能わざるに、かく五、六年目に虎列拉病の流行ありて伝染病の問屋となりては、戦争にのみ強くても、欧州人の侮りは免れ難き義と存じ奉り候。
 戦争と申せば内地にては此程多数の華族続出致し候由、戦勝の賜は有難きものに候。華族の続出と共に、目下内地にては茸も蔟生致し居り候事と存じ奉り候。華族よりは茸の方に涎が流れ申し候。
 小生は客月(先月)二十三日より伯林で開かれし第十四回万国衛生、及び民勢学会に出席つかまつり候。欧州大都の風光と共に、世界的大学会の盛況をもうかがい申し候。其の状況は医海時報に報し置き候間、御一覧下さる可く候。ついでに目下当国に留学せらるる我同窓諸君の近況を一、二御報告申し候えども、今近当国に於ける日本留学生は空前の多数なる中にも、我岡山医学校出身の士は、東京大学を除き他の医学校に比し著しき多数にて、其の数実に十三名に達し中々の優勢に之有り候。…   独逸ギーセンにて 十月十六日   山谷生
  桂田学兄 玉案下
        (岡山医会誌 214号、1907年11月)
○独逸通信
 昨年内地を辞し候より早くも一年が過ぎ、今更歳月の匆々たるに驚き、学窓得る処少なきを嘆し居り候。兼ねては長しと思われし二年の留学期も何時しか夢の如くに相過ぎ、相変わらずの呉下の阿蒙(昔のまま進歩しない人)。何の得る処もなくして茫然帰朝致し候事も遠からぬ事と存じ奉り候。…
 菅校長に宛てた長文の手紙(岡山医会誌 222号、1907年7月)によると、山谷は1月、荒木は3月にゲッチンゲンに転学し、ドイツをはじめ欧州に留学している日本の医学留学生は未曾有の多数にのぼり、5月末に140人(ドイツ120、オーストリア12、スイス5、英2、仏1)に達していた。岡山出身は14人で10%を占め、東大以外では最も多く、千葉11、凶徒、愛知5、金沢4、大阪3、仙台2、長崎1であった。
 量だけでなく質でも岡山は優位を占め、至るところで頭角を現し異彩を放ち「人をして後日もし此等同種学校出身者中に医海に名を成す者であらば、即ち必ず我校出身の人ならん」と書いている。同窓生が多いのはミュンヘン、ビュルツブルグで、三町弘、淵田俊治、吉田坦蔵、岩野俊治、河内山政一、溝口嘉六、上田敬治、野田三郎、松波こ太郎、桑原利馬、さらに荒木、秦、その他にも岡山の教師であった磐瀬学士、同相馬(旧石川)学士などの消息を詳しく伝えている。
 山谷が予想していたように、岡山の留学生の中から秦佐八郎のような有名人が出ている。伝染病研究所からベルリンのコッホ研究所、次いでフランクフルトに移って、エールリッヒの梅毒の化学療法に関する研究に参加した。606号の発見によりエールリッヒはノーベル賞を受賞、実験を担当した秦も有名になり、のちに慶応大学の初代の細菌学教授に就任している。
○山谷徳治郎君
 一昨年渡欧以来、主としてギーセン大学に研鑽の功を積みドクトル・メヂィチーネの学位を得られたる後、本年ブタペストに開かれたる万国医学会に出席し、英仏諸国の大学病院、研究所等を視察し、1十月十七日伯林発の北里博士一行と共に西比利亜を経由し、本月一日敦賀に着し一旦上京せられ、本月十三日当地に帰着し、直ちに郷里勝山に向け出発せられしが、暫時同地に滞在し去る二十三日来岡し、当地有志者の歓迎会に臨み二十五日上京せられたり。
 因に記す。君は三共合資会社医務顧問となり、傍ら医海時報にも筆を執らるる都合なりという。
 (岡山医会誌 238号、1908年11月)
 
 日新医学
 「余が弱冠、郷學(校)岡山医学校に業を受くるの頃、師の講述を筆記整備して同窓の便に供したるが如き、これおしも文筆に干与するの初歩として容さるべくんば、実に余は医界操觚(文筆)五十年を経て、今日に至ると称するを得べきか」と山谷は楽堂古稀記念集の巻頭に記しており、すでに学生時代より、文筆と人の世話が得意であったことがわかる。
 日新医学の発刊に当たって「余は明治四十年独逸国に留学し、その留学の二年間に同国の学術ないし医界の事物を視察し、同四十二年帰朝後大いに感奮する所あり。医学補習教育に貢献せん事を決意し、直ちに地方二、三ヶ所にて医学補習教育講演会を開くと共に、是が機関として命じ四十四年九月、月刊日新医学を創刊した」と述べている。留学中に感じたのは、医学の進んだドイツでは医師の卒後教育が盛んなことであった。日本の医学の現状から、欧米先進国と肩を並べるためには、医師の補習教育がぜひ必要であると考えた。1910年(明治43)には宇治山田で最初の医師補習講習会を開催し、次いで三共の理事を辞任して『日新医学』を発刊した。
