第17話:「共謀罪の恐怖」
【共謀罪の恐怖】
 今国会で、何が審議されているか。
 殆どファシズムと言って過言ではない小泉政権は、かつての世にも
恐ろしい”治安維持法”(1925年3月19日成立)の再来とでもいうべき
”共謀罪創設”に向かって邁進している。この「共謀罪」は、その運
用によっては憲法の保障する国民の自由と権利を不当に制限してしま
う可能性を十分に有している。
 このほどあるML上で、分かりやすい共謀罪のシミュレーションが紹介
された。「共謀罪の恐怖」を知るのにとても便利と考え、ここに第24話
として掲載する。読者各位が権力というものの横暴さを改めて想起して
下されば幸いである。

         ゴールドシュタイン2006
        ――共謀罪シミュレーション――

  土曜の早朝、彼らはとつぜんやってきた。
  「なんですか、こんな朝早くに……」
  「警視庁です。家宅捜索令状が出ています
  「家宅捜索って……いったい私たちが何したって言うんですか?」
  「組織的威力業務妨害の共謀容疑です。中に入れてください。ご
  近所はまだ寝ています。ここで押し問答もなんですから、中に入れ
  てくれませんか」。
  玄関口に出ていた私と妻は、何が何だかわからないまま、彼らを中
 に入れた。
  「鈴木大輔さんと奥さんの智子さんですね。最寄りの警察署に任意
  でご同行願えますか」。
  「子どもは……子どもがいるんですが」。
  生まれて初めて令状というものを見せられた私は眠そうに目をこす
 りながら怪訝そうな顔をしているまだ小さな娘の方を振り返りながら
 そう言うのが精一杯だった。
  「お子さんは私どもの婦警がお世話させていただきます」。
  「あの……ソシキイリョクなんとかって……どういうことなんです
  か」。
  「向かいの国立細菌戦防疫研究所の建設予定地で座り込む計画を立
  ててましたよね」。
                       ★
  初めて入る警察の取り調べ室はテレビのドラマで見るのとよく似た
 感じだった。
  「あの、妻と一緒にはならないんでしょうか?」
  「奥さんには別の部屋でご協力いただいています。私は警視庁公安
  部の平田です。すみませんねえ、お休みにご足労いただいちゃって」。
  ずいぶん丁寧な刑事だ。この相手ならば話が通じるかも知れない。
  「どうですか、お仕事の方は。課長さんともなるとお忙しいんでし
  ょう?そうそう、区役所から受注している業務システム・プロジェク
  トの責任者でいらっしゃるんでしたよね。納入期限も近いし、そろそ
  ろ追い込みですか」。

