臓器移植の先覚者 山内半作

 一九八九年(平成一)九月に開かれた日本移植学会の創立二十五周年記念総会において、山内半作、楠隆光、木本誠二の三人が移植の先覚者として特別表彰の栄誉に輝いた。式典に際して最初の論文を記録した金属銘板が、会長から記念品として遺族に贈られた。山内半作は、日本で最初に臓器移植の実験をした人である。臨床応用については、五十六年に楠が急性腎不全に対して、一時的ではあるが人工腎臓の代わりに腎移植をして救命に成功している。木本は六十四年に、慢性腎不全の患者に日本で初めて永久生着をめざした腎移植を行った。
 今から八十年以上も前の一九一〇年(明治四十三)、第十一回『日本外科学会雑誌』総会演説に「臓器移植」と題して、「余ハ犬及ビ猫ニ於テ七回腎臓ヲ移植セリ・・・」と書かれた論文要旨が掲載されている。これが山内の発表した日本で初めての自家腎移植の実験報告である。
 山内半作は一八七九年(明治十二)徳島県に生まれ、旧姓泉、のちに山内姓に変わった。山内家は代々にわたって蜂須賀家の御典医であった。徳島中学から第三高等学校を経て、一九〇七年(明治四〇)十一月に京都帝国大学京都医科大学を卒業し、猪子教授に師事して外科学を専攻した。九年十二月に助教授となり、十年六月三十日、岡山医学専門学校教授に就任し岡山県病院外科医長を兼務した。このとき同時に、京大から岡山へ耳鼻咽喉科の田中文男教授も赴任している。
 十四年(大正三)、新設の日赤秋田支部病院の院長兼外科医長として招聘され、岡山医専の教授を四年で辞任した。八年後の二十二年(大正十一)、院長を辞任して大阪回生病院に外科医長として勤務し、三十一年(昭和六)五十二歳のとき大阪市西区で開業した。四十五年(昭和二十)に戦災のため豊中へ移転し、戦後は開業を息子にまかせて自適の生活を過ごし、五十六年(昭和三十一)脳卒中のため七十七歳の生涯を終えた。
 『岡山医学会雑誌』の記録によると
 明治四十三年七月、京都帝国大学京都医科大学助教授、従七位山内半作
任岡山医学専門学校教授、叙高等官七等、七等俸下賜
今般岡山医学専門学校教授に任ぜられたる同君は本月三日着任せられたり。君は坂田快太郎君の後任にて外科学を担当せらる。
 四十四年二月、第二十二回岡山医学会総会において「胸郭形成術」を発表。
 四十四年九月、三十日午後一時より第三回眼科研究会が県病院で開かれ「全身麻酔法について」来賓演説。
 四十五年二月、第二十三回岡山医学会総会「動脈瘤における理想的手術の一例」発表、岡山医学会の庶務主幹となる。
 四十五年四月、日本外科学会のため上京。
 四十五年五月、岡山医学会通常会で「所謂回腸盲腸重積症について」発表。
 大正一年八月、十二日文部省にて学位授与式を挙行し、文相、次官等列席のうえ山内半作氏に頭書の学位を授与したり。
 大正一年九月、山内半作君の学位記及び論文要旨「輪状血管縫合及び動静脈吻合並びに血管移植に就いて」(独文)
右論文を提出し京都帝国大学医科大学教授会において、その大学院に入り定期の試験を経た者と同等以上の学力ありと認めたり。依て明治三十一年勅令第三四四号学位令第二号により茲に医学博士の学位を授与す。
 大正一年十二月、岡山医学会通常会で「突発脱疽の外科的療法について」発表。
 大正二年二月、岡山医学会「結腸周囲炎について」発表。
 大正二年四月、日本外科学会へ出席。
 大正三年一月、叙高等官五等
 大正三年四月、日本医学会のため上京。
 大正三年五月、依頼免本官
本月十七日当地発離任。今般日赤秋田支部病院長に栄転せられたる山内半作君のため、岡山医学専門学友会は本月十五日正午より同校に於いて送別会を挙行せり。君は出発に臨み同会へ金二百円を寄付せられたり。
 秋田の医史にくわしい石田秀一氏の『秋田魁新法に見る大正時代の医界』(一九九六)に山内の新任談話が掲載されている。
 「東北地方は初めてです。前任地の岡山は教育、医学の発達が著しく、地方としては屈指の所です。医学方面は患者の考え方が大いに進んでいます。例えば外科に堪能な医師がいて好評を博すと、外科に限らず内科や婦人科はもちろん、あらゆる患者が診断を求める傾向がありますが、岡山の人はこのようなことはなく専らその方面の患者だけです。
 内科の患者はジストマが多く、次に片山病と称する備後の片山に限る疾患があります。同地人でこの病気にかからない者はなく、原因も不明でしたが、このほど田園の泥中に棲息する一種の病虫が農夫の外皮より体内に侵入して繁殖し、これによって肝臓がはれ、次いで貧血を起こして倒れることが発見されてから、近来は余程治療法が研究された結果減少しています。
