記念碑

門と門衛所
 『岡山医学同窓会報』八〇号(一九九六)に、病理の妹尾左知丸名誉教授による『心の故郷「岡山医科大学」、その歴史を大切に』が掲載されている。
 妹尾名誉教授が岡山へ赴任した一九五五年(昭和三〇)は私が卒業した年である。先生の回顧談のように、かつての医学部キャンパスは、校門を入ると長い石畳の道がつき当たりのグランドまで一直線に延びていた。この石畳と、両側に並んでいた木造の基礎医学教室や講義室は跡形もなく消滅してしまった。古い建物は門衛所や旧生化学教室、その東の今は学生ボックスとして使われている建物、病院にあっては旧産婦人科や旧精神科、舎監官舎、積善会、さらに門柱や生け垣の堀など数えるほどしか残っていない。これらの数少ない建物がいつまでも残っていてほしいと思うが、国の財政難もあって、文部省は老朽化した施設の修復やリニューアルには予算を出さないという。そうすると歴史のある建物がいつまでも生きつづけるのは難しいことであろう。本学部のいわばメインストリートであった石畳の敷石は、全くなくなったのではない。全面撤去を惜しんだ教授の願いによって、基礎医学教室棟の北側のわずかに短い一列、四五コだけであるが残されていることを村上宅郎教授に教えられた。四五という数は現在の四二講座、三部門と同じであるのは偶然の一致であろう。
 以前は緑の豊かな落ち着いた雰囲気の学園であったが、昨今のような車社会になってからは、至るところ駐車場となり自動車があふれている。医学部ろしては日本で屈指に広いといわれていた本学部も、いまでは全くゆとりがなくなってしまった。戦前の写真を見ると現状より緑と空間がはるかに多く、院内には泉水のある日本庭園が造られ、あちこちに患者さんの遊歩地もあった。式折おりの花や鉢植えを楽しむことができ、そのうえ温室が二つもあって、第一温室には熱帯樹も植えられていた。憩いと鑑賞のための椅子も備えられ、安らぎがあり潤いもある環境であったことがわかる。
 『岡山大学医学部百年史』(一九七二)の年表によると、一九一六年(大正五)に岡山医学専門学校とその附属病院であった岡山県病院が、内山下から現在の鹿田の地へ移転が決まり、その翌年から工事が始まった。四年後の一九二一年(大正一〇)三月に落成し、四月から学校は新しい校舎へ移転し、新病院での診療も始まった。今から七六年前のことである。百年史資料編に学校配置図があり、建物が建てられた年が記されている。それによると医学部キャンパスの中で移転当初から残っている建物は門衛所だけであり、他には門柱や堀などの建造物と、前述のわずかな敷石ということになる。
 医学部と附属病院の正門には、レンガと石で作られた同じような門が建てられていた。高さは同じであったが、石の部分のデザインは異なっていた。長年の風雪に耐えた医学部の門は、よく見ると多くのレンガは傷ついている。しかし風格のある歴史的な門を取りこわして、病院正門のように、見た目には近代的できれいな、新しい石造の門に改造することに賛成する同窓生は少ないであろう。最初からの重厚な門や門衛所は、本学部にとって貴重な文化財であるといってもよい。
 東宮殿下御婚儀記念碑
 しかし門や門衛所より他に、もっと古いものが存在しているのである。それは朽ちることのない石碑である。グラウンドにあるバックネットの南西に、グラウンドに背を向け、ひっそりと立っている古びた≪東宮殿下御婚儀記念≫と書かれた大きな石碑がある。
 高さ二六〇、底部の幅一五〇、厚さ四〇センチの自然石の碑で、裏には一字もなく建てられた年も題字を書いた人の名前もわからない。正面の幅二二〇、奥行き七〇、高さ二五センチの礎石も同じく自然石で、碑の基部は左右の高さがちがっており、碑と礎石はコンクリートで補強されている。礎石の周囲はいくつかの石で囲まれ、建てられてから長い年月が経過していることがわかる。まわりの樹木と比べると高くはないが、近寄って見ると大きさが実感できる。
