岡山県医師会名誉会長  藤原鉄太郎


 足守にある蘭学者・緒方洪庵の生地跡に、一九二七年(昭和二)吉備郡医師会の発起によって仰ぎ見るような記念碑が建てられている。正面の「緒方洪庵先生碑」の題字は京都帝国大学総長・荒木寅三郎の筆になり、背面には長文の顕彰の文字が刻まれ「鍛冶山の麓足守川の辺、山紫水明の処是れ偉人誕生の霊地なり。庶幾は此地に来り其碑を仰ぎ、先生の遺徳を讃し、其感化に浴せむとするの士、万世に亙りて絶えざらんことを」と結ばれている。この碑文を書いたのが時の岡山県医師会長であった藤原鉄太郎である。
 藤原は一八六九年(明治二)十一月十五日に、島村貫吾の長男として上道郡高島村(岡山市高島)で生まれ、三十歳を過ぎて同じ上道郡三蟠村藤崎(岡山市藤崎)の藤原分家を継いだ。父の貫吾は国友家から島村家に入った人で、駒田延泊という医師に医術を学び上道郡雄町村(岡山市雄町)で開業した。池田侯の藩医を勤め『岡山大学医学部百年史』によれば、維新後は岡山医学所に勤めており、藤原がまだ幼いときに亡くなった。
 岡山藩医学校の教授であった津下精斎と、東大医学部の前身である西洋医学所の教授を勤めていた島村貞甫(鼎甫)は、母の異母兄である。島村の家系に連なる二人の伯父は、いずれも洪庵の適塾においてオランダ医学を学び、維新前後の医学教育に従事した先進的な医師であった。藤原は医学部を出るまで伯父精斎の世話になっていたという。
 藤原家は旧三蟠村において元禄時代から続いた大庄屋であった。一九六五年、藤原家に伝わっていた年貢米などに関する古文書や、上道郡各村の古い地図、絵図など計一七二一点が岡山市図書館に寄贈された。この『藤原文庫』は岡山市南部の村方文書として貴重な資料となっている。
 藤原は本学の前身である岡山県医学校に入学したが、一八八八年(明治二十一)に同校は近畿・中国・四国で唯一の国立の第三高等中学校医学部(三中医)へ昇格した。三中医は翌八十九年は二回に分けて卒業生を出し、藤原は十二月二十五日に第二回生として卒業した。その年弱冠二十歳であった。当時は全国でも数少ない国立医学校の卒業生であり、現在よりはるかに希少価値が高かった。藤原が卒業した年に創刊された『岡山医学会雑誌』によると、卒業式に際して菅之芳校長は、挨拶のはじめに国立移管後の状況に言及している。
 「茲に本日を以て第二回卒業証書授与の典を行う。今回の卒業試問は受験生六十人にして其試問を全うせしもの四十人、前回卒業の者を合すれば実に五十八人なり。而して今回の卒業生は、前回の者と皆同じく元岡山県医学校より本部第三年級に編入せられたるものにして、其の卒業の先後するものは、前者は少しく学科履修時日の早かりしを以て後者に先し卒業試問を施行せしを以てなり。要するに其の年級の異なるに因って卒業の先後するに非らざるなり」と述べ、最後に「自今以後諸君勉励怠らず、益々斯界の進歩を図り以て国家幸福の大計を輔翼せよ」と激励の訓示を与えている。
 藤原は第二回卒業生であるが『岡山医学同窓会会員名簿』では、第一回の卒業生とともに一括して命じ二十二年卒となっており、三中医の第一期生である。この年の卒業生は「庚寅同窓会」というクラス会を結成しており、第一生命の創設者である矢野恒太、岡山孤児院を設立した社会福祉の先覚者の石井十次、精神科教授となった荒木蒼太郎などの有名人がいる。卒業生は菅校長のあいさつでは五十八人であるが、名簿では五十九人となっている。これは石井の功績を讃えて、中退ながら特に卒業名簿に名前を加えたためであり、名簿には四年中退石井十次と記載されている。
 藤原は眼科医となったが、岡山県医学校の時代には眼科の講義は校長の清野勇が担当していた。藤原の三中医の卒業証書は資料室へ寄贈されており、この証書の署名によれば、眼科の講義は産婦人科が専門の熊谷省三教授が担当している。眼科専門の大西克知教授が着任したのは藤原の卒業した翌年であった。
 卒業後は一年志願兵として近衛師団に入営し、その後は県病院で眼科を学び九十四年(明治二十七)に岡山で開業した。島村眼科は明治から昭和にかけて岡山で最も有名な眼科の一つであった。開業して五年後の九十九年(明治三十二)から三年間にわたって念願のドイツに留学し、フライブルグ大学でファックス教授とアクセンヘルド教授について学んだ。一九三〇年(昭和五)に、ア教授は大阪で開かれた第八回日本医学会総会に招待されて来日し「結膜疾患とホルモン」と題して特別講演を行っている。学会が終わって教授は岡山を訪問しており、師弟は三十年ぶりに旧交を温めることができた。
