奇人教授・高橋金一郎

 岡山医学専門学校の名物教授であった高橋金一郎の突然の死は、当時の新聞に大きく報道され社会の関心を集めた。一九一九年(大正八)二月十七日の『中国民報』(山陽新聞の前身)は大見出しの記事を掲載している。
 「高橋元医専教授自殺を図る
  神経衰弱の結果か
  麻酔剤を用いて咽喉部を斬り生
  命別条なからんも昏睡状態」
 同紙によると、奇言や奇行で有名な元岡山医専の勅任教授であった高橋金一郎(五三)は、五ヶ月前に教授を辞任して岡山市内山下石山の自宅で、神経衰弱の静養をしながら痔の治療とドイツ語辞典の編集に没頭していた。また最近は刀剣にも熱中していた。ところが昨一六日の朝、自宅二階の書斎で突然喉をかき切って自殺を企てた。書斎には書物を積み重ねて、その近くに虎の子のように大切にしていた数振りの日本刀が立ててあった。
 数日前から神経衰弱が悪化してこの室で休んでおり、昨朝六時頃に梅野夫人(三八)が起きて階下の台所に行ったとき、突然、二階で異様な物音がした。何事かと駆け上がって見ると、平素から一番大切にしていた秘蔵の銘刀で左の頚部をかき切っており、上半身は流れ出る鮮血で朱に染まって倒れていた。強い麻酔剤を注射するか服薬していたらしく、血まみれのまま平素のとおりスヤスヤ眠っており、世間を超越しきった顔には少しも苦しそうな表情は見えなかった。
 夫人はこの恐ろしい光景に転倒するばかり驚いて、ただちに県病院や方々の医者に電話をかけた。筒井病院長、筧副院長、坂田、石本、麻植らの医師たちが駆けつけた時も平気な顔で昏々と眠っていた。何分にも多量に出血しているので応急手当を施し、県病院にかつぎこんで引き続いて治療を受けた。
 新聞は自殺を図った現場の詳細な状況と、筒井校長の談話を掲載しその後の経過について報道している。一時は経過良好と伝えられたが一九日に死去し、二二日に市内の蓮昌寺で盛大な葬儀が行われた。岡山医専を代表して校長が弔辞を捧げた。
 「弔辞
 大正八年二月一九日、正四位勲四等医学士高橋金一郎君長逝せらる。
 ああ悲しいかな。回顧するに君の東京医科大学(東大医学部)にあるや、その学才つとに群を抜き、先輩および後進のともに畏敬する所たりき。而して明治二三年十月業を卒るや直ちに同大学助手になり、外科学を研鑽し同二十六年九月任を我が校教授に奉じ、爾来育英二十有五年の久しきに亙り、君の薫陶を受けしもの数千人に及べり。されば同三八年一二月勲六等に叙し端宝章を授けられ、のちに累進して従四位勲四等に及び、大正七年九月病のために辞職せらるるに際し、さらに勅任教授に進み、かつ特に正四位に叙せられたるは、また以て君が教育界における顕著なる功績の一斑を表すものというを得可し。
 而して君博覧強記、外科学に深き造詣を有せしのみならず、独逸語学に至っては我国の一権威として認められ、杏林界済々たる多士の中においても君に並ぶもの希にして、また以て我が岡山医学界の誇りとせし所なりき。けだし君の閑地に就くや、一は静かに病を養い、よって専ら君が編集中の独逸語辞典を完成し、以て君が畢生の事業を完からしめんとせしにありしは明らかにして、吾人またその偉業を見るの日の近きにあるを期せしに。
 図らざりき。病勢とみに革り今や既に幽明境を異にせんとは。ああ天地悠久たり。君何ぞ死を急いで去る。されど思うに世の毀誉褒貶は君において何かあらん。我今此処に立って君に詞を述べんとすれば、万感胸に満ちてまた言うを知らず。在天の霊、ただ願くは来たりて以て我満腔の熱誠をうけよ。
 大正八年二月二二日
  岡山医学専門学校長従四位勲四
  等  医学博士 筒井八百珠」
 高橋の葬儀では、この他に友人総代として同級生の土肥慶蔵(代読)、岡山市医師会長の岸千尋、ついで門弟総代・麻植巨一が弔辞を捧げた。土肥は東大皮膚科の初代教授で弔辞の中で「明治二三年冬、我等の医科大学を卒業するや、相たずさえて第一医院外科医局に入りスクリバ先生に師事したり。居ること二年余、たまたま岡山医学より外科教授招聘のことあり。不肖誤てその選に当たりしも故ありて応ずるあたわず。すなわちこれを君に謀りしに君一諾、余に代わりて赴任したり」と当時を回顧している。岡山がはじめに外科教授として希望したのは高橋ではなく土肥であったが、土肥は留学が内定していたためか岡山の誘いを断り、代わりに高橋が岡山に赴任することになった。