 学内の碑は、基礎棟の北に生理学の実験中に公傷死した「藤田茂・西崎良虎両講師殉職記念碑」(一九四三)、創立百年を記念した「岡山大学医学図書館」の碑(一九六七)、「動物供養碑」(一九八八)「献体の碑」(一九八九)などがあり、その他にも、いくつかの小さい「卒業記念碑」や「記念植樹碑」が散在して建てられている。しかし東宮殿下御婚儀記念のような大きな碑はない。この記念碑も由来について『岡山医学会雑誌』(第一二四号、一九〇〇)の雑報欄に次のような記録がある。
◎皇太子殿下御婚礼祝賀式
本日十日、皇太子殿下御婚礼の式を挙げさせ給へるを以て、第三高等学校医学部に於ては其祝賀式を挙行したり、其順序左の如し。
午前七時三十分、生徒一同式場(体操場)に整列
次に主事代理(熊谷教授)初め職員、整列
次に主事代理、進て御真影の帳を開く
次に主事代理初め職員、御真影を拝す
此時生徒は奉銃の礼を行い喇叭手、君が代を吹奏す
次に主事代理、祝辞を捧読す
次に生徒の分列式あり、最も静粛に其式を終わりたるは午前八時二十分なり。
◎皇太子殿下御婚儀記念石
第三高等学校生徒一同は、今回の御慶事奉祝の為め、当日同医学部内に一大記念石を建立するの計画にて、本県御津郡石井村に於て彫琢せしめ、前項の祝賀式を終え生徒参百五拾余名は右運搬の為め同所に赴き、音楽隊の先導にて邪許の声に和し、午後三時無事帰校。やがて建立に着手し同五時全く終了し、一同石前に於て両陛下、両殿下の万歳を唱えて退散したり。因に記す、右記念石は高さ一丈許にして、正面に坂田教授の揮毫に係る「東宮殿下御婚儀記念」の九字を彫り付けたり。(邪許は邪呼と同じ、大ぜいの人が力を合わせて重いものを動かすときのかけ声)
 二日後の一二日の『山陽新報』は、前日につづいて奉祝ムード一色の岡山市のにぎわいを報じており、医学部の記念碑建立についての記事も載っている。
◎記念石建立
○第三高等学校医学部生徒は、一昨日午前八時、同校に於て挙行したる祝賀式を終わりたる後、予報の如く万成に赴き、午前三時頃に至り記念石を曳き来り、暫時休憩の上、同校玄関の右手に之を建立し、且つ樹木を其周辺に植え付け、午後六時頃全く之を終り、それより一同に折詰を分配して散会したり。
 全国民がお祝いした東宮殿下のご結婚の儀式は、一九〇〇年(明治三三)五月一〇日に挙行された。東宮とは皇太子のことであり、皇太子といっても天皇の祖父で、のちに即位して大正天皇となられた明宮嘉仁親王のことである。親王は一八七九年(明治一二)八月三一日、明治天皇の第三皇子として誕生された。ご生母は権典侍の柳原愛子の方である。
 天皇家には五人の皇子が生まれたが、その中で育ったのは明宮お一人だけであり、皇女は一〇人生まれ六人が幼くして亡くなった。一五人生まれて五人が育ったに過ぎず、皇子や皇女たちの夭逝については後世になって、その多くは生母や乳母の鉛を含んだおしろい(白粉)による、鉛中毒であったのではないかといわれている。明治天皇のただ一人の皇子で、しかも生まれつき病弱であった皇太子のご成婚は国を挙げての一大慶事であった。
 岡山でも、また第三高等学校医学部においても、ご結婚を祝って厳粛な祝賀会が開かれた。さらに生徒一同によって記念碑の建立が企画され、生徒を総動員して学内に碑が建てられた。石は万成石である。ついで記念植樹が終わって折詰が配られており、おそらく祝酒もふるまわれたことであろう。当時と今では時世は全くちがっているが、この碑は多くの先人たちの熱誠と、汗水流した奉仕によって建てられたことがわかる。
 選ばれて題字を揮毫したのは、岡山医界の三筆のひとりと称された外科教授坂田快太郎である。坂田は名高い漢詩の大家でもあり、県病院外科医長を兼任し、同年八月には岡山県から初めて派遣された県費の留学生としてドイツへ旅立った。のちに坂田は岡山県医師会の初代会長を勤めており、抽象画家として名高い坂田一男の父である。
 内山下から鹿田へ
 記事によると碑の建立はすでに前から予告されており、学校の玄関右手に建てられた。病院と学校は、内山下の日銀岡山支店、中国銀行本店、旧日銀にかけての一画にあって、正面はいまの電車通りに面していた。一九一〇年(明治四三)の学校配置図によると、本館は一部二階建てで玄関の右に事務室、校長室、教員室、普通教場やドイツ語教場などが並んでいた。玄関の右というと、校長室の前の学内でいちばん目立つ場所に西向きに建てられていたのであろう。または普通教場の南側に南向きに建てられたことも考えられる。資料室にある内山下時代の卒業アルバムに、碑の写真はあるが場所の特定はできない。
