第16話:「えっ、憲法第九条を変えるって? 冗談でしょ」
【えっ、憲法第九条を変えるって? 冗談でしょ】
   ”九条の改正笑ひ言ふ議員 このちんぴらに負けてたまるか”
   (歌人・文芸評論家岩田正氏作、出典は辺見庸氏著『いまここ
    に在ることの恥』毎日新聞社、p.105より)

 実際のところ”ちんぴら”どもが何を考えているのか。タイムリーに
斎藤貴男氏著『ルポ 改憲潮流』(岩波新書)の中にそれを示唆する
文言が載っていた。

  テキスト(筆者注:『全訂憲法学教室』、日本評論社、2000年)
 の著者である浦部法穂・名古屋大学教授(1946年生まれ)は、衆参
 両院の憲法調査会にも参考人として招かれている。憲法学の泰斗の
 目に、国会議員たちはどう映ったか。
  「憲法というのは権力を縛るものなのだという発想をまったく持
 ち合わせていない議員が少なくない現実に、唖然としました。考え
 方の以前に、知識そのものがない。憲法の本質を何もわかっていな
 いのです。国会議員は国民に託されて権力を行使しているのだとい
 う意識がまるで感じられない。自分たちが国民を支配するのだとい
 う発想しかないように思われてなりません。まじめな話、国会議員
 の立候補者たちには憲法の試験を受けさせないといかん、と思いま
 す。
  彼らは変な自信を持ってしまっている。実際、特にここ数年、法
 律を作る時でも、憲法違反かどうかなど、まるで顧みられていない。
 要するに憲法も法律も何もわかっていない連中が、やりたい放題に
 やっている。そんな時代に入ってしまったということです」。
  浦部教授は淡々と国会の実態を語った。(斎藤貴男氏著『ルポ
 改憲潮流』岩波新書、pp.52-53)  

  小林節・慶應義塾大学教授(筆者注:改憲から護憲へ”変節”)
 の言葉が想起された。
  「自民党の二世、三世たちというのは、一億三千万人の国民が残
 るなら、三千人の部隊の消耗は必要コストのうちだという、こうい
 う感覚があるんだよ。間違って侵略戦争をする方が、侵略されて滅
 びるよりはいい、とかね。どこまでも自分は死なない、ゲーム感覚
 なんですね。私自身は金持ちの子でも何でもないのに、一緒になっ
 て言っていたわけだから、よくわかる。
  私も、しかし、年を取ってわかってきたんです。人間の命の重み
 をね。二十歳になった娘のことなどを考えると、自分や自分の肉親
 が、あの砂漠で戦車に破滅されて、生き埋めになったり火炎放射器
 で焼かれたりしたら、と。一つの命は一つの歴史なんだって。大学
 は教授にならないと人間じゃないところ。娘が生まれた頃、幼い頃
 の私は、そのための条件作りに明け暮れていて、わからなかったん
 ですよ」
  世襲議員たちのインナーサークルで活動してきた人の証言は、そ
 れだけに生々しい。それにしても、の思いが募った。(斎藤貴男氏
 著『ルポ 改憲潮流』岩波新書、p.65)

        <戦争体験者からの貴重なメッセージ>
    古山さん(古山高麗雄氏、2002年没)が対談の別れ際に語っ
   た言葉が、私の中によみがえってきた。「保阪さんが保阪さん
   の年に生まれたというのは、これも良い運です。しかし、あの
   戦争があったためにいろいろよかったことがあるかもしれませ
   ん。もしあの戦争がなくて、あの軍隊が今も存続していたら、
   この国はどうなっていたでしょうね」。私たちの世代は−ーそ
   して兵士のひとりひとりはーー、軍隊をなくするための捨て石
   になった、それに満足している、というメッセージだったので
   ある。(保阪正康氏著『昭和の空白を読み解く』講談社文庫、
    p.94)
 
 2003年12月26日、ついに自衛隊空軍はイラクへ向けて出兵の先陣を
きった。こうなる前、先の衆議院議員選挙ではイラク出兵は争点から
かき消されていた。12月8日「二度と戦争を引き起こさない」という
大事な日は、言論統制に屈したマスコミがだんまりを決めこんだ。
外務省役人が殺された(イラク軍がやったのか、アメリカ軍の誤射な
のか?)とき弔辞を読んだ戦争首相小泉純一郎は得意のパーフォーマ
ンスで絶句した。その後は一気呵成に「遺志を継げ」だの「テロに屈
してはならない」だのと提灯発言、提灯記事があふれた。
 軍靴の足音がきこえる。平和の塔がガラガラと音をたてて崩れ、平
和の誓いが踏みにじられてゆく。過去に学ばない愚かな権力は再び国
民を悽惨な戦火の中に放り込もうとしている。
 「戦争」は国家権力に群がる化物や偏執狂どものオモチャである。
犠牲者は全てその対極に位置(カネなしコネなし権力なし)するおと
なしい清廉で無辜で夢と希望に満ち溢れた若い国民(平民)。私たち
は決して戦争を仕掛けてはならないことを永遠に肝に銘じておいたは
ずではなかったか。
 そもそも国家権力というものは国民から際限なく血(戦争で流す血)
と汗(労賃に課す重税)を搾取する”大きな災い”だ。そして現行の
日本国憲法はその権力の暴走を封じ込めるための金科玉条だ。権力の
国民に対する行き過ぎた横暴にしっかりと箍(たが)をはめているの
だ。私たちごまめの国民(平民)は今試されている。権力という”大
きな災い”を駆逐する能力の有無を試されている。
 その試金石の第一は憲法第九条改定問題だ。もしごまめの国民が、
浅はかな思慮とマスコミの扇動にのって、憲法第九条の改悪にこぞっ
て同意し、”戦争放棄”を捨て彼我に対する暴力装置(戦争)を”大
きな災い”に持たせるようなことが出来したなら、我々おとなしい羊
たちは、あの忌まわしい昭和10年代のごとく再び血と汗を徹底的に絞
り盗られることになる。作家辺見じゅん氏は以下のように警告する。
我々は真摯に受け取りあらかじめ”戦争反対・戦争協力拒否”につい
て熟慮しておかなければならない。
 
  誰しも戦争には反対のはずである。だが、戦争は起きる。現に、
 今も世界のあちこちで起こっている。日本もまた戦争という魔物に
 呑みこまれないともかぎらない。そのときは必ず、戦争を合理化す
 る人間がまず現れる。それが大きな渦となったとき、もはや抗す術
 はなくなってしまう。(辺見じゅん氏著『戦場から届いた遺書』
 文春分庫、p13)
 
