『井上内科新書』

 井上善次郎
『日本医事新報』三八四六号(九八年一月一〇日)の新春特集「炉辺閑話」に、杏林大学の渡部士郎名誉教授による随筆『井上内科新書』が掲載されている。初版は一九〇五年(明治三八)に出版され、明治から大正・昭和と版を重ねた内科書のベストセラーで、ロングセラー医書としても有名であった。絶版になってからでも長く古書店で見ることができ、著者・井上善次郎の名声は医界を風靡していたという。
 井上は一八六二年(文久二)に田中利三郎の次男として高松で生まれた。一八八八年(明治二一)に東大医学部を卒業、九一年(明治二四)に本学の前身である第三高等中学校医学部の内科教授となり、七年後の九八年に千葉の第一高等学校医学部へ転任した。岡山では肺・肝臓のジストマに関心を持ち、門下生にはサルバルサン六〇六号で世界的に名高かった秦佐八郎(明28)がいる。
 千葉で一八年間勤務し、一九一六年(大正五)に退職して開業、四一年(昭和一六)に七九歳で亡くなった。たいへんな努力家で有名な健筆家でもあり、井上内科新書の他にも『井上小内科書』『内科診断学』などの著書があり、さらに没後に随筆集『杏林の落葉』や『井上善次郎先生伝』が刊行されている。
 井上内科新書は全四巻で総計二四〇〇頁を超える大薯で、豊富な内容と親しみやすい文体、明快な開設によって空前の好評を博した。多くの医師、とくに内科医で本書を手にしなかった者はいないといわれたほど重宝されたという。三〇年間にわたり増補改訂され、一九三五年(昭和一〇)の最終第一六版は後任の柏戸留吉教授が改訂を担当した。
 第一巻は最も得意とした「消化器病編」、第二巻は「呼吸、循環、泌尿、生殖器病編」、第三巻「神経病編、中毒編」、第四巻「伝染病編、全身病編」からなっている。緒言の中に「痔瘻及び痔核は三輪徳寛君(千葉の外科教授)、伝染病総論及びペストの一章は秦佐八郎君の執筆を煩わしき」と特記している。本学部図書館には初版をはじめ五〇冊が収蔵されている。内科新書が出版されて三年後の一九〇八年に、別に約五〇〇頁の『井上小内科書』が発行されており、忙しい実地医家や学生から簡便な内科書の要望が高かったため執筆したものである。新見女子短大の石田純郎教授(昭和48)より、学生時代に同書(第二五版、一九六八)を利用していたとご教示をいただいた。出版社の杏林書院によると最終は一九八六年(昭和六一)の第三〇版で、東大の吉利内科の協力によって増補改訂されている。本書は初版以来八〇年近くも増版され、これまた稀に見る超ロングセラーであった。
 さらに九三〇頁からなる吉田坦蔵と共著の『内科診断学』が発行されており、二〇年後の一九三五年(昭和一〇)の第七版が最終で本書もまた広く用いられていた。
 『杏林の落葉』(新興亜社、一九四二)は自分の受けた教育、留学、教授のあり方、開業、診断と治療、医師としての考え方、患者への接し方など多岐にわたっている。また長年の経験から生まれた処世訓や人生哲学が語られている。没後に関係者によって「井上善次郎先生伝記編纂会」が結成され、戦争中で物資が乏しくなっていた一九四三年に『井上善次郎先生伝』が出版された。多くの遺稿や伝記、業績、追悼談などからなっている。
 東大医学部
 井上は両親が幼いときに亡くなり叔父に養育されて井上姓になった。養父は旧高松藩の御用掛から明治になって讃岐塩業者総代を勤め、高松商工会議所の創設に尽力した。製塩業の隆盛のために地域に大きく貢献し、一九〇二年(明治三五)から衆議院議員に選出され、没後に高松の神社に頌徳碑が建てられている。
 井上は養父のすすめにより一〇歳で大阪に出て、漢学の大家であった藤沢南岳の塾に入った。塾は二〇畳ほどの部屋に一五人くらい合宿し、本箱や机などがあって寝る余地もないほどせまかった。朝五時から講義があり、食べ物は貧しく栄養失調になって一年間休学した。一五歳になり、この塾にいてもつまらぬと考え無断で高松に帰った。しかし養父に「勝手に帰るとは何事か。今日すぐ東京へ行け」と叱られ、翌日の船に乗って神戸を経て上京した。
 東京では訓蒙学舎でドイツ語を勉強した。当時は学問を学ぶにはドイツ語が必須であり、成績はドイツ語次第でドイツ語ができなければ入学も進級もできなかった。東大の予備門を経て医科大学に進み、在学中に養父の長女と結婚した。郷里の香川から妻とその生母を呼び寄せ、杜氏を招いて味噌の製造販売を行った。この珍しいアルバイトは岡山に赴任するまで続けられていた。
