第27話:【コンピュータ・ケータイ・IT社会・ネット依存がわれわれにもたらすもの】
【コンピュータ・ケータイ・IT社会・ネット依存がわれわれにもたらすもの】

   拝啓 わがコラムの愛読者の皆様
   ご無沙汰致しております。ここ 2回ほど政治のことを書いたけれど、もうサッパ
  リです。何が政治主導だ、何が事業仕分けだ。茶番もエエとこ。今や日本の政治は、
  総理を始め「民主党ド素人政治集団」と、これまでの「霞が関餌付け猿回し軍団」
  ども政治屋のみなさんによるDutch-roll政治のお蔭で、すっかり骨の髄まで沁み渡
  って官僚主導政治になってしまいました。ついに政治と行政が一体化したわけです。
  これで今後「大増税」が実現したら官僚のやりたい放題の完成です。これじゃ小泉
  時代よりカタもタチも悪い。既に日本には絶望の二文字しか残されておらず、拙者
  アホらしくて仕方がない。(シマッタ、話がアサッテの方に行ってしまった)。
   ところで今回の話は高度情報化社会のお話のつもりです。とくにここいらでケー
  タイやインターネットを酷評してやろうということでいろいろ考えていました。そ
  して丁度タイムリーにニコラス G. カー氏の書いた『ネット・バカ』(篠儀直子訳、
  青土社)を知り、まことにもっともな至言の数々に出会いました。拙者ももう年老
  いて死も間近(理由:人間はいつ死ぬかわからない。生きても高々80歳)なので、
  わが愛読者諸氏に敬意と警告の意を込めて高い見識から述べられた意見をご披露い
  たします。
   そうそう拙者「アル中ハイマー」というなかなか到達が難しい境地に達しました
  ので、書き損じてもいけないし要旨を曲げて伝えてもいけないので、このあとは全
  文あちこちからの引用ということでご勘弁下さいませ。

   ●オンラインが我々から奪うもの
   オンラインでわれわれが、何を行なっていないかも、神経学的に重大な結果を
   もたらす。発火をともにするニューロンがつながるのと同様、発火をともにしな
   いニュ−ロンはつながらない。ウェブページをスキャンするのに費やす時間が読
   書の時間を押しのけるにつれ、一口サイズの携帯メールをやり取りするのに用い
   る時間が文や段落の構成を考えるのに用いる時間を締め出すにつれ、リンクをあ
   ちこち移動するのに使う時間が静かに思索し熟考する時間を押し出すにつれ、旧
   来の知的機能・知的活動を支えていた神経回路は弱体化し、崩壊を始める。脳は
   使われなくなったニューロンやシナプスを、急を要する他の機能のために再利用
   する。新たなスキルと視点をわれわれは手に入れるが、古いスキルと視点は失う
   のである。(ニコラス G. カー『ネット・バカ』篠儀直子訳、pp.170-171、青土
   社)

   ●「有機械者、必有機事」(汝、機械の奴隷になる勿れ)
     吾聞之吾師。有機械者、必有機事。有機事者、必有機心。
     機心存於胸中、則純白不備。純白不備、則神生不定。
     神生不定者、道之所不載也。吾非不知、羞而不為也。
            -----------------
     之を吾が師に聞けり。機械有る者は必ず機事有り。機事有る者は
    必ず機心有り。機心、胸中に存すれば、則ち純白備(そなは)らず。
    純白備らずんば、則ち神生(しんせい)定らず。神生定らざる者は、
    道の載せざる所なり。吾、知らざるに非ず。羞ぢて為さざるなり。
            -----------------
     わしは師匠からこう習った。機械を使う者は必ず機事がある。機事
    がある者は必ず機心がある。機心が胸のなかに存在すると、不純にな
    る。不純になると、心が定まらない。心が定まらなければ、自然の道
    からはずれてしまう。わしは機械を知らないわけではない。が、自分
    が逆に仕事に支配されると恥ずかしいから、機械を使わないのだよ。
       (『荘子』天地より、篇加藤徹氏著『漢文力』中央公論新社)