 権力は一気にはことを運ばない。一体どのように画策するのか。示
唆に富むエピソードがある。かつてドイツでヒトラーの独裁体制が暴
威を振るったが、ナチスが権力を獲得していく過程を、後にニーメラ
ーという牧師が回想して語った有名な話がある。
 
  「ナチスが共産主義者を襲ったとき、自分は少し不安であったが、
 自分は共産主義者ではなかったので、何も行動に出なかった。次に
 ナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社
 会主義者ではなかったから何も行動に出なかった。それからナチス
 は学校、新聞、ユダヤ人などをどんどん攻撃し、そのたび自分の不
 安は増したが、なおも行動に出ることはなかった。それからナチス
 は教会を攻撃した。自分は牧師であった。そこで自分は行動に出た
 が、そのときはすでに手遅れだった」(ニーメラーのエピソードは、
 丸山眞男「現代における人間と政治」『丸山眞男集』第9巻、岩波
 書店、1996年で紹介されている)
 
 もうすでにイラク戦争反対のビラを配っただけで、微罪にこじつけ
て逮捕・起訴してしまうという恐ろしい事態が始まっている。(吉田
敏浩氏著『ルポ 戦争協力拒否』岩波新書、p.183-185)
 日本の良識ある国民よ。決して戦争という手段を権力に復活させて
はならない。憲法第九条を一字一句変えさせてはならない。以下、筆
者の収集した戦争の暗澹たる底意と悲惨さを順不同、怒りの赴くまま
に列挙する。どうか豊かな発想・想像力をもって実感し、戦争の愚か
さを熟知し、こぞって憲法第九条改悪に反対して欲しい。
 
           ★<人間の屑と国賊>★
  人間の屑とは、命といっしょに個人の自由を言われるままに国家
 に差し出してしまう輩である。国賊とは、勝ち目のない戦いに国と
 民を駆り立てる壮士風の愚者にほかならない。(丸山健二氏著『虹
 よ、冒涜の虹よ<下>』新潮文庫、p46)
 
       ★<軽蔑する人たちは>(吉本隆明)★
  ぼくの軽蔑する人たちは戦争がこやうと平和がこやうといつも無
 傷なのだ。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p618か
 らの孫引き)
 
      ★<戦争は大資本家や大地主の金儲けのため>★
  恥ずかしいことだが、今までおれは戦争は台風のように自然に起
 こるものだとばかり思っていたが、とんでもないことだった。戦争
 は大資本家や大地主の金儲けのためだったのだ。直接の仕掛人は軍
 隊だが、彼らはそのうしろで巧妙に糸を引いていたのだ。表面では
 「聖戦」だの「東洋平和のため」などともっともらしいことを言い
 ながら、その実、戦争は願ってもない金儲けの手段だったのだ。そ
 う言われれば、おれの乗っていた武蔵の場合にも、それがそのまま
 当てはまる。
  武蔵は三菱重工業株式会社長崎造船所でつくった艦だが、むろん
 あれだけの大艦だから、請け負った三菱はきっとしこたま儲けたに
 ちがいない。おそらく儲けすぎて笑いがとまらなかったろう。しか
 もそれをつくった三菱の資本家たちは誰一人その武蔵に乗り組みは
 しなかった。それに乗せられたのは、たいていがおれのような貧乏
 人の兵隊たちだったのだ。そしてその大半は武蔵と運命を共にした
 が、おれたちがシブヤン海で悪戦苦闘している間、三菱の資本家た
 ちは何をしていたのか。おそらくやわらかな回転椅子にふかぶかと
 腰を沈めて葉巻でもふかしながらつぎの金儲けでも考えていたのに
 違いない。(渡辺清氏著『砕かれた神』(岩波現代文庫)、p.247
 -248)
 
   ★<斎藤隆夫『支那事変の処理方針に関する質問演説』>★
     (昭和15年2月2日、第75帝国議会、午後3時~4時30分)
     (斎藤隆夫:立憲民政党代議士、兵庫県但馬選挙区)
  ・・ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、
 曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、か
 くのごとき雲をつかむような文字を並べたてて、そうして千載一遇
 の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたなら
 ば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことはできない。・・
 (『20世紀、どんな時代だったのか』(戦争編、日本の戦争)
                    読売新聞社編より引用)
 
        ★<ひっ殺してゆけと言った>★
  私の連隊である戦車第一連隊は戦争の末期、満州から連隊ごと帰
 ってきて、北関東にいた。東京湾や相模湾に敵が上陸すれば出撃す
 る任務をもたされていたが、もし敵が上陸したとして、「われわれ
 が急ぎ南下する、そこへ東京都民が大八車に家財を積んで北へ逃げ
 てくる。途中交通が混雑する。この場合はどうすればよろしいので
 ありますか」と質問すると、大本営からきた少佐参謀が、「軍の作
 戦が先行する。国家のためである。ひっ殺してゆけ」といった。
            (司馬遼太郎氏著『歴史の中の日本』他)
 
         ★<「散華」(さんげ)>★
  「散華」とは四箇法要という複雑な仏教法義の一部として、仏を
 賞賛する意味で華をまき散らす事を指す。軍はこの語の意味を本来
 の意味とは全く懸け離れたものに変え、戦死を「(桜の)花のよう
 に散る」ことであると美化するために利用したのである。
      (大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)
 
     ★<”ごまめ”の一兵卒はいつも空腹なのだ>★
  糧食の給与を受けることが出来ないので、この次の兵站部へ行く
 ことを急いで、午前八時頃に舎を出かけ三道溝の糧餉部へ行ったが、
 ここは取次所で分配出来ぬとにべもなくはねつけられ、仕方なくな
 く吸足(びっこ)を引きずった。・・・
  稷台沖まで来たら糧餉部があったから給与を願ったら、酔顔紅を
 呈した主計殿と計手殿がおられて、糧食物はやられぬが米だけなら
 渡してやろうとの仰せありがたく、同連隊の兵三名分一升八合の精
 米を受領証を出してもらい受け、敬礼して事務室を出たが、その時
 にカマスに入った精肉と、食卓の上のビフテキ、何だか知らぬが箱
 入りの缶詰をたくさん見た。あれは何にするのであろう。飾ってお
 くのかしらん。一同が今日六里ばかりの行軍に疲れたので、舎を求
 めて夕食を食べるとすぐに寝た。(茂沢祐作氏著『ある歩兵の日露
 戦争従軍日記』草思社、p.168)
 
