入学志願者心得

はじめに
最近、岡山医学専門学校時代の≪大正五年入学志願者心得≫という珍しい入学試験案内が見つかり、本学部の医学資料室に収められた。大正五年(一九一六)は今から八二年前で第一次世界大戦の最中である。またこの年は岡山医学専門学校と付属病院であった岡山県病院が、それまでの内山下(旧日銀より今の日銀岡山支店のあたり)から、当時は市の中心から離れた鹿田村の現地へ移転することが決まった年である。この機会に『岡山大学医学部百年史』(一九七二)や『岡山医学会雑誌』などを参考に、本学部に関する入学について回顧してみたい。
岡山県医学校
 本学部の起源である岡山藩医学館が創設されたのは一八七〇年(明治三)である。適塾や長崎でオランダ医学を学んだ藩医が教師となり、オランダの二等軍医ロイトルを高給をもって招き、藩医の子弟などを寄宿舎に収容して西洋医学の講義を始めた。医学館での学課や進級と退塾の定めやロイトルの講義ノートの一部は残っているが、入塾または入学の資格などについての記録はない。学制が公布され、日本における新しい教育制度が始まったのは二年後の七二年である。
 同じ七二年に医学館は岡山県医学所、次いで医学教場となり翌年に県病院が開設され、「医学志願の向きは病院へ申立て候はば入院差許候事」と布告を出して生徒を募集した。医学を志願する生徒募集についての最初の記載であり、ここでは入学でなく入院と書かれている。この布告によると、授業料を払えば希望する者はだれでも講義を受けることができたものと思われる。その翌年に日本の医療制度の原型となった医制が公布された。
 七九年(明治12)の岡山県布達によると「今般、当県病院附属医学教場において従来試行の学制を更正、医学生徒募集につき志願の者は試験の上入学差許すべく候」とある。この布達を見れば県病院は医学教場の附属ではなく、教場が病院の付属であったことがわかる。制度が変わって医学生の募集に際し、初めて入学に試験を課すことが定められた。岡山における「入試事始」と思われる。
 医学所は医学教場を経て八〇年に岡山県医学校と改称され、四年制となって募集要綱が決められた。「今般、当県医学校において生徒五〇名を限り、試験の上入学許候条、志願の者は別紙規則に衣準し、来る一一月二〇日迄に同校へ願出るべし。この旨布達候事」と公示されている。
 募集は五月と一一月の年二回あり、各五〇人であった。年齢は一六歳から三五歳までの者で体格検査と、国史、日本外史、作文、算術などの試験があった。小学校上等全科を卒業した者は無試験であったが、種痘をしていない者は入学を許可されなかった。三五歳まで応募できたのは、それまでの伝統的な漢方医学を学んだ者にも、新しく西洋医学を学ぶ機会を与えようとしたためである。しかし締め切りまでに定員に達しなかったので期限が二五日間延期された。
 八二年(明治一五)、岡山県医学校は文部省から甲種医学校の認定を受けた。医学校の通則に「甲種医学校に入学する生徒は、品行端正、身体強健、年齢一八年以上とす。初等中学校以上の学力を有する者、もしくは少なくとも和漢文、算術、代数、幾何学、化学、物理学、動物学、植物学について初等中学科以上の学力を有する者たるべし」と定められた。甲種になって試験科目が増え二回の募集が年一回、一〇〇人となり、医学校に付属予備科教場という予備校が併設された。
 県医学校の生徒総数は八三年二二六、八四年三三一、八五年二八六、八六年三〇九、八七年三四九、平均三〇〇人、一学年の平均は七五人であった。また八四年から八八年まで五年間の卒業生は九〇人で、一年間の卒業生は平均一八人であった。生徒数に比較して卒業者が少ないのは、医学校における教育が大変きびしく、入学よりも卒業が難しかったことがわかる。岡山医学同窓会『会員名簿』は八四年(明治一七)から始まっており、名簿に氏名が記載されている卒業生は、八四年一一、八五年一四、八六年九、八七年一〇、八八年四、計四八人である。
 当時は全国的に多くの府県立医学校が設立されていたが、卒業すれば無試験で医師免許が与えられたのは岡山が最初であった。卒業できなかった者は内務省が行っていた前期後期の医術開業試験を受け、両方とも合格すれば医師免許を得ることができた。医術開業試験もまた容易ではなかった。この試験は一九一六年(大正五)まで存続し、野口英世、吉岡弥生などの有名医師を生んでおり、試験制度による医師が正規の学校で学んだ医師よりも多い時代があった。
 県医学校の卒業生には、百年史の「異色の教官および卒業生」に紹介されている七人の中、矢部辰三郎、山谷徳次郎の二人が含まれている。矢部は日本人として初めてフランスのパスツール研究所に留学し、のちに海軍軍医総監や軍医学校長などを歴任した。山谷は『医海時報』や『日新医学』などを発行し、医界ジャーナリストとして名高く、五〇年以上にわたって文筆と医学雑誌経営という特異な生涯を過ごした人物である。
 