 卒業後は生理学の研究を望んでいたが、日本語による医学教育を行っていた東大別科生の実習病院であった第二医院で、佐々木政吉教授に師事して内科を専攻した。一八八九年一二月に医科大学助手を命じられて月給二〇円を支給された。
 助手になって一年後に、のちに東大病理学教授になった同級生の山極勝三郎とともに、肺ジストマの研究のため岡山県へ出張を命じられた。山陽鉄道がまだ岡山まで開通しておらず、龍野から片上まで舟でそこから馬車で岡山に着いた。まず医学校へ挨拶したが、当時は岡山でもジストマの研究が行われており「よその田んぼを荒らさないでくれ」と歓迎されなかった。次いで県の案内で病原地の川上郡玉川村へ行き、人を頼んで「東京大学の先生が診察をしてくれるから病人は庄屋に集まれ」と宣伝して患者を集めた。井上が診療を行い、山極が喀痰の検査や虫卵の発育調査などを担当し、山極と共薯で「ジストマ病研究報告−明治二十三年七月岡山県に於て」を『東京医学会雑誌』などに発表している。
 第三高等中学校医学部
「第三高等中学校教授ニ任ス
 秦任官四等ニ叙ス
 第三高等中学校医学部勤務ヲ命ス
 明治二十四年(一八九一)一月」
 助手生活は二年で岡山への赴任が決まった。岡山の外科教授であった瀬尾原始の推薦によるという。同じ時に同期の梶田恭一郎も岡山の生理学教授になったが、病気のため井上が講義を代行した。梶田の後任が古川栄教授で、奇人の古川に対し学生から排斥運動が起こり、しかも病弱のために長続きせず岡山の生理学にとって苦難の時代であった。
 岡山では病理学の桂田教授と共薯の「肝臓ジストマ病取り調べ成績」を含めて一七編の論文を発表し、ジストマに関するものが九編で過半数を占めている。また一八九一年の岡山医学会総会において「寄生虫について」、九三年「肺ジストマ病患者の供覧」、九四年「結核性腹膜炎について」、九六年「胃癌の触知的移動について」を講演している。
 内科教授は主事(のちに校長)の菅之芳と井上の二人で、菅は院長と内科医長を兼任して有料患者を診療し、井上は副医長として施療患者の診療を受け持っていた。施療診療は内科講義とポリクリでの臨床講義に結びついていたため、井上に対する学生や患者の信頼が高まり、県下の各医師会からも講演を依頼されるようになった。
「岡山県立病院内科副医長ノ嘱託ヲ解キ更ニ内科医長ヲ嘱託ス
 明治二八年(一八九五年)八月」
 井上も医長に昇格し、内科が二つになって競争となり、受付が院長の菅に井上の診療を希望する患者まで回していた。そのため二人の間に軋轢が生じてきたと『岡山大学医学部百年史』(一九七二)に記載されている。本会報第八五号にも、中山沃名誉教授が「大正一〇年の大阪における岡山医学会同窓会」と題して古い先輩の回顧談を紹介している。
「……井上先生の下に今の秦がピョコピョコしておった。菅博士がドイツから帰って盛んにドイツ風を吹かせたものである。井上博士と菅博士が衝突して拳骨騒動の持ち上がったのもよく記憶している。」
このような状況で知事から開業をすすめられ、兵庫県立病院長に高給で誘われた。さらに同郷の先輩である千葉の一高医学部の長尾精一主事から、内科の主任教授にし留学の推薦もすると勧誘された。主事は診療や講義だけではなく、昇給や留学の推薦の権限も持っていた。留学がつよい希望であり、岡山では推薦について不安もあって一八九八年(明治三一)三月、惜しまれながら千葉へ転任することになった。
 岡山で二度の水難を経験し、一回目はともかく二回目は二階へ避難するほどの大水害で、絶体絶命の危機に遭遇して死なば家族もろともと決心するほどであった。主事との関係は円満ではなかったが、学生や患者から信頼が高まり、楽しく有意義に過ごすことができ、香川に近い岡山は第二の故郷のように感じられると述懐していた。井上の存在感は大きく学生や開業医から留任運動が起こった。学生が文部省へ陳情しストライキに突入したが、井上の懇願を受けて中止となった。学生や医師会による盛大な送別会が開かれ、記念として銀杯や短刀などを贈られた。
  告別の辞