           ★<「少国民世代」>★
  「少国民世代」などとも呼ばれるこの世代は、敗戦時に10歳前後
 から10代前半であった。敗戦時に31歳だった丸山(筆者注:丸山眞男)
 など「戦前派」(この呼称は丸山らの世代が自称したものではなか
 ったが)はもちろん、敗戦時に25歳だった吉本など「戦中派」より
 も、いっそう戦争と皇国教育に塗りつぶされて育ったのが、この「
 少国民世代」だった。
  1943年の『東京府中等学校入学案内』には、当時の中学校の面接
 試験で出された口頭試問の事例として、以下のようなものが掲載さ
 れている。
   「いま日本軍はどの辺で戦っていますか。その中で一番寒い所
  はどこですか。君はそこで戦っている兵隊さん方に対してどんな
  感じがしますか。では、どうしなければなりませんか」。「米英
  に勝つにはどうすればよいですか。君はどういうふうに節約をし
  ていますか」。「日本の兵隊は何と言って戦死しますか。何故で
  すか。いま貴方が恩を受けている人を言ってごらんなさい。どう
  すれば恩を返す事ができますか」。
 
  こうした質問は、児童一人ひとりに、君はどうするのかという倫
 理的な問いを突きつけ、告白を迫るものだった。
    (小熊英二氏著氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p657)
 
         ★<戦時体制下の思想弾圧>★
  日中戦争の長期化は国内の戦時体制強化を促し、戦争に対して非
 協力的であったり、軍部を批判する思想・言論・学問は弾圧・排除
 の対象となった。日中戦争勃発四カ月後の1937年11月には、ヨーロ
 ッパの反ファシズム人民戦線運動を紹介した中井正一らの『世界文
 化』グループが検挙され、『世界文化』は廃刊となった。翌12月、
 コミンテルンの人民戦線戦術に呼応して革命を企図しているとして、
 山川均、荒畑寒村、猪俣津南雄、向坂逸郎ら約400名が一斉検挙さ
 れ、日本無産党・日本労働組合全国評議会は結社禁止となった(人
 民戦線事件)。次いで、翌38年2月には、大内兵衛、有沢広巳、脇
 村義太郎ら教授グループが検挙され、治安維持法違反で起訴された
 (教授グループ事件)。(松井慎一郎氏著『戦闘的自由主義者
 河合榮治郎』社会思想社、p.193)
 
  ★<国家総動員法の恐ろしさ:「国民保護法」の理念とうり二つ>★
   「本法ニ於イテ国家総動員トハ戦時(戦争ニジュンズベキ事変
  ノ場合ヲ含ム)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最ム有効ニ発
  揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」
   ※「国家総動員法」の内容
      国民を好き放題に徴用できる、賃金を統制できる、物資
     の生産・配給・消費などを制限できる、会社の利益を制限
     できる、貿易を制限できる・・・つまり戦争のために国民
     はもっている権利をいざとなったら全面的に政府に譲り渡
     すというもの。
      ・第四条「政府は戦時にさいし、国家総動員上必要ある
           ときは、勅令の定むる所により×××するこ
           とを得る」("×××"の部分は文言が入って
           ない。つまり何でもあり)
      (半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p219)
 
    ★<「国家総動員法」の本質:国民は人的資源だ>★
   Hさんの母親から気がかりなことを聞いた。NHK『日曜討論』
  (2003年6月8日)で、自衛隊イラク派遣の推進者、山崎拓自民党幹
  事長(当時)が、「自衛隊という資源を、人的資源を我々が持って
  る以上、しかもそれに膨大な予算を費やして維持してるわけだから、
  それを国際貢献に使わないという手はないわけで」と、薄ら笑いを
  浮かべながら発言した、と。
   「資源というのは消費するものですよね。人間を資源というの
  はおかしい。自衛官を使い捨てにするような発想が表れていると思
  います」と言う彼女は、我が子の痛ましい死を通して得た鋭敏な直
  覚によって、たとえ比喩であっても裏側にある本音を、小泉政権に
  そして国家そのものに潜む人命軽視の体質を見抜いたのだ。
   そしてHさんの母親から後日、電話があり、「人的資源」という
  言葉が気になって調べたら、それが国家総動員法のなかに出てくる
  のがわかったと知らされた。
   確かに国家総動員法(1938年公布)の第一条には、「本法ニ於テ
  国家総動員トハ戦時(戦争ニ準ズべキ事変ノ場合ヲ含ム以下之ニ同
  ジ)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様
  人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」とある。
   ここでは人間は、人格も意思も認められず「統制運用」される対
  象として物資と一緒くたに扱われている。「人的資源」の発想の源
  は、かつて国民を戦争に駆り立てたあの国家総動員法にあるのだ。
  戦前〜戦中〜戦後を通じて国家の非情な本質は連続性を持つという
  事実を踏まえて、状況を見抜いていかなければならないことを痛感
  する。(吉田敏浩氏著『ルポ 戦争協力拒否』岩波新書(2005年)、
  pp.102-103)
 
       ★<ケタはずれに大きい『絶対悪』の存在>★
   戦後の辻参謀(元陸軍大佐、辻政信)は狂いもしなければ死にも
  しなかった。いや、戦犯からのがれるための逃亡生活が終わると・
  ・・、立候補して国家の選良となっていた。
   議員会館の一室ではじめて対面したとき、およそ現実の人の世に
  は存在することはないとずっと考えていた『絶対悪』が、背広姿で
  ふわふわとしたソファに坐っているのを眼前に見るの想いを抱いた
  ものであった。・・・それからもう何十年もたった。この間、多く
  の書を読みながらぽつぽつと調べてきた。
   そうしているうちに、いまさらの如くに、もっと底が深くて幅の
  ある、ケタはずれに大きい『絶対悪』が二十世紀前半を動かしてい
  ることに、いやでも気づかせられた。彼らにあっては、正義はおの
  れだけにあり、自分たちと同じ精神をもっているものが人間であり、
  他を犠牲にする資格があり、この精神をもっていないものは獣にひ
  としく、他の犠牲にならねばならないのである。・・・およそ何の
  ために戦ったのかわからないノモンハン事件は、これら非人間的な
  悪の巨人たちの政治的な都合によって拡大し、敵味方にわかれ多く
  の人々が死に、あっさりと収束した。
           (半藤一利氏著『ノモンハンの夏』より)
 
