横川吸虫の発見者
横川 定(よこがわさだむ)

  寄生虫学者
 『臨床家たちの奮戦記−病名に名を残した医師−』(メジカルセンス社、2000)に40人の名が挙げられている。日本人では高安右人(高安病)、橋本策(橋本病)横川定(横川吸虫症)、泉仙助(泉熱)、宮崎一郎(宮崎吸虫症)、川崎富作(川崎病)、菊地昌弘(菊地病)、内藤明彦(内藤・小柳病)の8人が選ばれている。その中の横川は本学の出身であり、臨床医ではないが≪横川吸虫≫の発見者として名を残し、日本が統治していた台湾で、医学教育と研究に生涯をささげた寄生虫学者である。
 寄生虫疾患は、かつて結核とともに日本の国民病といわれていたが、衛生環境の改善などによって、国内の発生は減少の一途をたどってきた。しかし国際化の時代になって発展途上国との交流が増え、寄生虫疾患に罹患する人は増加しているという。途上国では寄生虫疾患が日常的に流行しており、たとえ短い期間の滞在でも、罹患するリスクは高くなっている。最近の『日本医師会雑誌』(125巻6号、2001)は、特集として「海外旅行病の予防と診療」を掲載し、寄生虫学会もホームページに窓口を開いて、医療関係者に対して寄生虫疾患への注意を喚起している。
 東京目黒に寄生虫の研究をライフワークとした開業医の亀谷了氏が、私財を投入し設立した目黒寄生虫館(Meguro Parasitological Museum MPM)があり、世界でただ一つの、珍しい寄生虫専門の博物館と研究所である。その研究史室には、筆者の時代の山口左仲教授が筆記した驚くほど詳細な研究ノートが資料として展示されている。さらに研究史年表には、横川以外に桂田富士郎(病理学)をはじめ鈴木稔(細菌学)、田部浩(病理学)、山口(寄生虫学)ら諸教授の写真も掲示されており、本学の病理学教室、細菌学教室、ならびに本学出身者が、日本における寄生虫学の発展に大きく貢献したことが分かる。  横川について、晩年の1954年(昭和29)から翌年にかけて『東京医事新誌』に掲載された「余が寄生虫学研究の50周年回顧」や、岡山の記録、さらに3男宗雄博士未亡人みどり様のご協力をいただき、その足跡と業績を紹介したい。
 横川定(戸籍はさだ)は、1883年(明治16)7月21日に岡山県久米郡大垪和村大垪和西、現在の久米郡中央町大垪和西で開業医の長男として生まれた。恩師として横川を崇拝した医師庄司忠の『人生行脚』(岩国病院、1978)によると、父の墓碑銘(漢文)には「父の名は信治、備前国津高郡高富村(御津郡加茂川町高富)に草地佐三治の長男として生まれ、明治6年4月に、祖父横川房五郎の娘との縁組みによって横川家の養子となった。藩医の小川知彰について医学を学び、恩にむくいんとして家を興した。資性温厚でおだやかな真面目な人で、郷里の人から学徳のある人として推されていた。大正5年11月23日に卒す、享年60有9、大正13年10月建 家嗣 医学博士 横川定謹書」と刻される。
 『帝国医籍宝鑑』(南江堂、1898)に従来開業医・横川信治とあり、『岡山県医会第一回記録』(1905)の名簿では信次とあるが、信治が正しく、大垪和村でただ一人の医師であった。小川知彰に医学を学んだというが小川は藩医ではなく、1879年(明治12)東大別科を卒業して岡山県医学校の教師となり、解剖学や生理学を講義し、県病院の医局長を兼任したこともある。のちに岡山で開業して眼科を得意とした医師で、戦前に商工大臣を勤めた小川郷太郎の養父である。
 従来開業医とは、明治初期に医師の免許資格が定められ、すでに開業して無試験で免許が与えられた医師をいう。医師免許規則と医術開業試験規則が公布されたのは、横川が生まれた1883年(明治16)で、当時は医師のほとんどが従来開業医であった。
 中央町は岡山県と久米郡の中央に近く、大垪和西は標高400メートル前後の高所にある山間僻地で、伝統的な棚田が多く見られる。道路は整備されているが町の中心からも、津山線の福渡、弓削、誕生寺、亀甲の各駅からも遠く離れており、かつて国保診療所に医師がいたこともあるが、現在はとなりの旭町から週1回の出張診療である。