 同窓生でも長く勤めている人でも、学内にあるこの碑の存在をご存じない人もあろう。記録が証明するように、内山下の旧校内に建てられていたものを、移転に際し鹿田へ運んだことは間違いない。内山下から多くの図書や教材や医療器具などが運ばれたことであろうが、図書館に収蔵されている古い図書を除いて現在まで残っているのは、おおらくこの石碑だけと思われる。碑は東向きでなく、グラウンドを背にして西に向けて建てられている。これは野球やサッカーなどのボールによって、碑の正面が直撃されるのを拒否しているように見える。それとも、推測したように内山下でも同じく西向きに建てられていたのであろう。
 碑が建った翌年の一九〇一年(明治三四)に、京都に本部があった第三高等学校から医学部は独立し岡山医学専門学校に昇格した。学校は二〇年後の一九二一年(大正一〇)四月に内山下から広びろとした鹿田の地へ移転することになった。戦前の天皇絶対主義の国家体制の時代にあって、国立の学校がときの天皇の碑を放置して移転できなかったのは当然である。内山下から鹿田へ移された東宮殿下御婚儀記念碑は、本学部にとって、まさしく歴史の証人であるといってもよい。
 臨幸記念碑
 鹿田のキャンパスではないが、本学部に関係する≪明治天皇臨幸記念碑≫と彫られた大きな石碑が内山下小学校の校庭にある。
 一八八五年(明治一八)八月六日、明治天皇が山陽道を巡行されたとき岡山県医学校に行幸された。その頃はまだ鉄道が開通していなかった。ご一行一二〇名様は前日の五日に三蟠港に上陸し、天皇は翌日の六日に弓之町にあった県庁や、裁判所、岡山学校、次いで岡山県医学校においでになった。
 当時の県医学校は旧岡山城の西の丸、いまの内山下小学校にあった。のちに総理大臣を勤めた宮内卿の伊藤博文が人力車で先導し、陛下は馬車で午前八時過ぎに医学校にお着きになり、菅校長以下、教職員、生徒がお迎えした。県病院へは北白川宮を代理としてご差遣になった。それまでのご巡行で医学校はすべて代理が差遣され、岡山では初めて陛下ご自身が行幸されたので学校関係者がたいへん感激した。医学校への天皇行幸は異例のことであったという。
 『東京医事新誌』第三八七号(一八八五)に「岡山県医学校近況」と題する記事が掲載されている。
 「先般森文部省御用掛は、学事視察の途次岡山県に来着し、本県諸学校巡視の際同校にも来られ学事の実況を尋問し、また親しく生徒の授業を見聞し、授業法すべて宜しきに適うたるは讃称もただならず。かつ本校を以て関西第一等の医学校とまで賞美せられたり」
 とあり、さらに
 「八月には、かたじけなくも聖上同校へ御臨幸遊ばされ、同校長菅氏は、県令を経て同校の沿革書及び祝詞を奉る。やがて御巡覧の上上御還幸相成りたるよし。真に千載の一時、同校の光栄とは実にこの事をいうべきなり。因にいう、今回山陽道を御巡回につき、陛下みずから御臨幸遊ばされたるは同校のみにして、他校はすべて御代覧なりしとぞ」と記されている。
 当時でも医学校の経営には多額の経費を必要としたため、行幸から二年後の一八八七年(明治二〇)に「府県立医学校の費用は明治二一年度以降、地方税を以て之を支弁することを得ず」という勅令(第四八号が発せられた。これによって経済力のつよい大阪、京都、名古屋を除いて、兵庫や広島など多くの県立医学校が廃止された。翌一八八八年に、全国を五つの学区に分け近畿・中国・四国の二府一四県の中で、第三学区における国立の高等中学校医学部が岡山に設置されることに決まった。
 激しい競争の末に第三高等中学校医学部が岡山に誘致されたのは、文部大臣の森有礼が称賛したように東は東大、西では岡山が関西第一の充実した医学校であったという。さらに明治天皇の県医学校への異例の行幸は、全校の士気を鼓舞し、医学校のレベルアップと国立の医育機関への昇格に大きく寄与したのではないかと思われる。そういった意味から天皇の行幸は、本学部にとって歴史的な意義をもった重要な出来事であり、学内に存在しないが、臨幸記念碑は文字どうり記念すべき碑であるといってもよい。