 フライブルグ大学から、次いで遠く離れた北ドイツのロストックに転学し、ドクトル・メディチーネの学位を得て帰国した。眼の内因性中毒性創傷炎症(Endogene toxische Wundeentzundung am Auge)と題する論文を提出しラテン語の学位記を受領している。
 藤原の留学は私費留学であり、開業によって得た自己資金の他に、妻の実家の藤原家からも留学費用が出たものと考えられる。留学中に婿養子縁組が結ばれていることから、養子縁組と留学とは全く無関係ではなかったのであろう。帰国の後ふたたび開業しており、姓が島村から藤原に変わったために、免許証には「明治廿五年一月二十日授与シタル医術開業免許、今般他家入籍ノ故ヲ以テ書換願出ルニ因リ更ニ下渡ス者也。内務省印」と記した裏書きがある。〇二年(明治三十五)七月十二日に免許証の再交付を受けており、姓が変わっているが、島村眼科という看板だけは変えなかった。
 帰国して二年後の〇四年(明治三十七)から二年間は、ドイツへ留学した小川剣三郎教授の代理教授に推薦され、岡山医専の眼科教授に就任し県病院医長を兼任した。小川教授がドイツから帰国した〇六年十二月に辞任し、また開業医の生活に帰った。辞任するに当たり県病院で指導を受けた門下生が感謝状を贈呈している。

 「先生の職に岡山県病院眼科に在らるるや生等を示導誘掖し給う事懇篤優渥、生等感激措く能わず、今や先生の冠を掛けらるるに際し厚恩の萬一に酬いる為、聊か微品を致して以て記念となすという。
  明治三十九年十二月二十七日
 藤原大恩師殿」

 藤原が眼科教授と県病院医長を勤めたのは二年間という短い期間であった。この間、学生や医局員の指導に全力を傾注し、惜しまれながら職を去ったことがわかる。岡大眼科は大西克知教授に始まり、ついで井上誠夫、藤田秀太郎、庄司義治、畑文平、萩原朗、赤木五郎、奥田観士から現在の松尾信彦と続いている。藤原は第四代の教授であり、業績として眼科の各領域の臨床報告と、トラコーマの病理学的研究などが記載されている。岡山県病院に勤めていた九十三年(明治二十六)にかけて『眼科雑誌』『眼科学会雑誌』『岡山医学会雑誌』などに十七編の論文を発表している。
 教授を辞任して再び開業してからも、洋行帰り、前県病院眼科医長の肩書も加わって、門前まさに市をなした盛業であったという。門下生は藤原大恩師と敬慕し、島村眼科で眼科の実地を学びたいと希望する医師も少なくなかった。二十八年(昭和三)に藤原の還暦を記念して祝賀会が開かれ、目録によると門弟より邸内に書斎一棟という豪華なお祝いが贈られている。
 十五年(大正四)、岡山県医師会が創設された時に藤原は最初の専務理事となり、二十四年(大正十三)に第二代の会長に就任し、四十年(昭和十五)まで九期十七年間にわたり会長の職にあった。県医師会だけでなく日本医師会の役員も兼任しており、岡山医学会の副会長にも推され、さらに短期間ながら県議会議員も勤めていた。その他にも四十年間にわたって在郷軍人会の役員、町総代、済世委員、衛生組合長などの多くの公職を委嘱されている。また消防団の援助や青年団の育成を支援し、岡山市政と三蟠村政に対し積極的に協力しており地域社会へ幅ひろく貢献した。四十年(昭和十五)には、戦前から創立されていた岡山ロータリークラブの第八代会長を勤めている。
 県医師会長に就任後は、新たに健康保険制度の発足にともない健康保険部長も兼任していた。会員も増加し、会務は年とともに繁雑になっていたが、県医師会の充実と団結は先進的な医師会として全国的に有名になっていた。県医師会だけでなく、日本医師会の議員や健康保険部の理事も兼任し、飛行機も新幹線もなかった時代に、日医の会議に出席するため十七年間に数十回も上京していた。終始一貫、私利私欲を超越した会のための献身的な貢献と、会員からの絶対的な信頼がなかったなら、十七年という長期にわたって会員から圧倒的な支持は得られなかったであろう。
 会長としての指導理念は、医師に大切なことは人格の修養、生涯学習、人情の機微に通ずること、医事法制の知識を有することの四つであると強調していた。岡山市医師会の産婆看護婦養成所の校長も兼任しており、教育に当たって勉強は二の次でもよいが、謙虚で誠実で親切で同情心の強い、病人の気持ちのわかる産婆や看護婦の養成、すなわち人間教育を第一の基本方針としていた。
 辞任後の四十一年(昭和十六)四月に、総会の決議により、長年の貢献によって感謝状とともに功労金千円を贈られ、さらに名誉会長に推挙されている。また戦後の榊原亨会長のときに、県医師会で初の顧問に推戴されている。岡山県医師会にあって藤原以外に名誉会長に推された会長はいない。