 横川はふるさとを「美作のほぼ中央部、旭川よりも中部山脈沿いの地で、屋敷の西方には備後の三瓶山を望み、裏山に登れば北西に伯耆の大山を望み、6月半ばのころでも夕刻は肌寒さを覚え、秋から冬にかけては西風が強く、冬は西側に高塀を設けなければならないほどで、8月末には冷気を覚える所」と記している。しかし、ここから大山は見えるらしいが、島根県の三瓶山はもちろん広島県も見られない。
 
 海外旅行
 横川は地元の就正小学校、次いで旭川にちかい栃原の高等小学校を終え、岡山の関西中学校(現在の関西高校)に進んだ。同校は岡山薬学校や岡山県医学校の予備科から発展した学校で、医師希望の生徒が多く、日清戦争後の好景気もあって県内だけでなく広く県外からも生徒が集まっていた。2年生になって成績抜群のため特待生に選ばれ、卒業まで授業科を免除されていた。校長の片平周三郎は、県医学校の助教授兼病院副医局長を勤めた人で、福沢諭吉に心酔していた。当時としては大変珍しいことであるが、優秀な生徒に海外から日本を眺めさせ、国際社会で活躍し得る人材を養成したいと考えていた。
 1902年(明治35)の夏休に、成績が優れた生徒を連れて校費によるアメリカ修学旅行を行った。国際人を育てるという教育目標とともに、大学設立の夢を抱いた破天荒な旅行であった。片平校長を団長に、英語の教師、横川のほか生徒7人、その他計12人が日本郵船の伊予丸に乗船し、6月28日神戸港を出港した。横浜港を経て、カナダのバンクーバー、アメリカのシャトル、タコマ、ポートランド、サンフランシスコなど、アメリカ西海岸の主要都市を歴訪した、各地で在留邦人などから大歓迎を受け、横川は生徒代表として謝辞を述べている。
 帰りは外国の船で風呂のない3等船室であったが、ハワイを経由し8月26日に横浜港に着いた。一中学校による太平洋を横断する修学旅行は、当時の日本では初めての快挙であったといわれ、生徒たちは感銘ふかい旅を経験することができた。
 岡山はコレラが流行していたために、東京を見物して2ヵ月ぶりに岡山に帰着し、アメリカ西海岸の都市と比べて、首都東京のあまりの貧弱さに驚いている。アメリカ修学旅行は『関西学園百年史』(1987)に詳しく記録されており、アメリカでの募金が予定どおり集まらなかったため、1回だけで以後このような海外旅行は行われなかった。横川はこの旅行を通じ、校長の期待に応えて、せまい日本よりも海外に目を向けるようになったと思われる。
 1904年(明治37)、大国ロシアをあいてに日露戦争が始まった年に岡山医学専門学校に入学した。トップで入学したため、横川の名が新入生の最初に記載され仮級長に使命された。在学中も成績優秀で、特待生に選ばれて授業料を免除されていた。
○新入学者 本月4日より執行せる選抜試験の結果、左記の121名に対し入学を許可せられたり。
 横川定(岡山平民)……
     (岡山医学会雑誌 174号、1904年7月)
○入学宣誓式 本月12日午前8時より、本年新入学生の入学宣誓式を挙行したり。一同着席するや入学生総代として横川定君宣誓文を朗読し、次に各自宣誓簿に記入し終って菅校長より訓示的演説ありて、式の終わりたるは午前10時頃なりし。
 (岡山医誌 176号、1904年9月)
 入学した年に、病理学の桂田富士郎教授が日本住血吸虫(Shistosoma japonicum Katsurada、1904)を発見して一躍有名になった。同教授の泰斗ウイルヒョウに魅せられ、将来は病理学、とくに日本に多い人体寄生虫を研究したいと念願するようになった。
 07年(明治40)7月に医専での最後の夏休を迎えたころ、日本は日露戦争に勝って朝鮮半島、満州(中国東北3省)に勢力を拡大していた。そのため大陸への無銭旅行をする学生もあり、これに刺激されて友人と2人で朝鮮、満州へ無銭旅行を計画し実行した。旅行先で販売するために、薬屋で民間常備薬の仁丹や征露丸、アスピリンなどを安く購入し、民衆の娯楽用と、606号(梅毒特効薬)や伝染病などの衛生講話のために幻灯板を持参した。