第三高等中学校医学部
 −高等学校医学部
 明治も現在も医学教育に多額の経費を要することに変わりはなかった。一八八八年(明治二一)に、国は地方税で府県立医学校を経営することを禁止した。大阪、京都、名古屋以外の医学校は廃止されることになり、唯一の大学であった東大のほかに第一千葉、第二仙台、第三岡山、第四金沢、第五長崎の五つの高等中学校医学部が誕生した。第三高等中学校の本部は京都に、医学部は岡山に設置された。九九年(明治三二)に京都大学が新設されるまでは、近畿と中四国の二府一四県における国立の医療機関は岡山だけであった。
 高等中学校医学部の入試は、文部省令でも品行、身体、年齢などの資格について医学校のときと変わらなかった。その他に「高等中学校医学部の第一年級に入ることを得べき者は、尋常中学校第三年以上の課程を卒りたるもの、もしくは等しき学力を有する者とす。第二年級以上に入ることを得べき者は、品行、身体、年齢の資格前項に準じ、その級の課程を修め得べき学力を有する者とす」と規定されていた。廃止された甲種医学校から多くの転校生を受け入れ、第二年級以上の資格についての記載はそのためのものである。
 九四年(明治二七)九月に高等中学校医学部は高等学校医学部と改称された。入試は七月と九月の二回に分けて実施され科目がさらに増えて歴史、倫理、作文、外国語、化学、物理、用器画、算術、代数、幾何などであった。尋常中学校の卒業程度とされたが「入試問題は公然の秘密なるが故に之を掲載するを得ず」と公表されなかった。
 第一回入試は七月に六日間行われ、志願者は予備校から一〇〇、その他三〇の計一三〇人で、岡山三三、広島一六、兵庫一二、山口一〇人の順に多く第二回は予備校が四二、その他九人であり、予備校からの受験生が圧倒的に多かった。高等学校医学部と改称した九四年の学生数は一学年の平均七〇人、四学年の総計は二八三人で、予備校生の数は三〇〇人以上であった。
 
岡山医学専門学校
 一九〇一年(明治三四)四月、第三高等学校医学部は岡山医学専門学校として独立し、七月に入学試験が行われた。一〇〇人の募集に応募二八〇人、受験者一九六人で一一四人が入学を許可された。なお志願者で中学校未卒業者二〇人には願書を返戻した。
 最初に紹介した一六年(大正五)の入学志願者心得によると、品行、健康、年齢などの条件は全く変わっていない。受験資格は中学校の卒業者と、専門学校入学者検定規定によるもの、中学校または指定学校を三月末日までに卒業見込の者となっており、卒業見込者でも、期限内に卒業できないものは入学を許可されなかった。試験は〇一年の文部省令中の数科目(法制経済と唱歌を除く)で、外国語は英独仏の三つから選択でき、定員に足らないときは無試験で入学できることになっていた。
 二年級以上になって軍の委託生に応募し、規定の審査を経て採用されると、陸軍は衛生部委託生徒規則により月額一五円を、海軍は軍医委託学生規則により一日六七銭の手当を支給された。陸海軍ともに軍医学校という卒後の教育施設はあったが、今の防衛医科大学のような、軍医となる医師を養成する専門の医育機関はなかった。委託生の制度は医学校のころから始まり、終戦前まで続いていたものと思われる。委託生は規則に違反すると罷免されることもあったが、自分の勝手な都合によって辞退することは許されなかった。
 参考までにその年の入学検定料は五円、入学料三円、授業料は前後期とも二〇円、一学年の合計四〇円、学友会入会金一〇円、卒業試験料は八円であった。付記によると寄宿舎はなく、岡山市内の下宿料は食事と炭火付きで一月一三円、制帽一円五〇銭、制服冬一五円、夏服一二円、外套一五円であった。
 