 高橋は一八六六年(慶応二)に群馬県総社村、現在の前橋市で生まれ、訓蒙学舎でドイツ語を学び、予備門を経て一八九〇年(明治二三)に東大を卒業した。成績抜群で特待生であり、卒業後はスクリバに外科学を学び、九三年九月に瀬尾原始教授の後任として第三高等学校医学部の外科教授となって岡山に赴任した。当時の外科は一般外科や整形外科の他に、皮膚科、泌尿器科、耳鼻咽喉科や歯科まで含まれていた。高橋は性格は豪放で奇言や奇行が多く、岡山における自転車の先駆者であり、自転車で各地を探訪して史跡調査や植物学の調査を行っていた。趣味はあらゆる方面にわたり、集めた書籍は数万冊に達し、没後は『高橋文庫』として岡山市立図書館に寄贈されたが、戦災のために大部分が消失してしまったという。
 一九一四年(大正三)二月、門下生の発起によって教授在職二〇年記念祝賀会が県病院で開かれ、記念品と記念図書および田中苔石画伯による肖像画が贈呈され、図書と肖像画は外科教室に寄贈された。一八年(大正七)に辞任して市内で開業。しかし翌年二月に自殺をはかり、三日後に奇人にふさわしい最後を遂げた。医師としての仕事や家庭的な悩みからではなく、長年の独和辞書の編集に行きづまったことが原因とされている。没後に知人の坪田鳴水によって『高橋金一郎言行録』が刊行され、生前に地方紙の『黍』に連載された「ホトコン録」は読者の人気を博していた。著書は『外科汎論』のほかに、学生時代からドイツ語がたいへん得意で『チームセン医則』『独逸文典』『和文独訳課題』「らてんの曲げ大意』などがある。
 高橋は岡山医学会や岡山外科研究会の副会長をしていたこともあるが、学会での報告や学術論文の発表は少なかった。しかし長年にわたり『岡山医学会雑誌』の編集に従事し、「学会と宴会」「高等医学校論」「病院と営利と」「所謂チャンポン式を止めよ」「疑問の臍」「サルワルサーンの語源・原価」「入学試験の和文独訳・入校試験の訳文」「ヨーグルト」など、多くの独特の論説を寄稿している。「ホトコン録」の高橋語録に、その鋭い洞察力と批判的精神を見ることができる。○どちらが大切か、雨にあいて下駄をぬぎて裸足で走る。下駄が大切か足が大切なのか。○どちらが害になるか、鶴見橋下の鮎掛けと御船入製紙会社の毒水と。○どちらに信用があるのか、病人の枕元に薬ビンと祈祷札。○新しき定義、元日はなまけ初め、酔初め、うそつき初め。学生は点数の奴隷、試験は記憶力の競争、盆栽は植物の虐待。○つまらぬもの、祝辞、年頭の辞、いわゆる名士の高論卓説など。
 高橋が亡くなる前年に発行された『岡山県人物月旦』(岡山新聞社)は「奇行奇道、あくまでも浮世を超越せる・岡山医専教授高橋金一郎君」と題して次のように高橋を紹介している。
 高橋は大博士といわれていたが、どうして博士号がないのか尋ねられると、胸を張って「将来、全国学界の第一人者に対して大博士の学位を授けるようになったら、その時はじめて学位論文を提出する」と答えるを常としていたという。
 高橋の博覧強記は大変なもので、稀に見る人物であった。百科事典のような頭脳の持ち主で、学生はいつも講義時間の前に多くの質問を黒板に書いていたが、高橋は教室に入ってくると、これらの質問に一つ一つ明快な回答を与えた。専攻の外科学に止まらず、全世界の地理や古今東西の歴史など、何を尋ねてもわからないことはなかった。読書力の旺盛なことは驚くばかりで、給料の半分で書籍を買いすぐさま読破していた。あるとき市内の書店に行くと、長持三棹も古雑誌を持って処分に困っている者があった。高橋は大金を出して買ったばかりの自転車を飛ばして行き、自転車と古雑誌を交換し、十日間ですべて読破したという話もある。
 このように非常に博識であるが、実際的の技能の面では疑うべきものが多かった。刀剣を愛好し、刀剣の歴史については専門の大家にも負けない知識をもっていたが、大金で買い集めた、いわゆる名刀の半分以上は偽物であったという。囲碁の定石を説明すると有段者以上であったが、実際に碁を打つと全くのヘボ碁であった。
 奇聞や逸話がたいへん多く、夫人と結婚するに当たって鶴見橋から家まで尾行して直接談判したり、投げ網漁に出て財布の中の紙幣をぬらし、これを乾かすために川原に並べて忘れて帰ったり、数えればキリがない。しかしその奇行はわざとするではなく天性のもので、日所の一挙手、一投足のすべてが奇行である。世を挙げて常識主義に走り、平凡な人材養成のみを事としている教育界においては、高橋教授はじつに一服の清涼剤的な存在であるという評価もあった。