 釜山から大田を経てソウル(京城)に着き、劇場を借りて講演会を開いたが、幻灯に引火して講演会ができなくなった。日韓合併前の貴族の邸宅や名所旧跡を訪ね、さらに北上して瀋陽(奉天)や旅順を訪ねて、名高い二〇三高地の戦跡や、日露講話の会場となった水師営も見学した。旅行に際しては現地に駐留していた日本陸軍の協力によって、下士官待遇をうけて兵営の宿泊が許され、帰りは軍の御用船を利用して宇品港に帰った。新学期になって学友会で満州、朝鮮視察の報告をしている。
 現在では海外旅行は珍しくないが、飛行機のなかったときに、中学時代のアメリカ修学旅行も、医専時代の朝鮮、満州への視察旅行も、どちらも当時としては大変珍しい得がたい経験であった。

 台湾総督府医学校
 1908年(明治41)11月に岡山医専を卒業し、入学と同じく卒業もまた一番で、横川の名が卒業生の最初に記載されている。
○卒業試問 本月21日より卒業試問を開始せり。
 試験問題(筆記) 病理学2問(1)腸管に帰省せる病原的寄生物の名称およびその生物学的位置(岡山医誌 224号、1908年9月)
○卒業生 兼てより本年度卒業試問執行中なりしが、去月29日に終了し、本月2日其成績を発表せり。
 卒業生の氏名は左の如し。
  横川定(岡山平民)……
○本年の卒業生にして品行方正、学術優秀の廉を以て左の5名に銀側時計各1個を下賜したり。
 横川定 他4名
 (岡山医誌 226号、1908年11月)
 かねてからの希望により桂田教授に師事して病理学の勉強を始めたが、病理学教室に助手の空席がなかったため、斎藤精一郎教授が医長であった県病院胃腸科に勤めた。県病院では、とくに胃潰瘍に関心を持って論文を発表しているが、ポストについて絶えず不安を感じていた。
○横川定君 明治41年卒業後岡山県病院胃腸科に勤務しおられしが、今般其の職を辞せられ、当分の間、病理学教室に於て研究せらるる由。
 (岡山医誌 252号、1911年1月)
 卒業して3年後の1911年(明治44)に、台湾総督府医学校の助教授であった桂田門下の久保信之(1901年本学卒)がドイツに留学することになった。教授から留学中の講師に推薦され、病理学の経験はまだ浅かったが喜んで台湾行きを受諾した。その年に日本病理学会が設立され、教授にすすめられて東大で開かれた第一回の総会に出席し、有名学者の馨咳に接し、懇親会で会長から激励されたことは大きな感激であった。
 台湾行きに当たり、日本とは気候風土の異なる土地での生活と、妻が妊娠していたこともあり、とりあえず4月に単身赴任した。台北で下宿したのは、日本人が経営していた日の丸館という快適な旅館であった。当時は日本が領有して10数年たったころで、戦勝気分の日本人が多かった。日本郵船と大阪商船が内地と基隆を毎週2往復し、門下から3日、神戸からは4日もかかっていた。
 台湾における医学教育は、1897年(明治30)に台北病院の付属として医学講習所が設置されたのが始まりである。正式には99年に、医師の養成と公医候補生の講習、熱帯医学の研究などを目的として総督府医学校が創設された。最初は学生はすべて台湾人で、日本人の入学は許されなかった。日本内地の医学校には見られない壮麗な校舎が建てられ、日本語が不自由な台湾人学生のために、1年ないし2年の予科が設けられていた。日本の中学程度の補習を行っていたが、上達は驚くほど早かったという。
 まず講師として赴任して翌年に助教授になったが、当時は専任の教師、とくに基礎医学の教師が少なく、病理学だけでなく専任のいない組織学、解剖学、法医学なども講義した。内科の吉田坦蔵教授は本学の出身(99年卒『会員名簿』は垣蔵)で、『井上内科新書』の著者として有名な井上善次郎教授と共著の『内科診断学』を教科書として用いていた。