 外科はるいれき(頸腺結核)その他二、三で特殊のものはありません。従来の各種の疾患に対する治療法は専ら薬品の如何にあったが、近来は理学的療法、すなわち電気の応用をはじめラジューム療法、エッキス光線応用の機運に向かっています。私もぜひこれを実施し、ことにエッキス光線の装置は最新式のものを目下ドイツに注文し近く到着のはずです。内科にかぎらず、各科はこれを応用するよう主任医に指示しています。ラジュームも二十ミリ購入することにしており、地方の病院として二十ミリは当病院が最初です。
 地方では開業医と公立病院の間が円滑を欠くことが多く、滋賀県赤十字病院が極端な患者吸収策に出て、開業医を圧迫し非常な反対を受けた前例があります。私は前知事より言明を受けたとおり、開業医に影響を及ぼすことの断じてないようにし、終始研究の態度を持って、個人の設備できない治療を行い、紹介患者も全治の見込みのある者は紹介者に返し、いささかでも秋田の医療に貢献したいと考えています」
 このように岡山と秋田の医療を比較し、秋田ではラジュームやレントゲン療法を積極的に行い、開業医と連携をとりながら病院を運営したいと新任の抱負を語っている。当時の秋田では医学博士は二人か三人で、外科医は少なく、重傷の外科患者は遠く仙台か東京へ行かねばならないので困っていた。山内を迎えて、外科の神様が来て下さったと県民が喜び県の内外から患者が集まった。整形外科、皮膚科、性病泌尿器科も外科に含まれていたこともあり、病室は満員満員で、増築してもまだベットが足りなかった。
 医員の月給が三十五円、医長の年俸千五百〜二千円、副院長二千四百円、院長五千円で、その後七千円になっている。看護婦の月給が十〜十二円、給仕の日給十三銭で、院長の給料は知事よりも高く県下で最も高給取りであったという。院長は京大出身のため医長は京大が多く、医員には岡山の出身者もいた。
 十七年(大正六)から二年間にわたり赤十字から派遣されて欧米に留学し、アメリカでは有名なマサチューセッツ総合病院など各地の病院を見学し、ドイツではライプチッヒ大学で学んだ。新知識を得て十九年に帰朝し、秋田市医学会や篤志看護婦人会などで欧米視察の講演を行っている。秋田日赤ではその後も副院長や医長が洋行しており、二十一年に竣工した新病棟は山内の洋行視察によって設計された。同病院の『秋田院友』(第十五号、一九五九)は、「山内院長追悼記」と題する特集を掲載し、山内の経歴や追悼の記事とともに豊中で開業していた息子の達夫氏の手紙を紹介している。
 「ご承知かと存じますが、大阪で病院を経営致しおりし処、昭和二十年三月の空襲に遭い全焼。翌二十一年、小生復員帰還せし時には現住地に疎開避難居住致しおりました。その後、二十一年四月以来現住地に於いて開業。医業の方は小生専らその任に当たり、父は至極健康にて、午前中は近所を散歩したり好きな書物を読んだりして時を過ごし、午後は近所の友人と囲碁を楽しみ、夜分は小生の子供達と団欒の時を過ごすのを日課と致しおりました。然る処、昭和三十一年二月七日夕食後、入浴中に突然脳溢溢血にて倒れ、わずか一時間足らずで死去致しました。何等苦痛なく好きな囲碁入浴を楽しみ、自ら体を清め誰にも迷惑をかけることなき全くの大往生でした」
 つづいて、秋田日赤の開院に当たって山内に誘われて眼科を担当した船石晋一は次のように述べている。
 「大正三年早春、新設の日赤秋田支部病院に行けとの話があって逡巡していたところ、山内さんが現職を捨て赴任されると知って、はじめて心が動きました。先生は三高、京大の先輩で大学では助教授として講義を聞きました。次いで岡山医専の教授となられ新進の学者として期待されていました。
 秋田日赤の当事者は、執拗なねばりと最大限に要求をいれることにより、ついに先生を口説き落としました。辺地でも十分に勉強ができ、発展の道ないし楽しみのあるように図書、研究施設等を充実し、院長以下逐次洋行する等、その頃では一流のものなので進んで赴任を承諾したのでした。
 五月に赴任して医療器具、薬品、図書などをそろえるにも随分やきもきしたとこでした。かくて開院、事業も軌道に乗りすべて順調に進んだのに、図らずも第一次世界大戦のために設備の充実も停頓、実に止むをえないことでした。この間、病院の組織、運営に当たられた院長の苦労は大変だったと思います。