岡山医科大学
 二二年(大正一一)に岡山医学専門学校は待望の医科大学に昇格し、第一回生二四人が入学した。最初の入試は高等学校の理科卒業生の他に医専の卒業生も受験でき、医専を卒業して医師になった後に、さらに医大で学び医専と医大の両方を卒業した奇特な人もあった。二六年(大正一五)卒の粉川隆一、須藤五一郎や、二七年(昭和二)卒の熊本正熙、永山太郎、広田照輝である。大学の募集要項は官報に告示され、岡山の記録は見られないが、その後は受験資格が高等学校の理科卒業生に限られた。
 三五年(昭和一〇)の『校友会名簿』をみると、学生総数三三二人、地元の第六高等学校(六高)出身者が一二七人、三八%で最も多かった。次いで松江三一、姫路二一、高知と松山が二〇、広島一八と続き、中四国からの入学者が六六%を占めていた。その他、出身校は東は山形から西は台北まで及んでおり、ほとんど全国の高等学校から集まっていたことがわかる。
 三七年(昭和一二)に日中戦争が始まり、翌年には国家総動員法が発令されて医業の将来に対する不安が高まった。そのため医科大学の志願者が急減し、一方では戦局の拡大によって軍医の需要が増大したため、学生募集は大きな影響を受けた。三八年は定員八〇人に応募五七人、再募集して七六人入学、三九年は一次三五人、二次三九人、計七四人が入学した。四〇年からの二次募集では高等学校の文科卒業生も志願できるようになった。数少ない国立医科大学の志願者が定員に達しなかったのは、現在では想像もできないことである。
 四二年、一次は高等学校と学習院高等科の理科卒業生、二次は文科卒業生、帝国大学および官立大学卒の学士となり、これらは無試験で、人物考査と体力検査のみ実施された。また大学予科修了者と医学専門学校医学科の卒業者で、相当の学力がありと認めるものも入学が許された。それでも定員を満たすことができず欠員となり、学力低下の心配から第三次の募集は行われなかった。四四年一〇月からは、高等学校卒業生の増加に応じて定員が一〇〇人に増え、終戦前の四五年は一次六二人、二次五四人の外に、文部省の推薦を含めて一四五人の入学が許可された。
 この間、戦時中の医師不足に対応して三九年に臨時付属医学専門部が設置され、四四年には校名から臨時の二字が削られた。中学校卒業生を募集し、第一回の卒業生は三年半の速成で四二年九月には早くも卒業しており、五二年(昭和二七)に最後の卒業生を送り出した。
 戦後の最初の入学は四六年(昭和二一)四月で、高等学校が二年制から三年制に復帰したため卒業生がなく、ひろく高等学校や専門学校の卒業生、陸海軍諸学校の出身者も応募でき、試験により入学を許可された。小坂二度見学長の学年で、ゾル(soldat軍人)クラスと呼ばれていた。また食料や宿舎など、戦後の困難な時代のために転学が許可され、さらに外地からの引揚者に対しても便宜が図られ、特例措置によって入学した者が大学三七人、専門部一四九人に達していた。
 
岡山大学医学部
 四九年(昭和二四)に初めて女性の入学が認められた。画期的なことであり、また同じこの年に学制改革により新制岡山大学が発足した。医学部は大学で二年以上の課程を終了した後に、改めて選抜する制度に変わったため、医学部進学コースとして定員五〇人の理学部二種が設置された。
 五一年から五四年までの医学部入試は理学部二類の修了者、または同等以上の学力ありと認められた者を対象に行われた。この制度は五五年から再び変更され二類コースを廃止して医学部進学課程として募集されるようになった。
 入試制度はその後も共通一次テストや受験機会の複数化などの改革が行われ、さらに医師の社会的需要に影響を受けて定員の増減も行われてきた。入試に関連して、第二生理学の菅弘之教授が『山陽新聞』の意見のひろばに「人命の貴さ再認識を」と題して、医学教育と研究、人命尊重について発言している。
 教授は「以前と違って近年、入学してくる医学生の多くは受験秀才である。医師に要求されるのは受験秀才ではなく、病人の心を理解し医療ができる専門家である。昨今の大きな問題は進学の動機である。医師の使命を理解してきたものは少なく、多くは秀才ゆえに親や先生が勧めたということが動機である。しかも受験戦争を勝ち抜いた後の慢心から、学習への熱意がうすれ、辛うじて進級するものも目立っている。幸い最近、教育改革もいわれ始め、四年制学部卒業生の学士入学も含めて、医学部の入試も改革されようとしている。医師に適正のある、熱意を持つ学生を入学させなければならない」と提言している。
 
おわりに
 本学部の揺籃期である岡山県医学校の時代には、公立の付属予備科教場という予備校が設けられていた。予備科とそれを引き継いだ予備校の存在は、初等・中等教育の制度がまだ十分に普及していなかった当時は、岡山においては医学進学コースとして重要な存在であった。現在は少子高齢化社会を迎えて疾病構造が変化し、患者意識も高まり、技術革新や情報化の進展など、医学・医療を取り巻く環境が大きく変わっている。また近い将来には、医師の過剰時代が到来すると予測されている。しかし医学部の入試はどこも他の学部より難しく、この点においては今後とも大きな変動があるとは思えない。国は高騰する医療費の抑制を目指しており、そのため政策的に医学部の定員を削減しようとしている。
 入試はそれぞれの時代を反映したものであり、国の政策や、社会情勢の変化と全く無関係ではあり得ない。入試の変遷は長い歴史のある本学部の沿革そのものを物語っている。同時にまた、時代の変化とわが国における専門教育、とくに医学教育の発展の歴史であるということができる。現在の入試は何よりも偏差値重視、学力最優先となっており、その弊害については以前から指摘されている通りであろう。より適正をもった、感性と知性のある学生を選抜するために、最近では面接や小論文、推薦入学、学士入学などを採用する大学も増えているという。昨年九月に岡山で開かれた第二回日本医学会特別シンポジウム『医と教育』においても、「医学教育の立場から」のテーマで医学部の入試がとり上げられた。その改革は難しい問題で絶対的な決め手はないが、本学部の入試の歴史をたどりながら、菅教授の提言が実現するように期待している。