 一番若い教師であったため重宝がられ、面倒な雑務もあり、そのうえ舎監兼務を命じられた。5日に1回は寄宿舎に当直するようになり、生徒とともに夕食をとり、就眠時に点呼し朝は5時に起きて掃除し、7時に点呼して朝食をともにするなど、一切の行事を励行して範を示すことは容易ではなかった。そのころ先輩の吉田から教会の牧師を紹介され、これがのちにキリスト教徒になる動機になった。
 赴任後に男子が誕生して岡山に帰り、その後は家族そろって台湾に落ちつき、戦後の47年(昭和22)に引き揚げるまで40年ちかくも台湾で過ごした。長男を除いて4人の子供は湾生(台湾生まれ)で、台湾が故郷になった。やがて妻の2人の妹を引き取って養育し、家では研究のための読書に明け暮れる生活で、家計は妻にまかせきりだったが、郷里の両親への仕送りを欠かさなかったという。

 横川吸虫
 台湾で本格的な研究が始まった。肺吸虫症が蔓延していた竹東地方に行き、中間宿主の研究のため川魚のウロコや、筋肉、内臓などの検査から吸虫類の幼虫を証明した。この幼虫は、まだ記載されていない未知の寄生虫ではないかと考えられた。また肺吸虫症についての調査研究を精力的に行い、ひろく台湾人の食性と糞便や喀痰を検査した。
 日本人はアユやコイを生食するために、台北郊外の淡水河で、アユ、コイ、ウナギなどを捕獲し、竹東の河佐かなに見られた幼虫に似た被嚢幼虫は見つかった。これを犬に試食させて小腸粘膜に小吸虫を認め、淡水河のアユ料理店の従業員や家族の虫卵検査を行い、新しい人体寄生虫ではないかと桂田教授に報告した。桂田は横川の調査を追試し、旭川のアユにも同じ被嚢幼虫のいることがわかり、病理の教室員にもその虫卵を認めた。こして本虫の寄生者が台湾だけでなく、日本でも少なくないことが明らかになった。
 桂田はこの吸虫を最初はHeterophyes yokogawaiと命名したが、ロンドン熱帯病公衆衛生学校長リーパーは、未知の新吸虫としてyokogawa yokogawaiと呼ぶように提案した。のちに正式学名はMwtagonimus yokogawai Katsurada 1912と決まった。(属名、種名、命名者、命名年を表示、発見したのは横川の名が学名となり命名者は桂田である。学名はイタリックで記すのがルール)
 1913年(大正2)4月に、この吸虫が新種であることが確認され、「鮎を中間宿主とするメタゴニムス・ヨコガワイに就いて」の研究によって、伝染病研究所から奨学金と賞牌を授与され、さらに極東熱帯医学会より台湾における地方幹事に推薦された。
○横川定君の名誉、昨年中、本邦内において作業せられたる細菌学、および伝染病学に関する業績320余あり。此等について精密なる審査を遂げたる結果、横川定君の「鮎を中間宿主とする新寄生虫、および本虫に対する一属の新説」を最も優秀なるものとして、故浅川博士記念の奨学賞金(賞金100円と金製記念牌)を贈与せられたり。
 (岡山医誌 279号 1913年1月)
 そのころ岡山医専では、恩師の桂田と菅校長との対立から桂田が文官分限令によって休職となり、これに反対して学生はストライキに突入した。この事件は全国的にも有名になったが、桂田の復職はならず、大阪商船の中橋徳五郎社長らの支援により、桂田のために神戸に船員病および熱帯病の研究所と摂津病院が設立された。桂田に対する処分が適切でなかったためか、のちに文部省は、桂田を万国医学会の日本委員としてロンドンに派遣している。
 横川吸虫は横川が初めてメタセルカリア(幼虫)を発見し、その後に動物実験によって成虫を得ている。台湾だけでなく日本にも広く分布し、朝鮮や中国などのアジア諸国、バルカン、スペインからも人体寄生が報告されている。日本では交通の発達による魚の広範囲な輸送のために、戦前より増えて全国どこでも見られるようになっている。
 2ミリ足らずの小吸虫で、宿主より排泄された虫卵は第1中間宿主のカワニナという巻き貝に食べられ孵化する。カワニナは肺吸虫の中間宿主にもなり、貝の中でセルカリア(幼虫)となり、その幼虫が水中で第2中間宿主の淡水魚に進入してメタセルカリアになる。淡水魚はアユ、ウグイ、シラウオなど日本で50種ほど報告されており、なかでもアユが一番有名である。
