岡大外科の開祖 坂田快太郎の留学通信

 『岡山大学医学部百年史』(一九七二年)の第一外科の部の冒頭には「明治二十一年三月、坂田快太郎は第三高等中学校教諭として本校に奉職し、明治四十一年五月在職二〇年記念祝賀式が挙行された。明治四十三年六月退官、市内で開業した」と書かれている。  同じ第二外科の部には「明治二十七年、本学の前身である第三高等中学校医学部が第三高等学校医学部と改称された当時、外科学は坂田快太郎(二十一年三月より)ならびに高橋金一郎(二十六年九月より)の両教授が担当していた」とあり、岡大の外科は坂田教授より始まると記載されている。坂田教授の人物像とその留学の記録を紹介してみたい。

 坂田快太郎(一八六五・慶応一〜昭六・一九三一)は、蘭医坂田待園の長男として今の岡山県小田郡美星町明治に生まれた。坂田家は、井原市にある興譲館という学校を開いた阪谷朗廬や、国会議員、銀行頭取などのすぐれた人材を輩出しており、生家は「五先生の生家」として町の文化財に指定されている。

 坂田は一八八七年(明二十)東大を卒業し、翌八八年に国立の医学校となった郷里岡山の第三高等中学校医学部に赴任し、ひきつづき第三高等学校医学部から岡山医専と、一九一〇年(明四十三)まで二二年間にわたって外科学教授として勤務した。辞任後に外科病院を開業したが、初代の岡山県医師会長をつとめており、漢詩人(九峰と号す)として名高く、西川吟社という漢詩の会を主宰した。さらに岡山医界の三筆の一人と称されたほど書にすぐれ、絵もうまく、当時の岡山県では、最も有名な医師であり最高の文化人であった。一人息子の坂田一男は一九二一年(大一〇)から一二年間もパリに留学し、現在では抽象絵画の先駆者として非常に高く評価されており、親よりも後世にその名が残っている。

 坂田は附属病院であった岡山県病院に外科部長を兼任していたため、初めて岡山県から二年間の予定でドイツに派遣された。東大を卒業してから一三年後、三五歳の時のことである。当時の日本医学はドイツ一辺倒の時代であり、ほとんどの留学生がドイツに留学した。とくに、一九世紀の最後の年である一九〇〇年(明三十三)前後には、京大の新設と、数少ない医育機関であった五つの高等学校医学部が、独立した専門学校に昇格することになり、例年よりも多くの留学生が派遣された。

 一九〇〇年の留学生は文部省からの留学生が三九名で最も多く、そのうち医学留学生は八名、文部省以外の公費による医学留学生は三名で、その他に自費留学生も少なくなかった。この年の全留学生の中には、夏目漱石、滝廉太郎、野口英世等の超有名人がいる。  二年二ヶ月の間に坂田が家族に書く送った手紙には八〇通前後と推定され、三七通が生家に現存している。そのうち二五通がひらかな文、一二通がカタカナ文で、主として候文の読みやすい長文の便りが多い。留学した一九〇〇年一四通、一九〇一年一九通、帰国した一九〇二年は少なく四通しか残っていない。

 八月一日神戸港を出航、マルセーユを経由して九月十九日にスイスの首都ベルンに着き、二年後の十二月末に帰国している。初めはベルン大学にいた有名なコッヘル教授に師事する予定であったが、都合がわるく、ミュンヘンを経由して九月三十日にベルリンに移り、ベルリン大学でベルグマン教授等の臨床講義を受けている。

 坂田はドイツの気候風土やドイツ人気質などを細かく書き送っており、最初の頃は強いホームシックに悩まされていた。夢にまで見ていた洋行も、実際に来てみると島流しのようにつらいと訴えており、また物価が高くて生活が窮屈のため、借金をしてでも金を送って欲しいと催促している。岡山県より支給された留学費は文部省と同じく一ヶ月一五〇円で、陸軍留学生は四〇〇円、台湾総督府からの留学生は一番裕福で、月に六〇〇円も使うことができたという。