  ★<日本軍の毒ガス散布の一例( 尾崎信明少尉の回想記より)>★
   かくて〔敵陣は〕完全に煙に包まれたのである。四五本の赤筒
  (嘔吐性ガス)もなくなった。やがて「突っ込め!」と抜刀、着剣
  ...。しかし、壕の所まで行って私は一瞬とまどった。壕の中は敵
  があっちこっち、よりかかるようにしてうなだれている。こんな
  ことだったら苦労して攻撃する必要もなかったのではないか、と
  錯覚さえしそうな状景だった。しかし、次の瞬間「そうだ、煙に
  やられているんだ。とどめを刺さなきゃ」と、右手の軍刀を横に
  して心臓部めがけて...。グーイと動いた、分厚い綿入れを着てお
  り、刀ごと持って行かれそうな感触。「みんなとどめを刺せ!」
  (中略)遂に敵は全員玉砕と相成った。
     (吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.86-87)
 
  ★<軍隊というのはカルト教団だ
        古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社)>★
   あのみじめな思いは憶えています。軍隊では、人は人間として
  扱われません。そこには権力者が決めた階級があるだけで、戦後
  は、人権がどうの差別がどうのと言うようになりましたが、そん
  なことを言ったら軍隊は成り立たない。福沢論吉は、天は人の上
  に人を作らず、人の下に人を作らず、と言いましたが、とんでも
  ない、わが国の権力者は天ではないから、人の上に人を作り、人
  の下に人を作りました。
   彼らは天皇を現人神と思うように国民を教育し、指導しました。
  その言説に背く者は、不敬不忠の者、非国民として罰しました。
   階級や差別のない社会や国家はありません。天皇が日本のトッ
  プの人であることは、それはそれでよく、私はいわゆる天皇制を
  支持する国民の一人です。けれども、アラヒトガミだの、天皇の
  赤子だのというのを押しつけられるとうんざりします。・・・
   軍隊というのは、人間の価値を階級以上に考えることがなく、
  そうすることで組織を維持し、アラヒトガミだのセキシだのとい
  うカルト教団の教義のような考え方で国民を統制して、陸海軍の
  最高幹部が天皇という絶対神の名のもとにオノレの栄達を求めた
  大組織でした。(p80)
           ・・・・・・・・・・
   あのころ(筆者注:昭和10年代)のわが国はカルト教団のよう
  なものでした。あの虚偽と狂信には、順応できませんでした。思
  い出すだに情けなくなります。自分の国を神国と言う、世界に冠
  たる日本と言う。いざというときには、神国だから、元寇のとき
  のように神風が吹くと言う。アラヒトガミだの、天皇の赤子だの
  と言う。祖国のために一命を捧げた人の英霊だの、醜の御楯だの
  と言う。今も、戦没者は、国を護るために命を捧げた英霊といわ
  れている。
   しかし、何が神国ですか、世界に冠たる、ですか。神風ですか。
  カルト教団の信者でもなければ、こんな馬鹿げたことは言いませ
  んよ。・・・
   戦前(鳥越注:大東亜戦争前)は、軍人や政府のお偉方が、狂
  信と出世のために多数の国民を殺して、国を護るための死という
  ことにした。日本の中国侵略がなぜ御国を護ることになるのかは
  説明できないし、説明しない。そこにあるのは上意下達だけで、
  それに反発する者は、非国民なのです。
   やむにやまれぬ大和魂、などと言いますやなにが、やむにやま
  れぬ、ですか。軍人の軍人による軍人のための美化語、あるいは
  偽善語が、国民を統御し、誘導し、叱咤するためにやたらに作ら
  れ、使われました。八紘一字などという言葉もそうです。中国に
  侵略して、なにが八紘一宇ですか。統計をとったわけではありま
  せんから、その数や比率はわかりませんが、心では苦々しく思い
  ながら調子を合わせていた人も少なくなかったと思われますしか
  し、すすんであのカルト教団のお先棒を担いで、私のような者を
  非国民と呼び、排除した同胞の方が、おそらくは多かったのでは
  ないか、と思われます。(p106)
 
  ★<東部ニューギニア戦線(アイタペ作戦など、S18〜19)>★
    ここは地獄の戦場だった。約16万人が戦死、戦病死。
    (大本営発表では一言も触れられていない)
    ---------------<ある悲しいエピソード>--------------
     私たちはこの見張り所を占拠して、ここから敵の陣地を見
    ることにしました。そこで私たちは一斉に銃を射って、彼ら
    を倒したのです。不意の攻撃ですから、彼らに反撃の余裕は
    ありません。全員を射殺しました。そして、私たちはその見
    張り所に入りこんだのですが、私は大学を卒業していました
    ので、ある程度の英語の読み書きはできます。
     私は、なにげなく机の上のノートを見ました。その兵士は
    すでに死んでいたのですが、まだ二十歳を超えたような青年
    でし た。そのノートに書かれた英文を読むと、「ママ、僕
    は元気に戦場にいます。あと一週間で除隊になりますが、す
    ぐに家に帰ります。それまで皆を集めておいて、私の帰りを
    待っていてください。そのときが楽しみです。・・・」とい
    う文面でした。戦友の中で英語がわかるのは私だけでしたか
    ら、何が書いてあるんだと尋ねられたときも、どうやら報告
    書のようなものらしいと答えて、最後のページを被り、私は
    ポケットにしまいこんだのです。しかしこれをもっていると、
    何かのときに都合がわるいと思って、後にこっそりと焼いて
    しまいました。(保阪正康氏著『昭和の空白を読み解く』講
    談社文庫、p.12)
 