 これら淡水魚の生食により経口感染し、寄生部位は主として小腸である。感染後6〜8日で成虫になり、10日前後に宿主の糞便内に虫卵が排泄され、少数寄生の場合にはたいした症状もなく経過する。アユは日本では高級魚として好まれているため。横川吸虫は広く存在しており、糞便虫卵検査で頻度が高い寄生虫である。
 
 医学博士
 1916年(大正5)に父が死亡したため帰省して葬儀を終えた。郷里の人たちは横川が開業医の跡をつぐのを期待したが、父は息子の自由にまかせて開業をすすめなかった。京大や東大から優れた業績について学位論文の提出をすすめられていた。父の生前には果たし得なかったが、亡くなった翌17年に横川吸虫に関する論文により、京大より医学博士の学位を授与された。当時の岡山新聞社が発行した『人物月旦』(1918)に≪35歳にして早くも博士になった医学博士横川定君≫が掲載されている。
 「鮎を中間宿主とする新寄生虫メタゴニムス・ヨコカワイに就いて」と題する博士論文を提出して、先にいよいよ医学博士の学位を得た横川定君は、久米郡垪和村の人である。君は岡山医専の出身で、級友の多くが県下至る処に甚だ振るわぬ開業医として田舎者の脈を握っている間に、早くも博士になり斯界に重きをなすに至った。
 君は医専の卒業後、1年ばかり県立病院の内科助手を勤めていたが、学生時代から知遇を受けていた桂田博士のもとに、しばらく病理学を専攻していた。つづいて同博士の推薦で、台湾総督府医学校に助教授として赴任し、同地でますます医学の蘊奥を究め、ついに京都大学に博士論文を提出し、今回めでたく博士の学位を得ることになったのであるが、君としては当然のことであろう。
 君は関西中学に在学中からすでに頭脳の明晰をもって儕輩を抜き、つねに「僕はきっと博士になってみせる」といっていたそうであるが、医専出身でしかも年歯ようやく35にして早くも博士になったのは、けだし斯界の一奇跡であると同時に、偉大なる記録破りであるといってもよい。
 君は何処となく学者肌の、小事に拘泥しない人で、試験に際しても、ほとんどこのために勉強するというようなことはなく、しかも何時も主席であった。君は温厚で寡言、しかも自信の強い方で、やろうと思ったことは何処までも遂げなければ承知しない人である。しかしそれがために頑固に流れるようなことはなく、医専時代には級友に受けもよく、例の同名罷校(学校ストライキ)当時は組長として、菅校長排斥の一方の旗頭であったそうである。  君は春秋に富み極めて永い未来を持っている。したがって本県のために、医学会の為にとくにその自重を祈っているのは、ただに君を生んだ岡山県のみではあるまい。
 このように紹介している。現在では35歳の医学博士は全く珍しくないが、当時の医学博士は新聞社が注目したように、珍しい貴重な存在であった。
 横川吸虫の発見は台湾へ赴任した年で、研究活動として最も初期のみのであった。この吸虫発見の学術的意義は、それまで知られていなかった。きわめて普通の人体寄生虫が明らかにされたことである。その卵は肝吸虫に類似しているので混同されていたが、鑑別が可能になった。またこの発見に刺激されて、淡水産の魚類を中間宿主とする吸虫類の研究が飛躍的に進展したことである。横川吸虫によって、横川の寄生虫学者としての地位は不動のものとなった。いち早く新しい寄生虫を発見できたのは、鋭い観察力とともに、ひたむきな努力が幸運をもたらしたのであろう。
 
 留学
○大正8年4月1日 勅令第62号に依り医学専門学校教授に任ず。
  台湾総督府
○大正8年5月8日 病理学に関する研究調査の為、米、英、瑞西の各国、及び埃及へ1年6ヵ月間留学を命ず。
  台湾総督府
