泉伍朗と糖尿病膵島説

 『日経メディカル』一九九五年新春特別号の医学史探訪に、二宮陸雄氏の「糖尿病の膵島説を唱えた二人の若者ユージン・オピーと泉伍朗」が掲載されている。その中で、泉が一九一八年(大正七)に「膵内分泌に関する知見補遺並に実験的研究」を発表し、膵内分泌物質は実験的糖尿病と直接の関係を有することを、日本で初めて明らかにした先駆的な業績を紹介している。
 一八八九年(明治二十二)に、ドイツ・ストラスブール大学のミンコフスキー教授が膵摘糖尿病を発見し、糖尿病の原因を膵臓の未知の機能の欠落によるものと推論した。糖尿病を膵島とはっきり結びつけたのはアメリカのオピー(Ougene L Opie)で、一九〇一年(明治三十四)のことであった。オピーは、ランゲルハルス島の障害によって糖質代謝障害が生じ、正常の膵臓が糖の同化に及ぼす働きはランゲルハルス島の機能によるものであることを発見した。
 九州大学の三宅外科にいた泉は、早くから膵臓と脾臓にふかい関心を持っていた。犬を用いた実験によって膵内分泌物質は膵静脈内に放出されること、肝細胞に直接作用を及ぼすことや、この内分泌は膵島が行っている事実を確かめ、膵の部分切除では糖尿が出ないと述べている。さらにモルモットによる実験の結果から、ブドー糖飼育による膵島顆粒の増加を確認して膵島説を支持している。日本では多くの権威者が糖尿病の膵臓説に反対していた時代にあって、周到な実験から確信をもって膵島内分泌説を主張した。バンティングとベストがインスリンを発見した五年前であり、この研究を行った泉はかつて昭和初期の本学の第一外科教授であった。
 泉伍朗は、一八八四年(明治一七)五月二十八日に山口県熊毛郡大野村、現在の平生町大野北で生まれた。少年時代に父は村長を勤めており、山口中学、山口高校を経て一九一〇年(明治四十三)十一月に九大医学部(当時は京都帝国大学福岡医科大学)を卒業した。卒業に当たって成績優秀により銀時計を受領しており、最初は病理学教室で一年間病理学を学び、外科教室に入局して三宅速教授のもとで外科学を専攻した。教授は内臓外科、とくに胆石症の権威者として名高く日本外科学会の巨頭であった。医局時代の泉は精力的に研究し、多くの論文を執筆しており「回虫卵に起因せる膵臓炎について」と題する八十頁におよぶ長い論文が『日本外科学会雑誌』(第十四回三号、一九一三)に掲載されている。すでに紹介した「膵内分泌に関する知見補遺並に実験的研究」が学位論文で、十七年(大正六)には助教授に昇任した。
 泉は卒業した翌年、同じ郡内の田布施村の佐藤家から妻こま子を迎えている。妻の長兄は海軍に入って中将に昇進し、弟の岸伸介と佐藤栄作の二人は、戦後になってともに総理大臣になるという兄弟総理として有名になった家系である。
 助教授になった翌年の十八年に欧米へ留学した。最初はペンシルバニア大学のマックマネス実験病理学教室で学び、次いで英、米、独の大学を歴訪し、腹部外科を中心とした外科学全般について見聞を広め、またスイスのチューリッヒ大学で研究している。欧米先進国の外科をつぶさに観察して最も痛感したことは脳外科の進歩であった。最初の予定より留学期間が延長になり、二年四ヵ月後の二十一年(大正十)二月に帰国した。帰国して早速『日新医学』の十周年記念号に「脳外科の現状」と題して見聞記を発表している。
 「我が邦における他の外科、たとえば内臓外科のごときはその学その術ともに、欧米先進国のそれに比較して少しも遜色なしと思推せしも、ひとり脳外科にいたっては至る所かつて吾人の経験せざる症例の手術を見ること多く、かつまたその術の微妙にして精錬せられたるは、まことに感嘆これを久しうせしめたのである。故に吾人はすべからず斯界の研究を怠らず、もって我が邦の脳外科をさらに一歩進むめることに努力しなければならないと思う」
 このように第一次大戦後の欧米医学の現状について、とくに脳外科の進歩には目を奪われたと語っている。帰国後、大学昇格を目前にした金沢医学専門学校の教授に招聘され、家族ともども福岡から遠く北陸の金沢へ赴任した。二十三年に金沢医専は大学昇格し、泉は北陸地方と大学の大きな期待のもとに新進気鋭の初代教授として第二外科を開設した。当時の新聞によると「俊敏の頭脳と卓抜せる手腕を有して好評嘖々たる、そして人一倍の純情と熱意の人として、外科学教授泉伍朗博士を真っ先に見出すので医大紹介の筆を同博士から染めてみたい」とあり、金沢医大で随一の教授と評価されていたことがわかる。北陸における外科、とくに腹部外科の開拓と普及に専念しており、金沢での六年間は生涯で最も充実した時代であったと思われる。