   ●インターネット。現代のメフィストフェレスが欲するのは...
   ゲーテは、詩人らしい表現力と、少なからぬ誇張によってファウストを作り上
   げ、人生に疲れ、謎めいた生涯を送る学者としてファウストを描いた。
    そのファウストは、より深遠な知識とより大きな力を得るために、霊を呼び出
   し、次のように告げる。「わたしだ、ファウストだ、お前たちの仲間の一人だ」。
   そして、五茫星(ペンタグラム)の中にメフィストフェレスを閉じ込め、知識と
   権力を与えることを要求する。メフィストフェレスはくすくす笑いながら、「知
   識と権力だと? よかろう…」と答える。
   ああ、しかし、ファウストは代償を払わなくてはならなかった。ミスター ・
   スクラッチ、暗黒の王子、魔王、メフィストフェレスなどと、いかなる名前で呼
   ぼうと、悪魔は当然得るべき報酬を要求する。つまり、不死となったはずのファ
   ウストの魂だ。
   そして、二十一世紀の初めに目を向けると、学者たちがいたるところでインタ
   ーネットを呼び出している。ログオンして、情報と力の世界に心を許せば、博識
   と全能が指先のクリックひとつで手に入る。
    その代償は何か、とおたずねになる? インターネットの推進者たちによれば、
   情報はすべて無料ということになっている。しかし、インターネットを使ってい
   るとき、僕らは金銭よりも高価なものを手放している。現代のメフィストフェレ
   スが欲するのは、僕らのもっとも貴重な資源、つまり現世における時間だ。
   時間は経過する。僕らは、その事実を承知のうえで仕事やスポーツにいそしみ、
   授業を受け、テレビを見ている。一日の仕事時間は、会議の時間や食事の時間と
   いったもので適当に区切られている。スポーツ観戦では、休憩時間や、ゲームが
   大詰めを迎えたときに、試合時間の経過が意識できる。学校の授業は五十分たつ
   と終わる。テレビを見ているときは、コマーシャルが時間の経過を思い出させて
   くれる。
   ところが、コンピュータのモニタがそういう里程標を見せてくれることはない。
   オンライン上に、時の経過を知らせる目安があるわけでもない。時の経過を喚起
   してくれるわけでもない。そして僕らの時間は、インターネットをチェックして
   いるあいだに、モデムに刻々と吸い込まれてゆく。僕らは情報の山に埋もれなが
   ら、自分の機械的・電子工学的(サイバネティック)な運命をコントロールして
   いる。そこはまさに、知識と力がものをいう世界だ!
   それで、インターネットで時間を過ごし、ログオフしたとき、僕らはログオン
   する前よりも大きな力を手にしているのだろうか。インターネットで過ごしたの
   と同じ時間を読書にあてたときよりも、多くの知識を手にしているのだろうか。
   友だちや家族のメンバーとの関係は、より親密なものになっているのだろうか。
   僕には、ニタニタしながらもみ手をしているメフィストフェレスが目に浮かぶ。
   (クリフォード・ストール『コンピュータが子供たちをダメにする』骨倉彰訳
   、草思社、pp.182-184)

   ●「無意識」を欠落させるIT社会(養老孟司氏)
    われわれの意識と無意識を氷山にたとえるなら、水面の上が「意識」で、自分
   で分かっている部分。その下に自分で読めない大きな部分がある。これが「無意
   識」。体といってもいい。
   氷山の一角である意識が作り出してきたのがコンピューターであり、コミュニ
   ケーションは氷山の水面から出た部分同士、意識をつなぐ道具といえる。
   意識同士をつないでいるのが言葉であり、「情報」といっている。現代社会で
   は水面上の部分だけが見えていて、基本的には上だけで動いている。脳と脳を情
   報でつないでいくのが私のIT社会のイメージだが、そのとき非常に多くの部分が
   切り落とされていることを意識しておく必要がある。
   情報化社会の大きな錯覚は、情報が常に変わるとみな考えていること。ところ
   が、いったん情報化されたものは変わらない。コンピューターの中に入っている
   ものが変わったら大変で、勝手には変わらない。おしゃべりはその都度消えてい
   って、動いているとみんな思っているが、テープレコーダーにとっておけばいつ
   でも再生できるから止まっている。
   ところが、人間の方は絶えず変わっていく。若い人でも赤ん坊の時と今の自分
   を比べたら、いかに変わったか分かるはず。年を取るのは、自分が変わっていく
   過程でもある。変わらないのは情報で、変わるのは人だ。
    「情報処理」というのは止まったものを再配置していく作業だから、人間の意
   識が得意としている。情報を作るということは、氷山の下の部分を上に持ってく
   る作業。もともと意識の中になかったものを情報に変える。情報化すると、言葉
   になる。この情報になっていないものを情報にする作業を出来ない人が、ものす
   ごく増えた。
   学生に試験の代わりにリポートを書かせたら、学生のくせにやたら官僚的な文
   章が出てくるので、調べると、インターネットで官庁のホームページを抜き書き
   している。情報になったことは上手に処理できるが、情報の生産ができない。言
   葉にするのは情報化する能力。学問とか勉強は、情報化する作業そのものだ。
   意識の世界が発達してくると、意識化する作業をおろそかにしてしまう。すべ
   てを意識化していくベクトルが学問といえる。教育は、自分でそれができる人を
   養成することが目的だったはず。絶えず自分を変えていく作業、意識化する作業
   をしていないと、無意識の存在に気がつかない。
    今の学校教育は、意識の世界に閉じこもっている。
    意識の中に人間が住むようになった社会を私は「脳化社会」と言ったが、そこ
   で問題になるのは意識にならない部分と意識の関係。現代は、意識の世界と無意
   識の世界で別なルールが存在することを認める気がない。われわれのこども時代
   は、自然の中でこけつまろびつして、トンボ捕りや魚取りをやっていた子どもが、
   学校で情報処理の仕方を教わった。
   いまの子どもは逆で、テレビはあるし、言葉ははんらんしている。それに情報
   処理を学校で教えても屋上屋を重ねるようなもので、教育は逆にならなければい
   けない。体を使って働けば水面下の存在に気がつくはずで、下がちゃんとすれば
   上もちゃんとする。(朝日新聞朝刊 2004/3/29. p.13、基調講演より)