 同誌は各科の有名な権威者が執筆し、内容が豊富で優れていたため、医学者および読者の支援を得て好評を博した。数多い医学雑誌のなかで第1位を占めるに至り、他誌よりも高価(1部50銭)であったが、医学雑誌のなかで発行部数が最大になった。日新医学には総説とともに権威のある業績がぞくぞく掲載され、学会に裨益するところが多く、創刊の当初より成功したといえる。
 当時でも多くの医政問題が発生していたため、医学雑誌も純学術問題を扱うだけでなく、医政を論じ、医界の時事を報道する雑誌の必要性を感じていた。国家医学、医海時報を創刊した当時の抱負を再現するために、1912年(明治45)にはB4大の『医事公論』を月3回、5の日に発行した。
 さらに純学術雑誌の日新医学、医政評論誌の医事公論の他にも、実地医家の伴侶となる臨床雑誌の必要性を痛感し、1913年(大勝2)には月刊『臨床医学』を発刊しており、臨床家向きの記事を満載した同誌も広く愛読されていた。山谷が抱いていた医学雑誌を発刊する趣旨と抱負を反映して、明治の医学揺籃時代から純学術、臨床、評論の、3種の医学雑誌の先鞭をつけたことは、医学の進歩発展に間接的に寄与したということができるであろう。
 さらに雑誌以外にも『最新結核病論』『治療全書』『日本薬局方』『日新医学研究録』などの医書も出版している。これらの出版事業は順調に発展し、1920年(大正9)には日新医学社を雑誌の発行、医書出版の外に外国医書の輸入販売、薬局、医療機器、衛生材料の販売などの、医家向け総合サービスを目的とした資本金50万円の株式会社に改組した。
 その後も、23年(大正12)の関東大震災までは盛んに事業の拡張が行われたが、震災によって一瞬にして会社の資産の大半を失って、甚大な損失を受けることになった。この非常時に対応して資本を減資し、積極的に営業活動を再開して苦境をきり抜け、昭和の初めには、かつての盛業を回復することができた。
 この間、24年(大正13)5月の衆議院議員選挙に当たって、美作西部を選挙区とした第7区から当選した堪蔵庸一が失格になり、そのため25年1月に再選挙が行われた。山谷は兄が衆議院議員であったこともあって政友会より推され、郷里から立候補して当選した。議会が解散されるまで約1年間であったが国政に参画しており、短い期間ながら本学出身の最初の国会議員であった。
 25年(大正14)には、創業15年を記念して全国の10大学において医師補習講習会を開催している。
 28年(昭和3)12月21日、鳥取で講演中に倒れ闘病生活を送ることになった。突然の病気と不景気が重なり、社員のストライキもあって震災以来ふたたび経営危機を迎えた。幸いにも健康を回復し、薬品部門の増強を図り、経営の改善を通じて危機を乗りきることができた。
 35年(昭和10)に、創業25年と古希の祝賀会が清澄庭園で盛大に開かれた。内務大臣、文部大臣、東大総長、日本医師会長から祝辞が述べられ、朝野の名士や関係者など、来会者が700人を超える華やかな大庭園会であり、従業員より記念として寿像(生前の像)が贈呈された。第2次大戦までは社業はほぼ重町に発展しており、最盛期には数百人の社員と、国内外に7カ所の出張所を構えるほどになった。
 
 医学博士
 28年の山谷の病気は、胸部から上肢にかけての急激な痛みと、発熱、不安、頭痛、つづいて複視、眼瞼障害などの複雑な症状で発病しており、東大の島薗順次郎教授によって流行性脳炎と診断された。ときに63歳であった。治療によって次第に回復したが、31年には、ふたたび複視、眼瞼下垂、視野狭小などを来して脳炎再発(?)と診断された。
 流行性脳炎とは日本脳炎と思われる。日本脳炎の病原体は、フラビウイルス科に属するRNAウイルスで、コガタアカイエカにより媒介され、最近では環境衛生の改善やワクチンによって我が国では激減している。今でも有効な原因療法はなく対症療法が中心で、後遺症として精神障害や麻痺、パーキンソン症状が記載されている。  33年(昭和8)に『流行性脳炎新文献・脳炎記念』を編集出版した。その内容は自己の症例報告を含めた9例の脳炎報告集と、入沢達吉や稲田竜吉など10人の有名教授による座談会、脳炎の経験者としての自分の手記抄録からなっている。また巻頭には「病中偶成」と題する5首の漢詩が添えられている。