 先生は資性闊達、しかも学問も臨床も最高で院内外の尊敬を集めておられ、これ以上のいわゆる名声も出世も必要でないので、常に泰然、つとめずして院内は治まり業務は進行するのでした。よくあると言われるような院長の功名心のために出る不平不満は少しもなく、院内はまことに春風駘蕩、先生のお人柄が反映していました。
 ただ一つ遺憾に思ったのは、眼科の収入が少ないのを嘆かれたことです。患者は最小のお金および時間の負担でという私の、あるいはたぶん赤十字の理想によることを説明したことがあります。嬉しかったのは動物実験、薬品諸材料等が伝票も記帳も要せず思いのままに使えたことです。この研究がその後に学位論文となり、ひいては教職への階段となりました。この点は就任時の期待に近く、山内先生のお陰によるものと今なお感謝しています」
 船石は私の住む井原で生まれ、十二年(明治四十五)に京大を卒業して秋田日赤に勤務した。山内が院長を辞任する前年の二十一年(大正十)に南満医学堂教授となり、ドイツへ留学し、満州医大の初代眼科教授に就任して病院長を勤めていた。戦後は郷里井原に帰って、弟(元ハルピン医大眼科教授)とともに診療に従事し、六十六年(昭和四十一)に死去した。私は依頼を受けて末期の船石を診察したことがある。
 同じく秋田日赤に勤務した医師によると、外科は山内の他に医員が五人、手術は週三回で一日に十〜十五人の手術を行った。外来は一日に百人前後で、内科、産婦人科、耳鼻咽喉科、眼科、歯科があったが入院も外来も外科が圧倒的に多かった。山内の若かりし頃は元気はつ刺として威風堂々。院内はもちろんのこと、社会的にも秋田でトップクラスの名士で花柳会における人気も抜群であった。世界最新の手術見学などの洋行談は今でも頭に残っている。医員に対する指導は寛大で「手術の前はどんなに易しい手術でも必ず本を読むように、本を読まずにする手術は暗夜に提灯なしに歩くようなものだ。これは恩師の猪子教授から堅くいわれた言葉である」とつねに強調していた。
 二十三年(大正十二)二月十七日早朝、レントゲンの漏電によってレントゲン室を手術室などが全焼した。入院患者は無事であったが被害は三十万円以上に達し、火災保険があり結局十五〜十六万円の損害となった。その責任を負って山内は院長を辞任し、三月末に大阪回生病院外科医長に転任した。回生病院は、一九〇〇年(明治三十三)に元陸軍軍医監の菊池篤忠が創設した大阪における民間では最初の総合病院で、戦前から看護婦や産婆の養成所を開いていた先進的な病院であった。現在もなお充実した施設とスタッフを有して、伝統のある地域医療の中核病院として存続している。
 大阪に移ってからも山内の名声はひろく響きわたり、回生病院の外科は門前まさに市をなしたという。西区江戸堀で外科病院を開業後も、終戦前まで長年にわたって市内の有名病院として盛業を極め、依頼応じて遠く新宮まで海路、手術に行くこともあった。
 没後四十年が経過し、いま山内半作の名を知る人は岡山にはいない。山内は血管吻合を行い、虫垂炎の手術法を改善して手術時間を短縮した優れた外科医であった。伝聞であるが、岡山で最初の開頭術を行ったのは山内であるという。
 関係者によると、人間的にも周囲のすべての人びとから畏敬されたスケールの大きい人物であったことがわかる。大正のはじめに中四国で唯一の医専教授のポストを捨て、郷里から遠く離れた東北秋田に赴任し、秋田の外科を築き、さらに大阪でも外科医として華々しい生涯を送った。医学者であるよりも臨床医の道を歩んだが、若き日の研究が八十年後に臓器移植の先覚者のひとりとして新たに評価されている。かつて第五十六回『第一外科開講記念会会誌』(一九九一)に「明治の岡大外科−坂田快太郎を中心に」を寄稿したが、短期間ながら明治の一番最後の教授であった山内を省略したのは残念なことであった。
 本稿のきっかけとなったのは、ドイツ経済史や日独交流について研究している岡大経済学部の松尾展成教授からの照会である。山内の最初の実験から八十年以上が経過し、腎移植は現在では確立した治療法となっている。山内が日本移植学会特別表彰を受けたことを、お孫さんである関西医科大学脳神経外科助教授の山内康雄氏から教えられた。お二人の他にも新潟大学の小関恒雄氏、大阪回生病院のご協力をいただき、また直前に著者から謹呈されていた『秋田魁新報に見る大正時代の医界』も参考することができた。後生になって学会から論文が顕彰された外科教授・山内半作先生を紹介した。