   ●ケータイ依存で脳は退化する。
    ケータイの流布によって、私たちの生活スタイルはどのような本質的変化を遂
   げるのだろう?
   すべてのやっかいと感ずる知的作業を、肌身離さず持つ小さな電子機器に委ね
   る、という点にあるのでは、と私は推測している。つまり従来は、自分自身の身
   体の一部である脳を使って行っていた内容を、そっくりそちらへ移管しようとす
   るのだ。
    比喩的に人間を一台のコンピューターとみなそう。コンピューター同士は、回
   線でつながっている。ただし最初は、ただそれだけだった。だから、各コンピュ
   ーターで実行する操作内容は、基本的にその内部にインストールされたものがす
   べてだった。
   ところがやがて、外部メモリー(記憶装置)が装備されるようになる。しかも
   容量はどんどん巨大化していく。コンピューター本体に入っていたものを次々と
   そちらへ移していく。いろいろ入っているとやっかいだから、必要な場合にのみ
   外から運べばいいじゃないか、ということになるーーそれとまさに同じことが、
   私たちの生活に起こっている気がする。
    そうすることで私たちは、日常のわずらわしさから解放される。わずらわしさ
   から解放されると、その分、有意義に毎日を過ごせると無意識のうちに信じてい
   るふしがあると思う。・・・(中略)・・・。
    ただ問題は、それで私たちは本当に、より人間的な営みを実行できるようにな
   るのか、ということである。わずらわしい、生きるための諸々の作業から解き放
   たれた時間を、有効に使うようになってきているだろうか?
   とてもそのようになっているとは私には思えない。むしろまったく正反対の現
   象が起きているふしすらある。つまり、人間はむしろ非人間化しつつあるのでは
   ないかという印象を受けるのだ。実は私たちは、わずらわしい日常にうもれてい
   るからこそ、人間性をまとっていられるのかもしれない。
    科学技術が発達し、身の回りが便利な人工物で埋めつくされることは、生活の
   煩雑さを解消してくれるとともに、私たちの文化的な「まとい」をはぎ取ること
   につながるのかもしれない。行き着く先は、「裸のサル」ということになる。・
   ・・(中略)・・・。
   原始、裸のままで生活していた人間にとって、衣服がまず最初に考えついた人
   工物の一つであったに違いない。それなりに一人一人が工夫をこらしたそれらは、
   単に寒さや雨・露をしのぐという機能にとどまらず、個性をアピールする意匠と
   し て、自己表現の重要な手段となった。「私」というものを表すために、環境
   を改造することを学んだのである。
   以来、人々は加速度的に自己実現をめざして外界への働きかけの度合いを強め
   ていった。だが、自らの身体の外側に自分というものの存在を刻みすぎると、一
   種の「ドーナツ化現象」が生じ、その結果として、人間が「ひとり」と呼ばれる
   存在から、「一匹」になってしまうのだとすれば、何という皮肉な結果だろう。
          (正高信男『考えないヒト』中公新書、みすず書房、pp.iv-vii)