 山谷は長年にわたって医界論壇に健筆を振るっていたが、病気になって長期の療養を余儀なくされ、治療後は時どき漫筆や作詩に親しんでいた。しかし自分が病気を経験して、流行性脳炎の後遺症として、視野の狭窄によって半盲を来した症例がほとんどないことが判明した。そのために自覚症状や眼科の専門医による検査、診断を参考にして、自己の半盲に対する調査と研究を始めた。親しかった前慶応教授の川上漸博士の協力を得て、体験に基づいた流行性脳炎後遺症としての半盲症の臨床的、ならびに病理学的新知見に関する研究論文を懸命に執筆した。
 1938年(昭和13)に学位論文を慶応大学に提出し、念願かなって、めでたく教授会を通過して73歳という記録破りの高齢で医学博士の学位を授けられ、医学界に万丈の気を吐いた。
 流行性脳炎という自分のかかった病気をテーマに、学位論文を計画したのは、病後間もなくのことであった。家族はその計画を知って無謀さに驚き、病後の体に不可能であると、中止させようとしたが聞き入れなかった。そこで平素から尊敬していた大学の教授に、到底不可能であると説得してもらった。その場は神妙に聞いていたが、家に帰ると納得しなかった。東大の長与総長の説得もあって、折角の希望も挫折したものと思われていた。
 それでも山谷はあきらめなかった。説得を以来した川上教授が息子に「お父さんを助けて上げなさい。私も長年の親交があり、ご老人の世話をして上げたいと思っている。研究室には休むに都合のよいソファーがあるし、助手もいるし、顕微鏡もあるし、あまり気を使って反対しないように」との厚意的協力があった。そのために家族も反対するのを断念して研究は実行された、驚くべき意欲と頑張りであった。
 川上教授が満州へ赴任し、新潟から後任の川村麟也教授が着任して、前教授と同じように指導を受けた。73歳で学位を授与されたことが新聞に報道され、自己の体験による研究と、記録的な高齢者の学位論文完成が世の関心を集めたという。
 学位以後もいろいろの計画を描いていた。温泉が好きで、温泉療養所を作りたいと計画していた。毎年夏の秘書に行っていた那須も候補地の一つにしていた。虚弱児童のための林間学校、回復期の結核患者のために秘書に行っていた那須も候補地の一つにしていた。虚弱児童のための林間学校、回復期の結核患者のためのコロニー住宅も考えていた。東大物療内科の真鍋教授や温泉協会の人とも相談し、温泉療養所を伊豆に建てる計画は、最後まで断念していなかったという。
 人の世話をするのが好きで、病後も機会あるたびに人のため進んで尽力し、秦佐八郎など物故知人の慰霊のために追悼尊誌を編集している。病後の不自由な身には、たとえ小冊子でも負担になる仕事であったが、その訃を悼んで霊前に捧げている。また葬儀には家族の止めるのも聞かず、歩行不自由にもかかわらず列席して心から死を悲しんでいた。子供であれば、どこの子供でも可愛がり、今良寛様と称されていた。
 
 医界文筆50年
 1940年(昭和15)5月26日、山谷は日本の医界に大きな足跡を残して、75歳の輝かしい波乱に満ちた生涯を終えた。遺言によって長与博士の立会のもとに慶大川村教授によって解剖を受け、学会の謎であった流行性脳炎の究明のために自己を捧げた、山谷らしい最後であったといえる。
 葬儀は長与が委員長となって青山斎場で行われた。文部大臣、厚生大臣、日医会長、東大病理学教室などの弔辞のあとに、岡山医学同窓会を代表して東京支部長の矢野恒太が簡潔な弔辞を捧げている。弔辞、弔電519通が披露され、会葬者は1,000人を超える盛大な葬儀であった。
      松浦文部大臣弔辞
 日新医学社長、山谷徳治郎博士急逝せらる。君は業を東京帝国大学医学部に修め病理学を専攻す。のちドイツに留学して研鑽大いに勉め、帰朝後、医学の普及発達を意図して専門誌の刊行に志し、日新医学、医事公論、臨床医学を発刊す。選ばれて衆議院議員の席に列し、その後脳炎の研究を完成し医学博士の学位を得られる。時正に七十有三歳。老来倍々矍鑠として栄徳弥々進み、志業弥々栄えて今日に及べり。