   ★<現地調達:後方思想(兵站、補給)の完全なる欠乏>★
   そもそも大東亜戦争について日本軍部の食糧方針は、”現地自
  給”だった。熱帯ジャングルの豊かさという、今日までつづくひ
  とりよがりの妄想があったのだろう。土地の農民さえ、戦争が始
  まると、商品として作っていた甘蔗やタバコを止めて、自分のた
  めの食品作物に切り換えている。
   食糧が問題であることにうすうす気づいた将校たちが考え出し
  たのは「自活自戦=永久抗戦」の戦略である。格別に新しい思想
  ではない。山へ入って田畑を耕し折あらばたたかう。つまり屯田
  兵である。ある司令官の指導要領は次の如く述べている。
   「自活ハ現地物資ヲ利用シ、カツ甘藷、玉萄黍ナドヲ栽培シ、
  現地自活ニ努ムルモ衛生材料、調味品等ハ後方ヨリ補給ス。ナホ
  自活ハ戦力アルモノノ戦力維持向上ヲ主眼トス」
   この作戦の虚妄なることは、実際の経過が朗らかにしている
  が、なおいくつか指摘すると、作物収穫までには時がかかるが、
  その点についての配慮はいっさい見られない。「戦力アルモノ」
  を中心とする自活は、すでにコレラ、マラリア、デング熱、栄養
  失調に陥った者を見捨てていくことを意味する。こうして多くの
  人間が死んだ。 (鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』朝日
  選書;1994:168)
 
          ★<フーコン死の行軍>★
   俺たちが半月がかりであの道を踏破したのは、十九年の一月
  中旬から下旬にかけてであったという。泰緬鉄道が完成したの
  は、十八年の十月二十五日だという。すでに鉄道は開通してい
  たのだが、俺たちは歩かされた。鉄道隊は、「歩兵を歩かせる
  な」を合言葉にして敷設を急いだというが、できると物資輪送
  が先になり、歩兵は後になった、と古賀中尉は書いている。
   歩兵は歩け、である。けれども歩兵だからと言って、歩かせ
  て泰緬国境を越えていたのでは、大東亜戦争では勝てなかった
  のだ。歩兵は歩かせるものと考えていた軍隊は、歩兵は送るも
  のと考えていた軍隊には勝てないのである。
   俺たちは日露戦争用の鉄砲、三八式歩兵銃を担がされ、自動
  小銃をかかえて輸送機で運ばれていた軍隊に、途方もない長い
  道のりを、途方もない長い時間歩いて向かって行って、兵員が
  少なくても、食べる物がなくても、大和魂で戦えば勝てる、敵
  の兵員が十倍なら、一人が十人ずつ殺せば勝てる、俺たちはそ
  んなことを言われながら戦い、やられたのだ。
          ・・・・・・・・・・
   どれぐらい待っただろうか。やっと一行が現われた。徒歩で
  あった。副官らしい将校と参謀を従えて、師団長も泥道を歩い
  た。前後に護衛兵らしいのがいた。師団長だの参謀だのという
  のは、物を食っているから元気である。着ているものも、汚れ
  てなくて立派である。フーコンでは戦闘司令所が危険にさらさ
  れたこともあったというが、あいつらは、食糧にも、酒、タバ
  コにも不自由しないし、だから、元気なわけだ。しかもこうし
  て、瀕死の兵士や、浮浪者のようになっている兵士は見せない
  ようにと部下たちがしつらえるのだから、白骨街道の飢餓街道
  のと聞いても、わからないのである。あるいは、わかっても意
  に介せぬ連中でもあるのだろうが、どうしてみんな、あんなや
  つらに仕えたがるのか。
   いろいろ記憶が呆けていると言っても、あのとき、貴様ら浮
  浪者のような兵隊は、閣下には見せられん、と言った下士官の
  言葉も、あの姐虫と同じように、忘れることができないのであ
  る。 (古山高麗雄氏『フーコン戦記』文藝春秋社より)
 
  ★<「湘桂作戦」(S19.5〜11):支那派遣軍最終最大の作戦>★
   作戦担当の檜兵団は、野戦病院入院患者の死亡37%(三分の
  一強)、そのうち戦傷死13.9%に対し、脚気、腸炎、戦争栄養失
  調症等消化器病栄養病の死亡率は73.5%を占めた。
   入院患者中、「戦争栄養失調症」と診断された患者の97.7%が
  死亡したという。一人も助からなかったというにひとしい。
   前線から武漢地区病院に後送された患者の場合、栄養低下に
  より、顔色はいちじるしく不良、弊衣破帽、被服(衣服)は汚
  れて不潔、「現地の乞食」以下であり、シラミのわいている者
  多く、「褌さえ持たぬ者もあった」と書かれている。全身むく
  み、頭髪はまばらとなり、ヒゲは赤茶色、眼光無気力、動作鈍
  重、応答に活気がないなどと観察されている(19年9月下旬から
  10月中旬のこと)。
   日中戦争について論議は多いが、この種の臨場感ある専門家
  の文章に接するのははじめてのように思う。彼等もまた「皇軍」
  という名の軍隊の成員だったのだ。
   すべての戦線は母国からはるかに距離をへだてたところにあ
  る。しかし、中国戦線は「朝鮮」「満州」と地つづきである。
  海上だけではなく、陸路の補給も絶え、飢餓線上で落命した多
  くの兵士がいたことを改めてつきつけられた。
  (澤地久枝氏著『わたしが生きた「昭和」』岩波現代文庫.p194)
 
      ★<米軍のセブ島攻撃(S19.9〜)の光景から>★
   米軍のセブ島空襲は十九年九月にはじまるが、二十年春、陣
  地を捨てて山中に逃げこむに至って、日本軍は民間人を邪魔も
  の扱いしはじめた。男は現地召集で軍隊にとられ、年寄りと女
  子供がのこっていた。
   「私は山で兄に会って、海軍の方へいったから命があったん
  です。うちの義姉の弟嫁は、十一の男の子を頭に女の子四人連
  れて、陸軍の方にのこった。それを、子供がいると、ガヤガヤ
  して敵に聞かれると言って、五人とも銃剣で殺してしまったん
  です。男の子は、『兵隊さん、泣きもしないし、なんでも言う
  こと聞きますから、殺さないで下さい』と言って逃げさまよっ
  ているのに、つかまえて。四、五歳まで私が同じ家にいて育て
  た子です。そして妹たち四人も…。敵に知られると言って、鉄
  砲をうたないんです。銃剣で…。セブの話は一週間話してもつ
  きないんです、あの残酷なやり方は。別行動をとりなさいと言
  ってくれればよかったんですよ。殺す必要はなかったんです」。
   自決を強要され、手榴弾で死のうとして死にきれなかった
  人間を、日本兵が銃剣で刺し、出血多量で意識不明になってい
  るのを、上陸してきた米兵が救い出し、レイテの野戦病院へ連
  れていって、輸血で助けた話も出る。
   「アメリカ兵は敵ながらあっぱれですね」。
  (澤地久枝氏著『滄海よ眠れ(-)』文春文庫、pp.149-150)
 