   ●自分が知らないものを生きるのが人生だ。人はだから考える。
   「どうすれば考えられるのですか」。何かマニュアルみたいなものがあると思
   うのだろう。パソコンを開いて、問いを打ち込めば、答えは即座に返ってくる。
   問いと答えはそのような関係にあると思っているのだ。答えのない問いを考える
   ことが、考えることだ。そう言っても、にわかには理解しないのは当然である。
   世の中これだけ情報が溢れていても、本当に必要なことを、誰も知らない。ケ
   ータイ情報の扱い方を知ってはいても、本当に必要なこと、人生の一大事、自分
   や家族の生きるか死ぬか、そんな時どうすればいいのかは、誰も知らないのだ。
   そしてうろたえ、互いに問いかけ合っている。「私は、我々は、どうすればいい
   のでしょうか」。
   むろん私だって、私は、我々は、どうすればいいのかを知らない。知っている
   わけがない。人生とは、それ自体が、知らないものを生きることだからである。
   それが何なのか、それがどうなるのか、自分が知らないものを生きるのが人生で
   ある。しかし、知らないのでなければ、どうして人は考えるだろうか。知らない
   からこそ、考えるのだ。(池田晶子『人間自身考えることに終わりなく』新潮社、
   pp.66-67)

   ●依存性について
   依存性は、日本社会を理解するための鍵概念でありながら、ほとんどまったく
   研究されていない。私は、心理学者ボーンスタインや、人格障害理論の国際的権
   威であるテオドア・ミロンの「依存性人格障害」のとらえ方を読むにつれ、欧米
   の心理学・精神医学のなかでの依存性の規定が日本に十分紹介されていないこと
   を非常に残念に思った。
   彼らが考える依存性の心理の根本は何か。それは「自信のなさ」である。依存
   性の高い人々は自らをいわば半人前と考え、一人では何もできないと考えている
   ので、誰かと一緒にいることによってその不安をはらそうとする。それは、用も
   ないのに人の後について回る金魚のフンのような行動になったり、始終集団で群
   れていたり、ひっきりなしにケータイをとりだしては他人とコンタクトしていな
   いと不安になる、というような形で現れる。
   依存性の高い人々の特徴は徹底的な無責任さである。「自分には物事に対する
   責任があって、それを果たすために何事かをなさなければならない」というプレ
   ッシャーに彼らはほとんど耐えることができない。そのために彼らがとる自衛策
   というのは、決して誰からも期待をかけられないように「その他大勢の平凡な一
   人」に埋没しきることである。(矢幡洋『危ない精神分析』亜紀書房より)

   ●人間にとって、その対象が敵か味方かを見分ける指標
    「人間にとって、その対象が敵か味方かを見分ける指標はたった一つだと僕
    は思ってるんだ。水に対して親和的か否か、それだけだと思う。たとえば僕た
    ちの会社が作っているコンピュータや半導体にとって水は大敵だろう。車にし
    ても家電製品にしても、金属や化学物質を使用したものは全部そうだし、電気
    や磁気のたぐいも同じだ。そういった水を嫌うものは基本的には僕たち人間の
    敵なんだ。一方で植物や動物、土や空気、そして海は人間にとって本質的に善
    だと思う。だから、水を嫌う製品を産みだす仕事をしている僕らのような人間
    は、よほど気をつけて仕事を進めないと、人々のためになっているつもりで、
    実は、人類に害をなすことをやらかしている可能性がある。そこはほんとうに
    用心しないといけない、と僕はいつも肝に銘じているんだ」 (白石一文氏著
    『私という運命について』、角川書店、pp.21-22)

   ●われわれの脳は忘却が得意になる。
    オンラインで毎回われわれが受け取る大量の競合し合うメッセージは、作動
    記憶に負担をかけるだけではない。前頭葉がひとつのことに集中することを、
    きわめて困難にもするのだ。記憶を固定化するプロセスは、開始すらされない。
     それに、またしても神経回路の可塑性のおかげで、ウェブを使えば使うほど、
    われわれは脳を注意散漫の状態にしていくのだ。きわめて高速かつ効率的に情
    報を処理してはいるけれど、何ら注意力を維持していない状態に。コンピュー
    タから離れているときでさえ、集中するのが難しくなったという人が増えてい
    る理由は、このことによって説明できるだろう。われわれの脳は忘却が得意に
    なり、記憶が不得意になっている。実際のところ、われわれがウェブの情報に
    どんどん頼るようになっているのは、自己継続的で自己増幅的なループに陥っ
    た結果であるのかもしれない。ウェブを使えば使うほど、情報を生物学的メモ
    リーにロックしておくのは難しくなる。するとわれわれは、大容量で検索の容
    易なネットの人工的メモリーに、ますます頼らざるをえなくなる。それによっ
    てわれわれが、浅い思考者になるのだとしても。(ニコラス G. カー『ネット
    ・バカ』篠儀直子訳、p.267、青土社)