  仕事のこともすっかり調べ済みらしい。気がつかないうちに警察が
 職場に行っていたのかもしれない……そう思うと不安が襲ってきた。
  「あの、弁護士を呼びたいんですが……」
  「弁護士? お知り合いがいるんですか?」
  「いえ、いませんが、たしか弁護士会に頼むと派遣してくれるはずじゃ……」
  「派遣はしてくれますがね。どうしてもご希望なら連絡しますよ。
  でも、これは鈴木さんのために申し上げるんですが、秘密を守ってく
  れる、信頼できる弁護士さんをご存じですか? 大丈夫ですか。職場
  とか隣近所の関係とか。私たちは公務員ですから守秘義務があって皆
  さんのプライバシーは必ず守りますがね、弁護士さんっていうのは人
  によっては人権侵害だ、弾圧だと大騒ぎして社会問題にしたがる人も
  いるんですよね。特に当番弁護士になる人にはそういうタイプの人が
  多くて……。中には近隣に署名板まわす人までいますからね。どうし
  ます、当番弁護士に連絡しますか?」
  「……いや、やめておきます」。
  「ご希望にならないんですね」。
  「はい」。
  「わかりました。ではご希望はなかったということで。ところで、お
  子さん、愛ちゃんですか、かわいいさかりですな。すごいですね、国
  立大学の附属幼稚園ですか。環境もいいところにあるし」。
  娘の幼稚園にまで行ったのか!
  「あの、私たちはいつ頃帰れるんでしょうか……」
  「ご心配なく。夜は児童養護施設もありますから。お子さんのことは
  我々で責任もって面倒を見ます」。
  「そんな! 私たちは何も悪いことはしてませんよ!」
  「してないですか? 本当に?」
  「あの、その、さっき別の刑事さんが向かいの細菌研のことだって言っ
  てましたけど、たしかに測量調査の抗議活動はしようっていう話はしま
  したけど、話し合っただけでまだ実際にやったわけではないし……」
  「共謀罪、聞いたことありませんか?」
  「キョーボーザイ?? いいえ……」
  「来週の月曜、測量調査が来たら本当にやるつもりだったでしょう?
  座り込みしてでも阻止しようと」。
  「……やってなくても罪になるんですか?」
  「組織犯罪処罰法違反になります。2年以下の懲役または禁錮です」。
  「そんな! 何も実際にはしてないんですよ」。
  「同じマンションの5階の山田さん、ご存じですよね。山田さんの部屋
  からプラカードが押収されましてね。これは『実行に資する行為』と言
  いまして、何もしていないことにはもうならないんです」。
  「私がやったわけではないのに?」
  「誰かが準備を始めれば。全員アウトです」。
  「でも、組織犯罪って言ってましたけど、別に私は犯罪組織に参加して
  いるわけではありません。それでもダメなんですか!」
  「犯罪組織でなくても、組織的な犯罪はできますよ。団体であればいい
  んです」。
  「裁判が、裁判があります。裁判官がこんな滅茶苦茶、信じるわけがあ
  りません! 私たちはただのマンション管理組合や町内会の集まりです。
  組織犯罪処罰法なんて法律を裁判所が認めるなんて、そんなことがある
  はずが……」
  「その中に、テロ集団が紛れ込んでいたとしたら、裁判所はどう思いま
  すかね?」
  「テロ集団?」
  「人民党――聞いたことありませんか」。
  「ジミントウですか?」
  「ジンミントウです。まだ世間には知られていませんが、国外のイスラ
  ム過激派とつながっている国際的テロ組織で、密かに勢力を拡大してい
  るのを私たちはつかんでいます。3階の大村教授、ご存じですよね」。
  「ええ、知っています。今度の運動のリーダーですから」。
  「大村教授が人民党のメンバーだったら、どうします?」
  「えっ! 本当なんですか」。
  「もしあなた方の運動が、実は背後から人民党に操られている運動だと
  したら、裁判所はどう思うでしょうか?」
  「そんな馬鹿な……知らなかった……いったい……どうしたら……」
  「もちろん、我々もあなたのような方が犯罪組織に属しているとは思っ
  てません。ご家族のことが心配で、守りたかった、ただそれだけのこと
  なんでしょう? お気持ちはよーくわかりますよ」。
  「そうなんです! 細菌戦の研究をする研究所が住宅地のど真ん中にで
  きなんて……実験動物が逃げ出したり、テロで爆破されたりしたら、い
  ったいどうなるのかと……苦労して手に入れたマンションや土地の値段
  も下がるし……私たちはただ生活を守りたかっただけなんです!」
  「お気持ちはよーくわかります。しかし、法律をやぶってはいけません。
  もちろん、皆さんには思想・信条の自由があります。心の中で反対する
  ことは自由です。しかし、行動に移したらもう心の中ではないですよね。
  他人と話しあうってことは、行動に移したってことなんですよ」。

  頭のなかがぐるんぐるんとまわりだした。いったいどうすればいいのか。
 犯罪者になれば仕事もクビになる。マンションのローンも払えなくなる。
 仕事を失い家を失えばホームレスだ。子どもは犯罪者の娘としていじめら
 れるだろう。せっかく入った幼稚園にも居られなくなる。
  「困ります! 何にもしていないのに懲役2年なんて、困ります!何と
  かなりませんか?」
  「道がないことは、ありません」。
  「あるんですか! 何か方法が? どうしたらいいんですか?!」
  「捜査へのご協力しだいです」。
  「協力って?」
  「証言していただけませんか?」
  「証言って……そしたら罪を認めることになっちゃうじゃないですか」。
  「共謀罪には『自首すれば刑が減免又は免除される』という規定があり
  ます。あなたの場合は、もちろん自首ではありません。なにしろ、捜索
  令状が出ているんですからね。が、この規定は重大な犯罪を未然に防ぐ
  ためにあります。事件の防止に役立つ証言をしていただければ、この規
  定の趣旨にかんがみて、検事が不起訴にするよう、なんとか話をつける
  ことも、できない相談ではありません。私が責任をもって担当検事から
  不起訴の約束をとりつけましょう」。
  「お願いします! 何でも協力しますから!」
  「では、証言してくれますね」。
                       ★