    ★<沖縄戦と沖縄県民の悲劇(S20.4.1〜6.23)>★
   昭和20年4月1日アメリカ軍が沖縄本島の中西部海岸に上陸。
   5月15日は那覇周辺で戦闘激化。この沖縄戦は本土決戦その
  もので、時間稼ぎの意味をも持って、沖縄住民は「本土の盾」
  として犠牲になった。満17歳から45歳未満の男子はみな戦争
  参加を強要され、軍に召集された。戦場では子どもや老人や
  婦人や負傷者といった弱い者から順に犠牲になった。彼等は
  邪魔物扱いにされ、あるいは自決やおとりを強要された。ま
  た泣き声で陣地が暴露されるという理由で日本軍兵士に殺さ
  れた。兵士たちは、与えられた戦場で、やみくもに戦って死
  んで行くという役割だけを押しつけられていた。沖縄県民の
  死者は15万人とも20万人ともいわれる。実に県民の3人に1人
  が亡くなったのである。
 
    海軍根拠地隊司令官・大田実少将(6.13に豊見城村の
   司令部濠で自決)からの海軍次官あて電報(S20.6.6)
 
     「若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ケ 看護婦烹飯婦ハモト
    ヨリ 砲弾運ヒ 挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ 所詮
    敵来タリナハ老人子供ハ殺サレルヘク 婦女子ハ後方ニ
    運ヒ去ラレテ 毒牙ニ供セラレヘシトテ 親子生別レ
    娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ 看護婦ニ至リテハ 軍移動
    ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ・・
     沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ
    賜ランコトヲ・・・」(浅田次郎氏著『勇気凛凛ルリの
    色 四十肩と恋愛』講談社文庫より引用、p.60)
 
    ★<日本人難民、棄民、捨駒以下、中学生の囮兵>★
   軍および政府関係の日本人家族だけが、なぜ特別編成の列
  車で新京を離れられたのか。この年の秋までに日本へ帰りつ
  いた人びともある。生きのこったことを責めようとは思わな
  い。しかし、決定権をもち、いち早く情報をとらえ得た人た
  ち、その家族の敗戦は、一般の在満居留民とは異なった。身
  勝手な軍人たちの判断の詳細とその責任は、現在に至るまで
  あきらかにされていない。軍人たちにより、明白な「棄民」
  がおこなわれた。軍中央も政府も、承知していたはずである。
   切り棄てることがきまった土地へ、女学校と中学校の三年
  生が動員されている。たまたまわたしは、その動員学徒の一
  人として開拓団生活を体験している。それを小さな文章に書
  いた縁で、新京第一中学校三年生の「運命」を知った(英文
  学者の小田島雄志氏の同級生たち。小田島さんとわたしには、
  新京室町小学校の一年一学期、同級だった縁がある。知った
  のは何十年ものちのこと)。
   新京一中の三年生は三つのグループにわけられ、そのうち
  の126名が5月28日、「東寧隊」として東満国境近くの東寧報
  国農場に動員された。
   この日付は、大本営が「朝鮮方面対ソ作戦計画要領」を関
  東軍に示達する2日前。同要領によって、京図線の南・連京線
  の東という三角地帯が定まったのだが、南満と北朝鮮へ重点
  変更の作戦計画は、20年1月上旬にはじまっていた。さらに
  新京一中生の動員は、予定よりも1か月間延長になっている。
    8月9日未明、ソ連参戦。東寧は穆稜(ムリン)などと同様、
  国境にいた関東軍がほとんど全滅した一帯である。関東軍に
  あって、国境部隊は時間かせぎの捨駒以下だった。『人間の
  条件』の主人公は、穆稜の戦闘で奇蹟的に生きのこる。作者
  自身の体験が裏付けにある。東寧の陣地には、彫刻家の佐藤
  忠良氏もいて、「地獄」を体験、ソ連軍の捕虜となり、シベ
  リア送りとなった。
   現役部隊がほぼ全滅し、生きのこる成算のほとんどなくな
  る国境地帯へ、なぜ14か15の中学生を動員したのか。しかも、
  ソ連参戦まで動員は継続された。列車は不通となり、国境線
  の戦闘が終ったあと、中学生たちは歩いて新京の親もとまで
  帰る。大陸の広大さ、伝染病と餓え、北満のきびしい寒気、
  そしてソ連軍の銃火と中国人の憎悪。中学生たちは70余日の
  避難行をし、乞食姿の幽鬼のようになって新京へたどりつく
  が、四人が途中で亡くなった。
   体験者の一人谷口倍氏が『仔羊たちの戦場−ボクたち中
  学生は関東軍の囮兵だった』を出版するのは1988年。体験か
  ら40年以上経ってである。(澤地久枝氏著『わたしが生きた
  「昭和」』岩波現代文庫. p210-213)
 
  ★<サイパンの戦い(田中徳治氏『我ら降伏せず』
       (サイパン玉砕戦の狂喜と現実)などより)>★

   酒だ。ムラムラッと怒りがこみあげてきた。こんな安全な
  洞窟の中で、酒を飲みながら、作戦指揮とは・・・。この連
  中は一体全体、昨日の無謀な戦闘を知っているのだろうか。
  よくも酒など飲んでいられるものだ。我々は部下も戦友も次
  々失い、空腹も忘れ、無我夢中で戦っている。それにくらべ
  ・・・と思うと、怒りと同時に全身から力がガックリと抜け
  てしまった。我々を指揮する最高司令官がこれでは、と思う
  と情けなくなった、不動の姿勢が保てなかった。気力をふり
  しぼってやっと報告に立った。
 
    田中:「以後、的確なる命令と、各部隊の密接なる戦闘
        計画なくば敗戦の連続です」
    斎藤:「バカ! 的確な命令とは何事だ。命令を何と心得
        とるか。大元帥陛下の命令なるぞ。軍人は死す
        るは本望だ。兵士は師団長の命令通り動き、死
        せばよいのだ」
    田中:「閣下、我々軍人は命令に従って死せば戦闘に勝
        てるのですか。尊い生命を惜し気もなく、一片
        の木の葉か、一塊の石の如く捨てれば勝てるの
        ですか」
    (斎藤はこの後田中徳治氏に「無礼者」といい、軍扇で
     頭を殴り、田中氏を狂人呼ばわりして司令部を追い出
     した)
 