   ●コンピュータと検索エンジンは「楽な道」を勧める。
    検索エンジンなどの自動情報フィルタリング・ツールは人気増幅器として機
    能するのであって、どの情報が重要であり、どの情報がそうでないかについて
    のコンセンサスをただちに確定したあと、それを補強しつづける傾向にある。
    そのうえ、「紙媒体時代の研究者」が雑誌や書籍のページをめくりながら、当
    たり前のこととして拾い読みしていた「周縁的関連論文の多く」を、ハイパー
    リンクをたどることの容易さゆえ、オンライン時代の研究者は「飛ばしてしま
    う」のである。「普及している意見」をすみやかに発見できるようになったこ
    とで、学者たちは「それに追随してしまい、論文の参照をあまり行なわなくな
    る」のではないかとエヴアンズは言う。ウェブ検索よりもはるかに効率が悪い
    とはいえ、昔ながらの図書館での調査はおそらく、学者たちの地平を広げるこ
    とに寄与していただろう。「印刷物を拾い読みしたり熟読したりすることで、
    研究者は次々関連論文へと引き寄せられた。このことは幅広い比較を促進し、
    研究者を過去へと導いていたかもしれない」。楽な道は必ずしも最良の道では
    ないだろうが、コンピュータと検索エンジンがわれわれに勧めているのは楽な
    道なのだ。(ニコラス G. カー『ネット・バカ』篠儀直子訳、p.299、青土社)

   ●「注意散漫」は「共感や同情など」を経験できなくしてしまうかもしれない。
    穏やかで注意力ある精神を必要とするのは、深い思考だけではない。共感や
    同情もそうなのだ。人々がどのように恐怖を経験し、どのように物理的脅成に
    反応するか、心理学者たちは長らく研究しているが、われわれのより気高い本
    能の源についての研究が始まったのは、ごく最近のことである。そこでわかっ
    てきたことは、 USCの脳・創造力研究所所長のアントニオ・ダマンオの説明に
    よれば、より高度な感情は、「生得的に緩慢な」神経プロセスから生じるとい
    うことだ。・・・(中略)。
     肉体的苦痛に対しては、脳は非常にすばやく反応するーー誰かがケガをする
    のを見ると、脳内の痛覚中枢はほとんど即座に活性化されるーーのに対し、心
    理的苦痛に共感するというもっと複雑な精神的プロセスは、はるかに緩慢に展
    開されることが明らかになった。脳が「身体の直接的関与を超越」して、「状
    況の心理的・道徳的側面」を理解し、感じはじめるには、時間がかかるという
    ことがわかったのだ。
    研究チームの言によれば、この実験が明らかにしているのは、注意散漫にな
    ればなるほど、われわれは最も微妙で、最も人間独特のものである感情形態、
    すなわち共感や同情などを、経験できなくなっていくということである。研究
    チームのメンバーのひとり、メアリ・ヘレン・イモルディーノ=ヤンは次のよ
    うに警告する。「ある種の思考、とりわけ他者の社会的・心理的状況に関する
    道徳的決定を行なうためには、充分な時間と考察が必要とされる。事態があま
    りに速く進んでしまった場合、他者の心理的状況にまつわる感情を、充分に経
    験できない可能性がある」。インターネットがわれわれの道徳感覚を損ないつ
    つあるという結論に飛びつくのは性急だろう。だが、ネットがわれわれの生命
    の水路を作り変え、思索能力を減少させるにつれ、思考のみならず感情の探さ
    もが変化しつつあるかもしれないと述べるのは性急ではあるまい。(ニコラス
    G. カー『ネット・バカ』篠儀直子訳、pp.302-303、青土社)

  我が愛読者諸氏、最後まで充分に読んで下さいましたか?  ニコラス G. カー氏は
  いわゆる『ネット・バカ』になると長文がきちんと読めなくなるし、とびとびに読
  んでしまって、結局は何も覚えてないしもちろん理解などできようはずがないと言
  う。さらにそれに伴う「注意散漫」は「共感や同情など」最も微妙で、最も人間独
  特のものである感情形態(共感や同情など)を経験できなくしてしまうかもしれな
  いと熱心に警告する。
   全ての結論は、高度情報社会・IT社会・ネット社会を実際に経験している皆様方に
  委ねるとして、拙者は皆様の大事な脳がコンピュータ(・ゲーム)、ケータイ、IT
  社会、ネット依存などで(既に)破壊され(て)ないよう心から祈っております。
  ではごきげんよう。 敬具
   平成22年10月16日(明日はせっかくの日曜が台なしになってしまうという日)
                                                鳥越恵治郎拝

  PS. おー、そこの中学生以下のお子さんをもったお母さん。早くから無闇に子ども
    にコンピュータや携帯電話やスマートフォンを買い与えるものじゃありません
    ぞ。