 君、資性豪放にして明哲、日夜孜々として其の業に精励し、前後十数年に亙りて、我が邦医学教育の発展と、斯界の進展とに貢献せらるるところ真に大なり。今や非常の時局に際会し、医学医業の深奥に俟つもの愈多きを加ふるの秋、再び君が識見造詣に期待し得ざるに至りしは、寔に痛惜に堪えざるところなり。此に謹みて君が生前の功業を称え、一言微忱(ねんごろな言葉)を述べて弔辞となす。
 昭和一五年五月三〇日
              文部大臣 松浦鎭次郎
    東大医学部病理学教室同窓会弔辞
 東京帝国大学医学部病理学教室同窓会会員一同は、医学博士山谷徳治郎博士の逝去を深く御悼み申し上げます。博士は明治二十三年、我が病理学教室の創立当初に故三浦守治教授に就いて病理学を学ばれました。博士の病理学並びに我が病理学教室への関心は、之に依って根強く培われたのであります。
 されば博士は、我が教室或いは同窓会の名によって行われます会合には、我々の長老としてよく出席せられ、陰に陽に教室のために力を添えて下さいました。現に大正七年には、三浦守治論文全集が門人等の編纂によって発刊されましたが、博士はこの大部の出版物の印刷を進んで引き受けて下さいました。また博士が晩年御大病の後に、志を新たにして学位を得られました御研究も、病理学領域であったことは、博士のこの領域に対する深い愛着を示すものであります。博士は医学雑誌の経営者として名をなされましたが、若き時代に我が教室において、三浦先生によって哺まれた博士の医学に対する高い見識と理想が、茲に至って着々具現したのであります。
 ことに雑誌『日新医学』を発行し、夙に本邦唯一の高級な学術雑誌として我が国の優秀な研究報告は、殆ど全てこの雑誌に発表されたと申しても過言ではありません。論文発表に際して、博士の利害を超越した御厚意に甘えたものは、我が同窓会会員中にも極めて多いのであります。
 過ぐる年我が教室が創立五十周年記念の会を催すに当たりましても、博士は御不自由な起居に拘わらず、我々の為にあらゆる援助を惜しまれず、最も困難な教室の歴史の調査の糸口も、博士によって与えられたものが少くなかったのであります。このほか博士と我が教室ないし同窓会との交渉は、明治の中期から今日に至るまで真に永く且つ密なものであり、一同の深い敬愛の念を蒐めておられましただけに、我々が御悼み申す心にも、真に深く且つ切なるものがあるのであります。ここに同窓会一同に代わり、この情の一端を述べて弔辞と致します。
 昭和一五年五月三十日
   東京帝国大学医学部病理学教室同窓会
                   緒方知三郎
           (山谷徳治郎追悼尊誌、1940)
 山谷は清野、北里、長与、三共の塩原又策社長らのよき指導者、先輩、知友にも恵まれた人であった。明治から大正、昭和にかけて、開業医、ドイツ語学生、専科生、講習生、文筆家、医事評論家、編集人、徴兵検査医、校医、検疫医、勤務医、留学生、特派員、主筆、経営者、次いで衆議院議員、70歳を過ぎてから医学博士への挑戦など、医師としては他に例を見ない、きわめて多彩な経歴であるといえる。
 山谷を熟知する人たちは、勇健、慧眼、木鐸(社会の指導者)、理想家、実際家、努力家、事業家、健筆家、精力家、楽天家であり、天真爛漫、頭脳透徹、言語明哲、覇気横溢、不磽不屈、歩武(あゆみ)堂々、犀利卓越(文章の勢いが鋭い)の人であり、さらに信念の人、維新の人、達意の人、魅力ある人、人に好かれる人、人に敬せられる人、人を大事にする人、先鞭をつける人、一を聞いて十を知る人であると評価している。
 ひとり息子の太郎は、父の郷里岡山の六高柔道部の全盛期を支えた猛者で、東大で応用化学を学んだ科学者であり、自然を愛した俳人でもあり、『野鳥歳時記』(1943)を残している。山谷の文才は親から子へ、子から孫の倉本聡に伝わって凝集している。
 山谷は医師の立場から、医学に関する情報をひろく医界に報道し、評論した人である。記事正確、報道迅速、論説公平、穏健着実、不偏不党の方針のもとに、文筆を通じて陰ながら医学の進歩と発展に貢献したということができる。豊かな才知と積極性と鋭い先見性をもち、バイタリティーに満ちた、特異な人生を歩んだ高名な医界ジャーナリストの先覚者であった。
 執筆に当たって山谷渉(東京)、中山沃(西宮)、生瀬克巳(和泉)、宮島靖(勝山)、俣野栄(津山)各氏のご協力をいただいた。