   田中徳治氏の書にある兵士は、故郷を思い、父母の名を叫
  び、そして絶望的な気持ちで死んでいっている。彼らは司令
  官を、そして大本営作戦参謀を呪い、恨み、そして死んでい
  ったことだけはまちがいあるまい。(保阪正康氏著『昭和陸
  軍の研究<下>』より)
 
  ★<ガダルカナル最前線(元陸軍中尉、
                 小尾靖夫の手記より)>★

   「立つ事の出来る人間は・・寿命30日間。体を起こして座
  れる人間は・・3週間。寝たきり、起きられない人間は・・1
  週間。寝たまま小便をする者は・・3日間。もの言わなくなっ
  た者は・・2日間。またたきしなくなった者は・・明日。ああ、
  人生わずか五十年という言葉があるのに、俺は齢わずかに二
  十二歳で終わるのであろうか」
 
          ★<おそるべき無責任>★
   英文学者の中野好夫は、特攻を命令した長官が、若いパイ
  ロットたちに与えた訓辞を引用して、1952年にこう述べてい
  る。
 
    「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救い得る
   ものは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。勿論自分
   のような長官でもない。それは諸子の如き純真にして気力
   に満ちた若い人々のみである。(下略)」
 
   この一節、大臣、大将、軍令部総長等々は、首相、外相、
  政党、総裁、代議士、指導者−その他なんと置き換えてもよ
  いであろう。問題は、あの太平洋戦争へと導いた日本の運命
  の過程において、これら「若い人々」は、なんの発言も許さ
  れなかった。軍部、政治家、指導者たちの声は一せいに、
  「君らはまだ思想未熟、万事は俺たちにまかせておけ」とし
  て、その便々たる腹をたたいたものであった。しかもその彼
  等が導いた祖国の危機に際しては、驚くべきことに、みずか
  らその完全な無力さを告白しているのだ。扇動の欺瞞でなけ
  れば、おそるべき無責任である。
  (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp61-62)
 
         ★<特攻隊員たちの生活>★
   一方、多くの士官は鬼のように振る舞った。職業軍人たち
  は、自分より階級の低い学徒兵の些細な行動を不快に思う度、
  それを行なった本人のみでなく、隊全員に苛酷な体罰を加えた。
  色川(歴史家色川大吉氏、土浦基地元学徒兵)は、学徒兵を
  待ち受けていた「生き地獄」について、まざまざと語ってい
  る。
    「土浦海軍航空隊の門をくぐってからは、顔の形が変
   るほど撲られる「猛訓練」の日がつづいた。一九四五年
   一月二日の朝は、金子という少尉に二十回も顔中を撲ら
   れ、口の中がズタズタに切れ、楽しみにしていた雑煮が
   たべられず、血を呑んですごした。二月の十四日は、同
   じ隊のほとんど全員が、外出のさい農家で飢えを満たし
   たという理由で、厳寒の夜七時間もコンクリートの床に
   すわらされ、丸太棒で豚のように尻を撲りつけられると
   いう事件が起こった。
   私も長い時間呼出しを待ち、士官室に入ったとたん、
   眼が見えなくなるほど張り倒され、投げ飛ばされ、起き
   直ると棍棒をうけて「自白」を強いられた。頭から投げ
   飛ばされた瞬間、床板がぬけて重態におちいり、そのま
   ま病院に運ばれ、ついに帰らなかった友もあった。これ
   をやったのは分隊長の筒井という中尉で、私たちは今で
   もこの男のことをさがしている」
 
  学徒兵たちは、しばしば叩き上げの職業軍人の格好の的と
 された。彼らは大学どころか高等学校にさえ在籍することの
 叶わなかった自らと比較し、学生たちを、勉学に専心するこ
 との許される特権階級の出身者として見ていたのも一つの理
 由である。(大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)
 
  ★<国民は家畜並、軍隊というのは最低最悪の組織だ>★
  支那事変が拡大して、大東亜戦争になりますが、大東亜戦
 争でも、まず集められ、使われたのは、甲種合格の現役兵で
 す。人間を甲だの乙だのにわけて、甲はガダルカナル島に送
 られて、大量に死にました。
  敗戦後、わが国民は、二言目には人権と言うようになりま
 したが、戦前の日本には、人権などというものはありません
 でした。国あっての国民、国民あっての国、昔も今も、そう
 言いますが、藩政時代も、明治維新以降も、日本は民主の国
 ではありませんでした。忠と孝が、人の倫理の基本として教
 育される。孝は肉親愛に基づく人間の自然な情ですが、忠は
 為政者が、為政者の受益のために、人の性向を利用し誘導し
 て作り上げた道徳です。自分の国を護るための徴兵制だ、国
 民皆兵だと言われ、法律を作られ、違反するものは官憲に揃
 えられて罰せられるということになると、厭でも従わないわ
 けには行きません。高位の軍人は政治家や実業家と共に、国
 民を国のためという名目で、実は自分のために、家畜並に使
 用しました。私の知る限り、軍隊ぐらい人間を家畜並にして
 しまう組織はありません。貧しい農家の二男、三男の生活よ
 り、下士官の生活の方がいい、ということで人の厭がる軍隊
 に志願で入隊した人を、馬鹿とは言えません。しかし、国の
 為だ、天皇への忠義だ、国民なら当然だ、と言われても、人
 間を家畜と変わらないものにしてしまう組織は憂鬱な場所で
 す。けれども、そこからのがれる術はありません。・・・
  軍隊というのは、私には最低最悪の組織です。
  (古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社137-138)
 
  ★<渡辺清氏著『砕かれた神』(岩波現代文庫)より>★
  東条英機大将が自殺をはかり未遂(九月十一日)。・・・
  それにしてもなんという醜態だろう。人の生死についてこ
 とさらなことは慎むべきだと思っているが、余人ならいざ知
 らず、東条といえば開戦時の首相だった人ではないか。一時
 は総理大臣だけでなく、同時に陸軍大臣や参謀総長も兼任し
 ていたほどの権力者だったではないか。そればかりではない。
 陸軍大臣だった当時、自ら「戦陣訓」なるものを公布して全
 軍に戦陣の戒めをたれていたではないか。「生きて虜囚の辱
 を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」。これはその
 中の一節であるが、この訓令を破っているのは、ほかでもな
 い当の本人ではないか。
  軍人の最高位をきわめた陸軍大将が、商売道具のピストル
 を射ちそこなって、敵の縄目にかかる。これではもう喜劇に
 もなるまい。
  東条はこの失態によって、彼自身の恥だけでなく、日本人
 全体の恥を内外にさらしたようなものだ。おれは東条大将だ
 けは連合軍から戦犯に指名される前に潔く自決してほしかっ
 た。あの阿南陸相のように責任者なら責任者らしく、それに
 ふさわしい最期を遂げてほしかったと思う。(p.23-24)
 