 高橋は多年にわたって『岡山医学会雑誌』の編集主幹であったが、教授を辞任するに当たって「述懐」と題して所信を述べている。これは高橋の最後の随想であり、遺書とも考えられる一文でほぼ次のような内容である。
 「岡山に来て外科教授の職について二十年が経過した。これからは多くの時間をかけて一番好きなことをしてみたい。一番好きなのは医学ではなく他のことである。医学も好きであるが、もっと好きなことがある。世間では「医者は富を得、法律家は名誉を得る」というが、最近は基礎医学者の開業医に転ずる者や、いわゆる新薬を作って売り出す者もあるのはそのためであろう。しかし医者が集める資産は知れたものである。私が医学を学んだ目的も生活のためであり、私の家は代々にわたり医を業とし私で十代目である。
 崇拝する本居宣長も、その門人の平田篤胤もともに儒者であって医を業としていた。宣長は『家の昔物語り』の中で「医の業をもって産とする業は、いと拙く心ぎたなくして丈夫の本意にもあらねども、己いさぎよからんと親先祖の跡も心もて害はんは、いよいよ道の医にあらず。力の及ばん限りは産業をまめやかに勉めて家をすさめず、落とさざらんように計るべきものぞ。これ宣長が心なり」と書いている。また中村著『蛙のはらわた』には「医をもって衣食を計る者は術の妙にかなうべからず」とある。仁術もまた難しいものである。
 故菅院長は私を「語尾学者」と称し、医者として余りに理想的過ぎるといって。私が県病院で診療することを拒否された。私を知る者は菅院長であり、菅院長に拒否されたことは一大名誉であると思っている。私は利殖の道にうといが、いかに病人に対するかについては多少の理想を抱いており、幾分かこれを実行して来たと信じている。
 二十年前から独和辞典の編集に従事しているが、十年来その事業が一向にはかどらず、Schの部から進んでいない。これは時間の余裕がないのと、もう一つは長年の無理がたまって脳に疲労を来たしたことによるものである。最近は時々強い頭痛を来たし、小豆島で一回卒倒したこともある。
 親しいドイツ人から「君の辞書はどこまで進んでいるか」とたびたび尋ねられ、私がいつも「Schの部まで」と答えるので、そのドイツ人から「君はいつもSchの部の辺にあり」と冷笑される。私の父も編集事業の遅々として進まないのを知って「おまえの辞書は一生を費やしても完成しないであろう」といっている。また東京の大書店の代理者のある文学士は、辞書編集のことを相談するために岡山に来たが、私はその相談に応ずることができなかった。
 このような事業から、まず十分に休養して脳の疲労を回復し、その後にまた編集に着手し語尾学者の本領を発揮したい。ただし先祖以来の医業廃止するに忍びないので、依然としてこれを営み、もっぱら亡父の始めた痔核注射療法の完成を図りたいと思っている。自分で本居宣長と比較するのは、たいへん不当なことであるのは当然である。私の希望としては、ただ本居宣長の万分の一ほどの業績を残したいものである。
 根をしめて風にまかせる柳かな
              悟水
      大正七年八月三一日」
 在職中の一九〇三年(明治三六)に、岡山など五つの高等学校医学部が専門学校に昇格し、そのため多くの教授が文部省から派遣されてドイツに留学した。しかし高橋はきわめてユニークな教授で校長に信頼されず、古参教授で、しかも自他ともに許すドイツ語の大家でありながら、校長の推薦がなかったためドイツ留学の機会を与えられなかった。
 高橋は多年にわたって外科学、皮膚病学、花柳病学を兼担していた。また付属病院である岡山県病院の医長を兼任していながら、院長から県病院での診療を拒否されていた。菅校長が辞任し後任として筒井が千葉医専から転任して来たが、筒井は東大の一年先輩で、しかも専門がほとんど変わらなかった。このような事情もあり、多年の念願であった独和辞典の完成を目指して退職したのであろう。しかし辞書の完成を見ることなく自らの命を断っている。
 岡山文庫の『岡山の奇人変人』(蓬郷巖、一九八一)には、高橋とともに昭和の北山加一郎内科教授(一八九六〜一九五二)が紹介されている。奇人とは単なる変人ではない。社会から超然として、世の流れに盲従することなく信念を貫いた人である。高橋は単なる変人ではなく奇人であった。教授という名のつく人の中には、いつの時代でも、変人や世間知らずの非常識な人物がいるものである。高橋金一郎は本学の歴史に残る最も傑出した奇人教授であったといえる。