 1919年(大正8)8月に渡米して、サンフランシスコ、ニューヨークを経てボルチモアに着き、連絡していたジョンホプキンス大学公衆衛生学部にコート博士を訪ねた。教授会の推薦によって、優待員として招聘するという予想外の待遇を受けることになり、1年間滞在して寄生虫学に関する研究を行った。この学部はロックヘラー財団の寄付によるもので、優待員は職員と同じように必要な機材を使用でき、会議で希望を述べることもでき、入学金500$が免除された。
 当時は第一次世界大戦の後で、ドイツへの留学が難しく、そのためアメリカへの留学者が多かった。なかでもジョンホプキンス大学への留学が最も多く、一時は30人以上の日本人留学生がいた。ところが留学生が職員を射殺して日本人への反感が高まり、やがてドイツへ入国できるようになって、多くの日本人はドイツの大学に移って行った。
 コートは家鼠に寄生している線虫、ヘリグモゾームムムリスの構造に関心をもっていた。そこで横川はその生活史を明らかにしたいと考え、これをマウスに感染させて成虫になるまでの経過を見ることにした。またネズミに寄生する各種の寄生虫も研究し、多くの知識を得ることができた。夏になって、コートが滞在していたミシガン大学の夏季学校に来るように誘われた。この夏季学校には日本人の留学生も参加しており、聴講は自由でたいへん有益な科学者の集まりであった。当時イタリアのゼノアで開かれた国際労働会議に、桂田が日本政府の顧問として参加しており、ボルチモアを訪れた桂田をワシントンに案内し寄生虫学者に紹介した。
 ボルチモアを去ってドイツに移る予定であったが、総督府から南米各国の医事衛生を視察するよう指令を受けた。そのためニューヨークからパナマ運河を経て南米に足をのばし、パナマ、ペルー、チリ、アルゼンチン、ブラジルの諸国を巡って、大学の病理学教室、熱帯病研究所、陸軍病院、伝染病院、防疫施設など、衛生事情や研究所の現状を見学した。  ついで南米からヨーロッパに渡り、ポルトガルの熱帯医学研究所、ロンドン大学の公衆衛生学校を見て、オランダを経由してドイツに入った。
 ベルリンでは敗戦国のみじめさが感じられ、夜は暗くて旅行は警察の取締りがきびしかった。ベルリン大学の研究室を見学し、東大で内科学を講じていたストリュンペル先生をライプチッヒに訪問し、日本医師会から託された慰問品を贈呈した。老齢のス先生はたいへん喜んで、日本の現状などを尋ね、日本が軍艦まで作れるようになったことに驚嘆し、戦争の悲惨さを訴えた。
 ライプチッヒ大学で病理学講義を聴講し、フライブルクで有名なアショフ教授を訪問した。ハンブルグの船員病熱帯病の研究所では、戦争で植民地を失ったドイツが、いまだに熱帯医学の研究をつづけているのを知ってドイツは滅びずの感を深くした。パリーでパスツール研究所を見学し、イタリアのベニス、ナポリ、ローマ、バチカンを経て、マルセイユ港から日本船に乗船し、21年(大正10)9月に帰国した。
 船と汽車で南北アメリカとヨーロッパにかけて地球を1周する旅は、当時では大変珍しいことであった。豊かで自由な新興国のアメリカの、徹底した民主主義と活力に目をみはり、充実した1年間の研究生活を過ごした。さらにヨーロッパでは、長年の歴史的な背景と文化的な貯蓄のもとに、各国の大学や研究所で、特色をもった優れた研究が行われている実情を知ることができた。2年間の留学を通じ外国の研究者と交流して理解をふかめ、新しい知識を学んだことは大きな収穫となった。
 留学中は家族は岡山に帰って市内西川の親戚の家に住み、ときどき大垪和西の生家を訪れていた。その間の夏休みに4人の子供たちが赤痢に感染したが、幸にもどうにか治癒することができた。留学から無事帰朝して、一家そろって再び台湾での生活が始まった。
 
  台北帝国大学医学部
 台湾総督府医学校は、1919年(大正8)に台北医学専門学校となり、36年(昭和11)に台北帝国大学医学部が開設された。はじめ医学校では日本人の入学は許されなかったが、のちに医学部の学生の半数は日本人になり、付属病院の他に熱帯医学研究所が付設されていた。横川は日本内地より充実した施設で学生の教育と研究に専念し、学生から最も敬愛された教授であったという。