 金沢へ赴任して四年目の二十六年に再び外遊の機会に恵まれた。前とは逆にシベリア鉄道でヨーロッパに行き、アメリカを経由して帰国した。九ヶ月の旅程であったが、前回の経験をもとに広く各地の大学を歴訪して、これまた多くの収穫を得て帰国した。外科治療の中でガンの早期手術が大きな問題になっており、胆石症の早期手術、肺結核や心嚢炎に対しても手術が行われていること、また脳外科がさらに進歩していることなどを報告している。
 泉の存在はやがて学会でも広く認められるようになり、二十八年(昭和三)の日本外科学会総会で念願の宿題報告を担当することに決まった。その準備中に、九大に移った赤岩八郎教授の後任として郷里に近い岡山医大に転任することになった。泉転任の報が流れたとき、金沢医大の学生、医局員から留任運動が起こっている。「外科の泰斗泉伍朗教授…岡山医大へ転出せん…今日全学生大会を開いて大々的の引き留め運動を起こす…教授間の反目をこの機に一掃」という見出しで、地元新聞は金沢医大における全学あげての反対運動を報道している。
 四月二日、東大工学部で開かれた第二十九回外科学会総会において、慶応大学内科の西野教授「脾腫について−内科的方面」につづいて「脾腫について−外科的方面」と題して、脾腫の病態生理、臨床的諸問題、摘脾術および摘脾の及ぼす影響等について桧舞台で研究成果を発表した。『日本外科会雑誌』の総会記事によると
 「外科的方面報告者、泉伍朗君、青山外科学会会長に紹介されて登場。内科医の踏み止まりて外科的方面おも聞かんとするもの著しく多く、内科的報告のとき後方におりたる者は、前方に出んとせし予想は全く裏切られたり。しかし泉博士の声量は、熱心とともに隅から隅まで響きわたりて一人の不平者をも出さざりしたらん。その説くところ、あるいは図により、あるいは写真により遺憾なからしめ、二時間余にわたる大演説に中途退く者とてなかりき」と傍聴記に記録されている。
 泉は宿題報告より以前の三月十八日に岡山へ赴任した。「僕の本職は内臓外科です。先日の東京における学会では脾臓の病気という宿題報告をした。この地方にはまだなじみが少ないので当分は研究材料を得るのに困るわけです。私の専門である外科方面の患者からいうと岡山は胃癌、盲腸炎、結核性の骨病が相当多いようです。肺結核の外科的手術はまだ岡山では実行しないが、ある種の患者に対しては確かに有効なので、こちらでも研究したいと思っています。医大付属病院の建築は非常に不完全で、これは速やかに改築する必要がある」と新任の感想を述べている。
 泉が岡山へ赴任して時には、すでに金沢で教授経験を積み年齢的にも脂ののった時期であり、念願の宿題報告をすませて外科教授として高い評価を受けており、大きな抱負と期待を抱いていた時期でもあった。泉外科への入局者も患者も手術も年とともに増加したが、泉は健康にも恵まれず、悲運にも五年後の三十三年(昭和八)に死去している。病欠中も教室員は一致団結して、診療と研究にはげんで立派な成果をあげている。とくに泉について金沢から来た榊原亨助教授が代行となり、よく教室を統率し精力的に活躍したことは特筆すべきことである。のちに榊原は日本における心臓外科の先駆者となり、日本臨床外科医学会の名誉会長に推挙された。
 岡山における泉の使命は、すでに赤岩教授によってその緒についた腹部内蔵外科の充実発展にあったといえる。この点において、短期間ではあったが泉外科教室は十分その目的を達したものと思われる。当時は中国・四国で唯一の医科大学ということから、診療圏は広く中四の全域に及んでおり、阪神方面からも多数の患者が集まっていた。
 臨床的研究の主なものは消火器ガンや胆石症のほか、とくに汎発性腹膜炎の治療に大きな努力が払われていた。腹膜炎については、まだ医師も患者も手術に対する理解と認識がきわめて浅かった。そのうえ現在のような保険制度もなかったため、経済的な問題も加わり、時期を失した重唱の虫垂炎や胃十二指腸潰瘍の穿孔が多かった。その治療法は外科学会における重要な課題の一つであり、これに対しては排膿法の改良や、糞瘻の設置などによって治癒率の著しい向上をもたらした。さらに当時は、珍しかった術後の早期離床を積極的に行っていた。実験的研究の面では、新陳代謝ならびに内分泌の外科が主要なテーマであった。