 路を行く人なおかつ別離の苦を説く。いわんや恩、君父の如く、諠、師弟たるものにおいておや。熱泪滂沱(熱い涙が流れる)禁ずる能わざるものあり。今茲に明治戊戌三月恩師井上善次郎先生、将に我校を辞して東に赴かんとす。惜別の情耐える能わず。ここに粗筵(粗宴)を設けて、以てその行色(旅だち)を壮にせんと欲す。
 そもそも先生の我校に教授の職を奉ぜらるるもの茲に八年、生等の先輩を誘掖し啓沃せられたる労苦と効果との偉大なるは我輩の饒舌を待たざる所なり。生等這般(今般)先生辞任のことを耳にするや、切に留任を請えども先生の決意又動かすべからず。これ生等不敏の致す所なりといえども、この間の消息あにこれを言うに忍んや。
 嗚呼、時や眉睫の間(時が迫る)にあり期や転瞬(わずかな時間)の前にあり。もし時期来て生等をして医海に棹を投ずるの日あらしめば、先生示教の羅針盤によりて願わくは彼岸に達するを期すべし。しかりといへども彼岸遠く生等をして雲霧の中に彷徨せしめんとす。
 伏して祈る。先生永く生等のためにこの迷雲を排するの羅針盤となるのを許されば、生等の光栄何もってこれに加えん。別にそえる所の粗品、質粗なりといえども生等微志の存する所を諒とせられ、永く先生の座右に奉ずるを得せしめば又もって望外なり。生等恐懽の至りに堪えず。
 謹んで餞す。
 明治三十一年三月十一日
 第三高等学校医学部第四年級学生
        総代 平原 貞吉
 転任に当たり『岡山医学会雑誌』は「評議員井上善次郎君、衆望を後に見て第一高等学校教授に任じ同医学部勤務を命ぜられ、千葉へ移住すべく三月二七日岡山を出発せられたり。君の円満なる人格と研究心の熱烈とは、我が医学会にとりて重きをなししこと衆論の一致するところなりき」と記録している。島根に帰って開業するつもりであった秦佐八郎の才を惜しみ、家人を説得して研究者の道へ進ませたのは井上である。
 千葉医学専門学校
 当時から岡山はすでに市であったが、千葉は県庁所在地ながら市ではなく田舎の町であった。千葉では教授の下に司療医と医員がいて、司療医は医局長のような存在で往診も担当していた。学生は上級生になると志望する科に行き、見るだけでなく助手の手伝いをして診療や検査の経験を積むことができた。実地の面では岡山より進んでいたといえる。
 困ったのは患者が少なく、解剖に必要な学用患者も足らず臨床講義の材料も不足していた。岡山では往診はしなかったが、千葉は患者が少ないために病院が車夫を雇って往診し市内は無料であった。
 千葉に移った翌年に東大病理学の三浦守治教授にすすめられ、論文を提出して学位を得た。大学関係者以外では論文による最初の、また千葉で初めての医学博士であった。それから二年後にかねてより念願していた留学が決まった。
 一九〇一年(明治三四)一〇月に日本を出帆して南仏マルセーユ港に上陸し、ドイツのシュトラスブルグ(現在の仏領ストラスブール)に向かった。ここでは岡山から留学していた解剖学の足立文太郎教授(のちに京大教授)が駅まで出迎えてくれた。同地の大学でホフマイステル教授について医化学を学び、その後はエルランゲン大学、次いでヴュルツブルグ大学でクンケル教授につき胃液分泌の研究を行った。ヴュルツブルグからミュンヘンやウインを見学し、ベルリンでボアス教授について消化器病の講習を受けた。予定の二年の留学を終えてパリ、ロンドンを経由して帰国した。
 留学帰りの井上は北里柴三郎を介して横浜十全病院長に、さらに台湾総督府医学校や朝鮮一といわれた京城(ソウル)の大韓病院長にも招聘されたが千葉を離れなかった。留学中にベルリンなどの大都市の教授は著書が少なく、地方の教授の方が時間の余裕があるためか著書が多いことに気づいた。そこで帰国してから内科書を書こうと決意し、寸暇を惜しんで執筆に努力した。
 一九一六年(大正五)、医専の内科主任教授で最古参となったこともあって五四歳で辞任した。この間、井上とは逆に千葉から岡山医専校長に栄転した筒井八百珠の二五年勤続祝賀会に招待され挨拶をしている。辞任に当たり『医界之進歩』は井上の人物評を掲載している。