 日本の大学医学部では、寄生虫学は病理学、または内科学1門分として講義が行われていたとき、すでに台北では、実験病理学及寄生虫学教室として1科をなしていた。
 23年(大正12)第23回日本病理学会総会において、「回虫病の病理学的方面」と題して宿題報告を行っている。寄生虫とその予防に関する数多くの業績を発表しており、150編の論文の中30編は欧文である。29年(昭和4)には、医学博士に次いで「鼠より得たる新線虫ヘリグモゾームムムリス、ならびに野鼠の腸管に寄生するヘリグモゾームムムリスの発育史」により東大から病理博士を授与された。
○昭和12年月6日 任台北帝国大学教授、敍高等官2等、本俸4級俸下賜、医学部勤務を命ず、寄生虫学講座担任を命ず
 内閣
○同     講座職務俸9百90円下賜
 台湾総督府
 1937年(昭和12)に台北帝大教授、兼学生主事に就任し、台湾での長年にわたる医学教育と寄生虫学への貢献により、多くの表彰、研究奨学金、賞牌などを受けた。さらに外国の学会からも名誉会員に推薦され、終戦前の44年(昭和19)に、依願退職により名誉教授となった。いつも微笑をたたえ、激することのない敬虔なクリスチャンで、台湾でクリスチャンの医師が多くなったのは横川の感化が大きかったといわれ、禁酒会の会長に推されていた。
○昭和17年2月14日 陞敍高等官1等
 内閣
○昭和19年5月6日 1級俸下賜
 台湾総督府
 依願免本官
 内閣
 『人体寄生虫学』第1巻(1930)第2巻(1933)、『最新人体寄生虫学提要』(1949)などは、いずれも森下薫と共著で数回にわたり増補改訂され、優れた専門書として広く用いられていた。その他にも『肺ジストマの研究』『回虫の発育史』『肺吸虫症に関する最近の知見』『マラリア原虫の赤外発育』などの著書がある。
 共著者の森下薫は、東大理学部動物科の出身で、北里研究所から台湾総督府中央研究所に移って医動物学およびマラリアの研究に従事した。さらに台北帝大医学部の衛生学、寄生虫学を担当し、寄生虫がとりもつ縁で、のちに森下の娘みどりは横川の3男宗雄に嫁ぐことになった。森下は戦後に大阪大学微生物病研究所で寄生虫病学部長、原虫学部長を勤めた。
 長男(家庭裁判所長)、次男(高等裁判所長官、妻は赤痢菌発見者・志賀潔の息女)は法華界に進み、宗雄(1918〜95)は第3期生として台北帝大医学部を卒業し、父と同じ寄生虫学者の道を歩んだ。軍医として召集され、戦後は国立予防衛生研究所、国立公衆衛生院などで寄生虫病学の研究に従事し、ロックヘラー財団奨学資金を受け、かつて父が学んだジョンホプキンス大学に留学した。
 肺吸虫に関する優れた研究により、寄生虫学奨励会から父につづいて桂田賞を、日本寄生虫学会から小泉賞を受賞している。千葉大学の教授、2期にわたる学部長を勧め、退官祝賀会において、多年にわたって親しかった本学の稲臣成一名誉教授が友人総代として祝辞を述べている。
 日本寄生虫学会、日本衛生動物学会の会長や日本寄生虫予防会の理事長などを歴任し、寄生虫学の権威者であり横川の学問上の最高の後継者であった。1984年(昭和59)、宗雄は退官後に母校の台湾大学から客員教授として招聘され、半年間、台湾で研究を行い後進を指導した。

 国立台湾大学
 1947年(昭和22)5月に、横川は敗戦によって日本に引き揚げ、翌48年「マラリア原虫の赤血球外発育に関する研究」により、恩師を記念した桂田賞の第1回の受賞者に選ばれた。
 戦後の日本は驚くほど寄生虫が蔓延していた。全く研究施設から隔離され、文献の参照さえ思うにまかせなくなったが、そのような困難な状況にあって旧著を改訂し、さらに宗雄と共著で、新たに『寄生虫研究の実際』(杏林書房、1952)を刊行している。