 内山下小学校には国指定文化財の「岡山城西の丸西手櫓」が現存しており、記念碑はその近くの旧西の丸庭園跡に建てられている。南北九〇〇、東西二六〇センチの玉垣で囲まれた高い基台に、幅三九〇、奥行き二六〇、高さ一三〇センチの巨大な自然石が置かれ、その上に高さ約四〇〇センチにも達する、これまた堂々たる見上げるような自然石の碑が建っている。これほど大きな礎石をどこから、どのようにして運んだのであろうか。
 この碑は行幸五〇年を記念して、一九三九年(昭和一四)に建てられた。題字は、岡山藩主の後裔である正四位侯爵池田宣政が謹書し、裏面にときの岡山市長による碑文が刻まれている。百年史には行幸の記事と記念碑の写真はあるが碑文はない。
 「明治一八年、畏クモ明治天皇ニハ民情御視察ノタメ山陽道行幸仰出サレ山口、広島両県下ノ巡行ヲ了ヘセラレ、八月五日海路上道郡三蟠港御上陸、岡山後楽園行在所ニ入ラセラル。翌六日県庁、裁判所、岡山学校ニ臨幸ノ後、当時内山下西ノ丸ニ在シ岡山県医学校ニ聖駕ヲ枉ゲサセ給フ。爾来星霜五十余年、聖蹟今尚厳然シテ此内山下小学校ニ存ス。誠ニ無上ノ光栄ニシテ感激ノ至リニ堪ヘズ。茲ニ内山下小学校父兄團主唱シテ、岡山市竝ニ岡山医科大学、市立学校、幼稚園、池田侯爵家、及内山下小学校校友会等ト相謀リ、碑ヲ建テテ其大要ヲ勒シ、以テコノ千載一遇ノ盛事ヲ記念シ聖蹟ヲ無窮ニ伝ヘントス。
 昭和十四年八月六日
  明治天皇臨幸記念碑建設会長
        国富友次郎謹誌」
 (勒すとは石に刻むこと)
 駐蹕之地碑
 内山下小学校にこの碑が建てられる前に、明治天皇のご業績を調査するために臨時帝室編修官が来岡し、これを機に三蟠聖蹟保存会が結成された。一九三〇年(昭和五)一一月に、陛下が上陸された三蟠港に基礎からの高さ八メートルを超える巨大な≪明治天皇駐蹕之地碑≫が建てられた。駐蹕とは天皇が行幸中にとどまるという意味で、この記念碑はおそらく県下でも稀に見るりっぱなものである。
 題字は元帥陸軍大将・閑院宮載仁親王の筆になり、碑文は津山出身でのちに総理大臣になった枢密院副議長の男爵平沼騏一郎の撰文である。五百数十字に達する難解な格調のたかい長文(原漢文)で「県庁、裁判所、諸学校に臨御し・・・・・・親王を岡山病院へ遣し」とあるが、県医学校の文字は見られない。
 天皇の行幸ではないが、医科大学に昇格して四年目の一九二六年(大正一五)五月二三日、中国地方をご巡啓中の皇太子殿下、のちの昭和天皇が本学部に行啓され田中文男学長をはじめ教職員、全学生が威儀を正してお迎えした。殿下は大講堂において、上坂熊勝教授の「電流の生物に及ぼす影響について」、鈴木稔教授の「日本住血吸虫および肝臓ヂストマの発育」、さらに生沼曹六教授の「生理学に関する実験」をご覧になり、予定の時間を過ぎても興味深くご説明をお聞きになったと記録に残っている。
 昭和天皇はまた、ご在位中にお見舞いのため本学附属病院を再三にわたって訪問されている。一九六三年(昭和三八)八月に、池田動物園の園長池田隆政氏(旧藩主池田家の当主)に嫁いでいる第四皇女の厚子さんが、敗血症のために第二内科へご入院になり、九月一六、一七日の天皇・皇后両陛下が見舞われた。平木教授、主治医となった大藤助教授、そのほか教室を挙げての治療によって翌年四月に軽快退院された。一九六五年一月に再入院となり、このときも二月二〇、二一日と、五月七、八日に病気お見舞いのため本学においでになった。
 おわりに
 本会報で妹尾名誉教授の「歴史を大切にしよう」という趣旨の寄稿を読み、内山下から運ばれた鹿田キャンパスで最も古い、今では忘れられた≪東宮殿下御婚儀記念≫碑とその建立の経緯について紹介した。一九〇〇年に当時の学生を総動員して建てられてから、間もなく一〇〇年を迎えようとしている。時代は大きく変わっているが建碑一〇〇年を記念して、後学のために碑の由来を記した小銘板を、岡山医学同窓会として設置されるよう関係者に要望するものである。<BR>
 同時にこの碑に関連して明治天皇の臨幸記念碑など、本学部への行幸、行啓、お見舞い訪問についても回顧した。