 坂田の手紙に出てくる医学留学生は四七名で、当時は唯一の大学であった東大卒の三二名が一番多く、次が岡山卒の七名で、ドクトルの学位を目的として留学した。岡山関係の留学生の氏名をあげると、坂田のほかに文部省より派遣された岡山の教授が、桂田富士郎(病理学・明二十県立金沢医学校)、井上善次郎(内科学、二十一東大)、舟岡英之助(生理学・二十二東大)、足立文太郎(解剖学・二十六東大)等四名もいた。その他の留学生は、能勢静太(二十東大)、山上兼輔(二十東大別課)と、大森英太郎(二十東大別課)、岡山卒の島村鉄太郎(二十二)、藤沢克孝(二十四)、内藤達(二十六)、三宅良一(二十八)、岸一太(三十)、松本百之助(三十一)、西山壮三(三十二)等であった。

 この中で最も親しくしていたのは島村(後に藤原姓)である。藤原は医専時代に眼科教授をしていたこともあり、坂田についで第二代の岡山県医師会長をつとめている。また藤沢は留学中にミュンヘンで客死している。

 坂田は十一月中旬に、ベルリンからオーデル川に沿うブレスラウの大学に移り、世界的に有名であった外科教授ミクリッツに師事することになった。ブレスラウは、現在はポーランド領となっており、ブレスラウ大学には優れた学者がいたため、日本から多くの留学生が訪れていた。とくにミクリッツは日本人を懇切丁寧に指導したことから、彼の外科教室に留学を希望する日本人が多かった。

 ほとんどの留学生が妻帯者であり、自戒のためにブレスラウの留学生は、筒井八百珠を会長とする「かかあ大切会」という会を作っていた。筒井(一八六三−一九二一・明二十二東大)はのちに岡山医専の校長となり、医科大学への昇格に尽力している。

 ミクリッツ教授の豪華な大邸宅を訪問したこと、華やかな夜のパーティーへの招待、ものものしい教授の回診風景、さらに動物実験による研究を始めたが、金がかかること、何をするにも自分一人でしなければならず、苦労していること等を報告している。苦労の末にできあがったドイツ語の研究論文を、帰国後に東大へ提出し学位を受けている。これは岡山では、臨床家として菅校長に次いで二番目の医学博士であった。

 ブレスラウに移ってからも、講習会などのため、汽車で五時間かかるベルリンまで再三出張し滞在している。ベルリンでは、日曜日に仲間の留学生と郊外のリゾート地を訪れたり、玉突きなどをしていた。明治天皇の天長節や正月には、日本公使館より晩餐会に招待され大御馳走になり、その後はカラオケ大会のような演芸会を楽しんでいる。また日本語の教師としてベルリンにいた巌谷小波を指導者として開かれていた、「白人会」という俳句の会にも出席しており、乏しい金の中から仲間と、ハンガリー、オーストリア、スイスアルプスにも旅行している。

 当時は、ドイツでもまだ電話が普及していなかったので、留学生同士は主として絵はがきによって挨拶や近況報告など、ひんぱんに情報交換を行っていた。ベルリンでの留学生の世話役で、後に東大教授・駒込病院長をつとめた宮本叔(一八六七−一九一九・明二十五東大)は、当時の絵はがきを約六百枚持ち帰っており、女婿の東山嘉雄氏により整理保存されている。その中には坂田が出した漢文、短歌、俳句、狂歌など多彩な内容の絵はがきが、寄せ書きを含めて一〇数枚残っている。

 留学した異国でわびしい新年を迎え「正月や雑煮は食えず嬶はなし武城(ブレスラウ)の春は無常なりけり」と嘆いており、絵はがきは留学生にとって便利で大切な通信手段であった。

 現在のように一年間の海外渡航者が一千万人を超す、ゆたかな時代とは異なり、情報のとぼしい、しかも日本は貧しい東洋の小国の時代の留学であった。遠く離れたドイツから坂田が家族にあてた手紙や、留学仲間にあてた絵はがきには、強い望郷の思いと家族への深い愛情がこめられており、胸を打たれるような哀歓に満ちた便りが多い。坂田の手紙は、生家の美星町農協組合長・坂田雄次郎氏のご好意によるものである。

 『岡山市史・人物編』(一九六八年刊)には、原撫松(一八六六−一九一二)の描いた坂田の肖像画が掲載されている。原は岡山出身の有名な明治の肖像画家であり、岡山医学部にある坂田の肖像画は、岡山に残した彼の代表作であるという。残念ながらこの絵は医学部にはなく現在は行方不明になっている。市史人物編が刊行された後も、たしかに存在していたという証言もある。この絵について心当りのお方は、医学部資料室(室長・解剖学村上教授)までご連絡いただきたい。