 岡山へ赴任したころの泉は元気そのものであり、臨床に研究に、また学生の講義に心血を注いでいた。十一月には、京都で挙行された昭和天皇の御大典の盛儀に参列する栄誉に浴している。赴任して一年半は、教室の運営も軌道に乗って臨床・研究の両面にわたって万事が順風満帆に進み、岡山で最も充実した時代であったといえる。臨床講義は万端の準備のもとに行われ、その幾つかは専門誌に発表されている。努力家であり精力家であった泉は九大、金沢時代につづいて得意な腹部外科の領域で数多くの論文を発表している。
 しかし、岡山での順調な時は長く続かなかった。二九年(昭和四)の秋から体の不調を訴えるようになり、九大時代からの友人である内科の稲田進教授より肺結核と診断された。腹部外科を専門とした泉は、当時ようやく勃興しつつあった肺結核の外科的療法に大きな関心を持ち、榊原助教授に命じて手術を始めていた。皮肉にも自身が罹患し、須磨浦療病院に入院したり、以来三年にわたって闘病生活を余儀なくされることになった。
 病気が軽快していた三十一年一月、第一回の泉外科開講記念会が発足した。発会に先立って会則が定められ、委員長をはじめ全役員は公選で選び、年に一回総会を開き会誌を発行することなどが決められていた。今では当たり前のことであるが、このような同門の会は岡山では初めてのことであり、会は恩師への感謝の会であり、また勉強の場でもあった。三十二年の『山陽新聞』の「医大展望」に「快男児・泉さん」と題する人物評が掲載されている。
 「岡山医大の学閥争い。今ではそうでもないが、ひところは学長なり院長の椅子をめぐり東大・京大・九大の三大閥が猛烈な勢力争いを演じたものだ。田中(文男、耳鼻科)、安藤(画一、婦人科)などの大物が京大出身だけに、一時は京大閥の威力が他の二大閥を完全に圧倒していた。東大派の若手教授は結束して、第四代の院長選挙には多数をたのんで新進の柿沼教授(内科)を擁立して相争ったこともあったが、数の少ない九大派はいつも泣き寝入りをするほかなかった。
 それが今日では学長(田村、病理学)をはじめ外科、ないかなど重要教授の椅子を占め、わが世の春を謳歌するまでに至ったが、この背後には快男児泉教授があずかって力あったものといって差支えあるまい。泉博士は人も知る快男児、外科教授として天下一品だ。去る三月のこと小児科教授の好本博士が、泉教室の飼っている実験用の犬の吠え声がやかましいと苦情をいったというので、早速お手のもののメスをふるって声帯をチョン切ってから、好本博士に「君んとこの赤ん坊の泣き声がやかましいから、聞こえぬようにしてもらいたい」と一本ねじ込み快男児ぶりを発揮したものだった。研究には人一倍熱心で、弟子を愛することわが子の如く。教授中での人情大臣である」と評価している。
 また同紙のロボット欄は「岡山医大の教授泉伍朗博士は、胃ガンの治療に関しては天下一品、まさに国宝的人物、世界的にも知られた名声」と最大限の賛辞を呈している。
 この三十二年には地方では稀に見る鉄筋五階建の泉外科新館が竣工した。高層建築の少なかった当時の岡山では、遠くからも目立った堂々たる白亜の大殿堂であった。とくに教授室は日本一と称されたほど広く立派な部屋であったが、泉は長くこの教授室の椅子に座ることはできなかった。
 三十三年に病気が再発して本格的に病床に伏すことになった。結核に加えて金沢時代からの糖尿病もあり、病状は一時的には改善された時もあったが、ついに再起することはできなかった。同年十二月十七日の早朝、内山下の桜馬場(丸の内二丁目)の自宅で死去し、享年四十九歳であった。葬儀に際して、一教授の死としては異例ともいえる勅使御差遣の栄誉に浴している。
 岡山医科大学泉外科は五年半という短い期間であった。しかも泉は肺結核という宿痾にわずらわされて実質的な活動期間はさらに短かった。しかしこの短期間に、榊原をはじめ五十人の教室員を育て、外科学の発展と第一外科の興隆にあとあとまでも影響を与えていた。とき移りひと変わって、よき時代の外科教室の雰囲気は失われたが、泉の残した足跡と感化は教室の伝統となり長く後継者によって継承されていた。
 泉が亡くなって六十年以上が経過し、九十二年に高弟の榊原も九十二歳の高齢で死去した。いまでは泉を知る人はいなくなっているが、泉の若き日の業績が回顧され『日経メディカル』という全国誌に掲載された。十八年前の七十八年に泉教授門下であった父が死去した。その年の第四十三回『岡大医学部第一外科学開講記念会会誌』に「開講五十年、没後四十五回忌にあたり−泉教授と泉外科」と題して泉教授の略伝を寄稿し、折田薫三教授の就任記念として謹呈したことがある。新たに先見性を高く評価された外科教授・泉伍朗先生を紹介した。