 岡山医学会との関係については、卒業して五年後の一八九四年(明治二十七)に早くも評議員に選ばれ、三十三年(昭和八)に学外から初めての副会長に就任した。三十九年(昭和十四)、岡山医学会の創立五十周年祝賀式に際しては副会長として開会の挨拶を行い、永年勤続役員として表彰を受け、次いで県医師会長として祝辞を述べている。
 藤原の履歴については、死亡に際し婿養子の謙造が書いたと思われる略歴が存在しており、書簡とともに感謝状や表彰状など多くの資料も残されている。藤原は十三歳で早くもキリスト教に感銘を受け入信しており、十六歳で日本キリスト教岡山協会で洗礼を受けている。生涯にわたって社会奉仕の精神を持ちつづけ、孤児院や博愛会などの福祉事業にも進んで協力していた。二十数年間にわたって施療患者の治療に無料奉仕をするなど、協会に対して援助を惜しまなかった。
 藤原は令名高い眼科医であり、明治時代にドイツへ留学した数少ない洋行帰りであり、教授も経験したエリート開業医であった。若い頃から優れた識見の持ち主として人望が高く、抜群のリーダーシップと、行動力や包容力を備えたスケールの大きい医師であり、私心のない生き方など、多くの点で非凡な人物であったことは間違いない。さらに最後まで愛と奉仕に生きようとした、おのれに厳しいキリスト者であり、気骨に満ちた明治の男であった。
 また藤原は傑出した歌人でもあり、生涯にわたって短歌を趣味としていた。万葉の研究を行い、井上通泰に入門し「鉄彦」と号して早くから歌道に精進し、古希を記念して歌集『鉄彦集』を出している。書道にも華道に造詣が深く、水墨画もたしなんでいた。
 初代県医師会長であった坂田快太郎(教授時代は阪田を使った)と藤原には多くの共通点があった。二人とも名前が太郎で、大変はやった岡山県下で有名な医者であったこと、岡山医専教授であったこと、クリスチャンであったこと、ドイツへ留学したこと、優れた文化人であったこと、晩年が淋しかったことなどである。没後に、藤原の『続鉄彦集』、坂田の漢詩集『九峰遺稿』や『九峰遺墨集』など、ともに追悼の遺作集が発行されている。また二人は長年にわたり最も親しい間柄で、三十一年(昭和六)の坂田の葬儀に際して藤原は友人総代であった。
 藤原は明治から昭和にかけて長年にわたり岡山で眼科を開業し、東田町の広い敷地に医院と自宅があった。しかし老齢になって診療は他の医師にまかせ、すでに終戦前には引退していた。空襲によって医院も自宅もすべて焼失してしまったため、住みなれた岡山の地を離れて、戦後は京都の娘夫婦の家に移り、市井に隠棲して余生を過ごした。ふるさとを思いつづけ、寂しさを切々と歌に託した晩年であった。五十四年(昭和二十九)に脳卒中のため死亡し八十五歳の生涯を終えた。没後にやっと念願の岡山に帰ることができ、東山の峠を越えた湊の丘にある藤原家歴代の墓地に眠っている。東田町は今は中山下二丁目と町名が変わり、跡地には中鉄バス本社が建っている。
 藤原は戦前に長く県医師会長の要職を勤めた岡山医界の巨星であった。しかし戦災後は藤原の姿は岡山から消え島村眼科も消滅してしまった。藤原が亡くなって四十年の歳月が過ぎており、いまでは岡山の医師でも、岡山の眼科医でも、県医師会の関係者でさえも藤原の名を知っている人は少なくなっている。時代が変わり世代が交替し、いまは藤原について語る人はいない。しかし藤原は、岡山県医師会長の中でも名誉会長に推挙された唯一人の会長である。県医師会の歴史に残る特筆すべき会長であったといっても過言ではないであろう。
 八十八年(昭和六十三)に、日本医史学会の会員である京都の眼科医奥沢康正氏によって、津山で開かれた日本医史学会関西支部の研究会で「藤原鉄太郎(岡山県医人)の京都における晩年−その手紙から−」が発表された。同氏の調査から多くのことを教えていただくことができた。藤原の娘の愛と結婚し藤原家の養子となった謙造は、京大を卒業した眼科医で、京都府立医大教授や付属病院院長、ついで国立舞鶴病院長などを歴任している。謙造夫婦には子供がなく、藤原の資料は奥沢氏によって保管されていた。昨年末に、藤原の生涯と功業を物語る多くの貴重な資料が、望郷の思いを断ち切ることができなかった墳墓の地岡山に里帰りし、本学の資料室に保存されることになった。奥沢氏のご厚意とご配慮に衷心よりお礼を申し上げる次第である。

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