   『 国際テロ組織が細菌戦防疫研究所の建設を妨害
                         住民団体に潜入し組織工作 』

  新聞各紙の1面トップに大きな見出しが踊ってからそろそろ1年になる。
  警察が毎日守ってくれたので幸い取材攻勢にはあわなくて済んだが、ワ
 イドショーは連日大騒ぎとなった。
  結局、起訴になったのは大村教授と、マンション管理組合や自治会の会
 長、最後まで否認した数人の人々だけだった。否認した人たちの中には、
 キリスト教や他のいくつかの宗教の信者たちが多かった。運動に参加した
 他の多くの人々は、証言することと引き替えに不起訴となった。不思議な
 ことに最初に警察に通報したという独身者は裁判で証言しな かったがこ
 の人物も不起訴となった。この人物は引っ越してきたばかりだったが、事
 件のあとまたどこかへ引っ越していった。
  私もその後、けっきょくマンションから引っ越した。向かいに細菌研が
 来ることもあったが、しかし、人間関係の問題が大きかった。それまで仲
 良くやっていた隣近所の関係がうまくいかなくなったのだ。
  皆、お互いに言葉を交わすことを避けるようになった。言葉を交わして
 もギクシャクしてしまい、昔のようにはいかない。何かが変わってしまっ
 たのだ。
  それだけではない。私の中の何かが変わってしまった。何かを信じられ
 なくなってしまったのだ。
  私は、家族を守るために、言われるがままに証言をした。大村教授から
 「人民党」への加入を誘われたとも証言した。いつどこで、と聞かれると
 実ははっきり覚えていないが、他の住民達もそういう勧誘を受けたと供述
 していると刑事から聞かされるうちにそういうことがあったような気がし
 てきたのだ。だから、はっきり覚えていないだけで、嘘をついたわけでは
 ない。
  何も知らない住民をだましてテロ組織に入れようとするなんて、大村教
 授という人物はまったく許し難い。警察が教えてくれなければまったく気
 がつかないところだった。私たちの証言だけで、他に証拠がないと言って
 もテロ組織がそんな簡単に証拠を残すはずもない。
  私は正しいことをしたのだ。
  しかし――証言のときに法廷でつい見てしまった被告達のあの眼差しを
 なぜか忘れることができない。
  「なぜ嘘をつくの?」――彼らの眼はそう言っているように思えた。
  そして、娘のつぶらな瞳のなかに、二重映しで彼らのあの眼差しを感じ
 る時、私はいい知れぬ恐怖を覚えるのだ。
  あれから、妻はわたしと目を合わそうとしない。
  生活の表には、あのとき以前とそっくりな、穏やかな日常の時間が流れ
 ている。けさも、娘を急かす妻のあっけらかんとした声が響く。そうだ、こ
 の空間を守るために、妻とわたしはすべきことをしたのだ。なのに妻は、
 わたしと目が合いそうになると、かすかに視線をそらす。わたしもだ。お
 たがい、どこまでも明るい声で、思いやりのあることばを交わしながら。
 妻とわたしの心の奥底で、なにか取りかえしのつかないことが起こってし
 まったのだろうか。だとしたら、この守るべき空間はいつまで守るべき空
 間でありつづけるのか。
  私は家族を守るために正しい選択をしたはずだ。だが、ひとりぼっちに
 なってしまったように思えてならないのはなぜだろうか。

  ※注記:
  (1)作中、弁護士が秘密を守らないかのように刑事が心理戦をしかける
    くだりがあるが、弁護士は職務上の秘密を守ることを義務づけられ
     ている。日本の刑事司法では取り調べの段階で弁護士の立ち会いが
     認められず、ビデオ録画もなされない。警察署の留置場に長期間閉
     じこめられる代用監獄制度と並んで、冤罪の温床として問題となっ
     ている。実行行為を伴わなくてすむ、従って物証がなくても立件さ
     れてしまう共謀罪では、取り調べにおける供述誘導がもたらす危険
     性はとても高い。
  (2)ゴールドシュタインとは、ジョージ・オーウェルの小説『1984
     年』に登場する反政府組織のリーダー。じつは政府の嘘で実際には
     存在しない。
   作中、大村教授が人民党のメンバーかどうか、本当はわからないこと  
  に注意。それどころか、人民党なる組織が本当に存在するのかどうか自  
  体、わからない。

   参考資料への入り口
     http://kyobo.syuriken.jp/link.htm


                     平成18年5月9日 鳥越恵治郎