 台湾からの依頼があり、航空便で指導し研究を完成させたこともあった。戦前留学したジョンホプキンス大学のコートなど、アメリカの寄生虫学者や台湾からの訪問者も多かった。テニスの外傷によって台湾時代から歩行が不自由であったため、婦人は主婦であり、秘書であり、看護婦でもあり、献身的な支援者で会った。帰国して9年後の56年(昭和31)72歳で昇天し、東京都東村山市の小平霊園に葬られている。
 横川の活躍の場は台湾であったが、日本寄生虫学会や日本衛生動物会、千葉大学、さらに南溟会(台北医専同窓会)、東寧会(台北帝大同窓会)などからの弔辞が捧げられ、多くの研究者仲間や、門下生、関係者に惜しまれながらの盛大な葬儀であった。台湾に骨を埋めなかったが、遺業を偲んで台湾各地で追悼会が催されたという。
旧台北帝国大学は国立台湾大学に、医学部は医学院に変わっているが、台湾の最高学府である。98ねんに帝大時代の旧2号館の修復完成を祝う記念展が開かれ、台湾における医学・医療の優れた業績の1つとして横川吸虫の発見が展示され、いまでも横川は台湾大学の誇りであることがわかる。
 横川定教授的研究生涯
 −横川吸虫的発見−
 横川 定教授(1883−1956)対台湾的医学教育有很大的貢献。1908年自日本岡山医専畢業後即在同校内科斎藤教授研究室研究、後経病理科桂田教授之推薦於1911年就任台湾総督府医学校講師、並且議授病理学、解剖学及法医学。1919年赴美研究、両年後回台議授寄生虫学、這是台大医学院第一次有了這問課程。
 先生於1911年4月来台、9月即発現了譲他在寄生虫学界聞内的横川吸虫。先生在寄生虫学有很大的貢献。対台湾的重要寄生虫都有広泛的研究。最重要的除了横川吸虫的之外、要推衛氏吸肺虫。先生是大一位闡明了該虫在終宿主体内移行経路的学者、終其一生的研究没有離開肺吸虫、其実横川吸虫的発現是研究肺吸虫生活史的意外発現。
 先生有一公子横川宗雄先生、於1941年従本院医科畢業、二次大戦後継承父志、継続寄生虫的研究、最重要的還是有関肺吸虫的研究。横川宗雄先生曾在1984年12月起在本学科客座教授半年、来台研究題目仍然是肺吸虫。
 (横川定教授は台湾の医学教育に大きく貢献した。1908年に日本の岡山医専を卒業後、ただちに同校内科斉藤研究室で研究、のち病理科桂田教授の推薦により1911年に台湾総督府医学校の講師に就任し、病理学、解剖学および法医学を講義した。1919年にアメリカへ留学して研究し、2年後台湾に帰って寄生虫学の講義を始めた。これが台大医学院における最初の寄生虫学の講座である。
 先生は1911年4月台湾に来り、9月には早くも寄生学界に名高い横川吸虫を発見し、学界に大きく貢献した。台湾における重要な寄生虫をひろく研究しており、最も重要なことは、横川吸虫以外にもウェステルマン肺吸虫の研究を推進したことである。先生は同虫の宿主体内における移行経路を解明した最初の学者である。生涯にわたって肺吸虫の研究から離れず、横川吸虫の発見は、肺吸虫生活史の研究における意外な発見であった。
 先生には横川宗雄先生というご子息があり、1941年に本院医科を卒業し、戦後、父の志を継いで寄生虫の研究を続けた。最も重要な研究は、これまた肺吸虫に関する研究であった。横川宗雄先生は、かつて1984年12月から半年間、本科の客員教授として台湾で研究を行ったが、やはりテーマは肺吸虫であった。)
 横川は台湾大学医学院で顕彰され、横川吸虫とともに台湾医学界でいつまでも忘れることはないであろう。国際交流の活発化にともない、寄生虫疾患が改めて見直されようとしている。明治の末に本学に学んで台湾に雄飛し、医学教育と寄生虫学の研究に生涯を捧げ、新しい寄生虫を発見して医学の進歩に貢献した横川定を紹介した。本学の出身者で、横川以外に帝国大学教授になった人を知らないし、また横川以外に世界の医書にその名をとどめている人も知らない。横川定先生は台湾大学のみならず、本学の誇りとする先人である。
 郭白偉(台北)、荒木潤(東京・MPM)、横川みどり(船橋)、稲臣成一(岡山)、近藤日出海(久米南町)、関裕次、横川守(中央町)、河合泰廣(芳井町)氏等各位のご協力に深謝する。