 「……君は決して天才的な学者ではないが、実際的な点において医専教授としてこれ以上もなき適材であったことは、何人も認める所だった。二四年に岡山の教授となり初めて任に赴き、実際に遠い似て非なる学者の多い中に、万事実験的に指導し、もって内科的良医を造るの基礎を開いた功は没すべからざるものがあるのに、当年の首脳者たる菅之芳は猜疑の眼をあげて之を睨み、無法なる圧迫を加えたるに得堪らず、ついに君と同郷の先輩たる当時の千葉校長長尾精一に哀願して、そこに身の振り方をつけた。何しろ、中国の大都会から辺鄙な下総の田舎町に落ち延びるということは、前途大いに悲観せざると得ないことであった。
 光るべき壁(たま)はどんな隅にほっても光を発する。井上という珠玉は岡山で一時、曇りをかけられたが千葉に来て再び光輝を放ち、幸運にも海外留学の春はめぐり、帰来、かの博士三輪徳寛とともに千葉医専の中核となり、眇たる学校をして東北に覇を争わしむるまでに引き上げたのは、光るべき珠が光ったというに過ぎないが、不退転の努力以外、人として那か偉とすべき所があるのに基づくと思う。」
 井上病院と博愛堂医院
 辞任後はかねてからの計画によって井上病院を開業した。当時としてはユニークな経営を行い、いち早く医薬分業を実行したが医師会の反対もあり中止した。患者の負担をなるべく軽くして病室に等級を設けず、当時はあまり問題にされなかった消毒を厳重にし、院内に空地と貯水池を設けて防災に留意した。医員には自由を与えて研究を奨励し、往診は本人の所得とし、一時は四人の医員のうち三人も学位を持っていた。建物は民家を改造したお粗末なものであったが、のちに千葉で一番の病院に発展した。
 一九三〇年(昭和五)、前立腺肥大症のために導尿を余儀なくされたこともあり、病院を長年勤めていた花岡医師に譲った。その後はひろい自宅内の貸家を利用し、六八歳のとき別の医員とともに博愛堂医院の看板をかかげて再び開業した。病院は現在は≪井上記念病院≫(院長花岡和明氏)と改称され、検診センターや専門外来を設けた都市型病院として今もりっぱに存続している。再開業に当たって知友に次のような主旨の挨拶状を出している。
 「悠々自適の生活を送りたいと思いますが碁や将棋は相手がいり、書画骨董を楽しむほど裕福ではなく、著述も出る幕ではなくなりました。しかし仕事がなくては暇で困るだけでなく、生理的にも脳と筋肉とは使用せねば次第に衰えますので、健康を保つ上にも脳と筋肉とは適度に使わねばなりません。
 秦佐八郎君と、岡山の赤沢乾一君(岡山市医師会長、明28)が訪問されたとき「老後の仕事として多少の患者を診察し、診療所を公開して話に来る者は誰でも歓迎し、医事衛生の相談相手となって、多少でも社会のため役立てばよい」と聞き、その考えに賛成して今回これを実行したいと思います。
 それで自宅に小診療所を開いて午前中だけ外来診療を行い、同業者のご相談に応じ一般医事衛生に関しても相談相手になりたいと思います。しかし同業の諸君と競争して、多くの患者を集めて利益を得ようという希望は毛頭ありません。また診療上羊頭を掲げて狗肉を売るようなことはいたしません。ただ残躯を社会に提供し、なるべく仁術に近い医業を理想として余生を楽しもうと考えております。みなさんご了解をお願いします。」
 岡山で井上の指導を受けた国立栄養研究所の佐伯矩所長(明治31)は、『杏林の落葉』の推薦の言葉として「井上善次郎先生を表現するは至難である。何となれば先生は入神の療技に立ち、権威ある学徳をたたえ、稀に見る人格者であり、卓越せつ真人であられたからである。世には術を売り、学を衒い名利と栄達にのみ腐心して、主義主張なき大家名流少しとせざるが中に、先生は実に師表的の存在であられた」と最高の賛辞を捧げている。
 一九九八年は井上の千葉での開講一〇〇年に当たり、千葉大第二内科開講百周年記念講演会が幕張メッセで開かれた。井上は生涯にわたって強靱な意欲を持ち、教授として、開業医として、信念をもって医の道を貫いた人である。頑固でしかも直情径行の一面と、温和な人情豊かな一面があり、多くの人たちに心から敬愛された碩学であった。明治から昭和にかけてベストセラー医書の著者として、歴代の本学教授の中で最も有名であった井上善次郎先生を紹介した。
 (中山沃名誉教授にご協力をいただいた。本稿は『日本医事新報』(三八七三号、一九九八年七月一八日発行)へ寄稿した「井上善次郎」に岡山の記録を加えたものである。)