 自衛隊を軍隊に格上げするだと? そりゃ結構、よろしい。しかし、
憲法第九条を一語さえ変えてもらっちゃ困る。日本の軍隊は、端から
戦争が出来ない、いや、してはいけないんだよ。
 国連の常任理事国になりたいだと? アホか? そんなものにならなく
ていい。国連軍に派兵などおぞましい。ありがたいことには、それを
中国は絶対認めまい。それでいいのだ。せいぜい靖国参拝を強行して
反日感情のたかまりを維持させておくことだ。
 まあしかし、日本は惚けた国になったもんだ。憲法改定なぞ言い出
す前にしなければならないことが山積してるだろう。それどころか憲
法をいじることは未来永劫不必要だと言っていい。「インド不可触民
解放の父」アンベードカルは言う。
 
  憲法というものが条文化されてから100年以上も経っている。
 以来多くの国が憲法を成文化してきた。憲法の及ぶ範囲というもの
 も自から定まってきたし、憲法の基本が何であるかも世界中で認識
 されてきている。この点を考えれば総ての憲法が網羅する内容はさ
 して異なったものになるはずがないのだ。もし何か新しいものが盛
 り込まれるとすれば、欠点を無くし、国の必要にそれを合わせると
 いった違いが残されている位のものである。憲法が1935年のインド
 政府法の有益な部分を借りているからといって何ら恥じるところは
 ない。それは剽窃でもなんでもない。憲法の基本概念に特許などあ
 りはしないのだ。(ダナンジャイ・キール『アンベードカルの生涯』
 山際素男訳、光文社新書、p.289)
 
 権力を「不戦」という類い稀な桎梏で縛った日本国憲法に欠点はな
い。特に憲法第九条にシミの一点もありはしないと筆者は思う。再び
日本を戦争に向かわせようとする狂気と偏執と腐臭にまみれた政治屋
さんたちの人格の正常化を期待して止まない。
 
    対談の終わりに、「何で日本はあんな愚かな戦争をしたんで
   すかね」と水を向けると、古山さん(古山高麗雄氏、2002年没)
   は何のためらいもなく、一言で結論を言ってのけた。
    「それは簡単ですよ。軍人はバカだからです。勉強はできま
   すよ。紙の上の戦争は研究していますよ。だけど人間によっぽ
   ど欠陥があったんですよ。(保阪正康氏著『昭和の空白を読み
   解く』講談社文庫、p.93)
 
    **********     **********     ***********
 
 この稿の脱稿のあと平成17年8月1日に”自民党改憲案”が出された。
 政教分離の緩和、”公益”とか”公の秩序”などとナショナリズム
喚起、高揚を促している。憲法改正を容易にさせていることもバカげ
ていると思う。軍隊保有については「自衛軍」保有を明確に定め、国
際平和のために「国際的に協調して行われる活動」ならば海外派兵を
認めている。「自衛軍」が公共の秩序の維持に使われることも謳われ
た。これは(戦前の)治安出動という軍隊の内(国民)への暴力も辞
さないということだ。小熊英二氏は言う(朝日新聞、H17.8.2 朝刊
p.31)。「私は自民党の改憲論議が報道されるたびに、彼らは憲法と
いうものを、国家の最高法規というよりも手前勝手な道徳論や分化論
をぶちまけて国民に説教を垂れる場と勘違いしているのでは、と感じ
てきた。この案ではそうした傾向は表面上やや減っているが、この案
の実現をめざす政治家たちの元来の資質を忘れるべきではない」。
                   (平成17年8月2日 付記)
 
 1999年(平成11年)
   新しい日米防衛協力のための新しい指針(新ガイドライン)、
  盗聴法、国旗国家法、改正住民基本台帳法が次々と成立した。
 2003年(平成15年)5月14日
   武力攻撃事態法案、自衛隊法改正法案、安全保障会議設置法改
  正案の有事法制関連三法が成立。
 2003年(平成15年)7月16日
   イラク復興支援特別措置方成立。
 2003年(平成15年)12月9日
   ファシスト小泉が、憲法前文の最後部の一部を利用して自衛隊
  をイラクに派遣する論拠とした。マスコミからの反発はまったく
  なかった。
 2004年(平成16年)2月3日
   自衛隊第一陣がイラクへ向け出発。
 2004年(平成16年)
   国民保護法など有事関連七法が成立。
                   (平成18年9月8日 付記)
 
    <日本はアメリカを牽制するための生贄となる>
 中国軍部の「先制核攻撃派」内部には、日本に対する「報復無罪」
の感情のマグマが相当たまっていると私は見ている。日中戦争を戦っ
た朱徳元帥の孫である朱成虎少将の国際常識を無視した暴言(たとえ
中国の人口が半減してもすぐ回復するので核戦争を回避せず、という
毛沢東理論に基づく。アメリカ議会はただちに朱少将の免職と発言撤
回を求める決議を採択)の背後にそれが透けて見えるのだ。その中国
に対してアメリカは、本当に全面核戦争を覚悟で中国に核で反撃する
だろうか。朱成虎少将の暴言の意味は、アメリカの核抑止力は中国に
は効かないということなのだ。アメリカの属国に対する核の傘など幻
想だ。だから、アメリカへの先制核攻撃はともかく、アメリカの属国
に対してならいつでもやるぞ、ということだ。
 米中全面核戦争はなくても、中国が核兵器で日本を血祭りに上げて
アメリカを牽制し、譲歩を迫ることなら十分ありうる。中国の経済が
順調に発展していることで、国内の矛盾が表面化しない間はその確率
は低くても、国内の矛盾が噴出して混乱状態になれば、中国は間違い
なく台湾武力侵攻に向かうはずだ。そのときアメリカと軍事一体化し
た日本は、アメリカ牽制の生贅となるだろう。そうなっても、それは
日本の「自己責任」という国際世論作りに「大東亜戦争賛美の世論」
と「憲法第九条改正」、そして「国連憲章の敵国条項」の三点セット
が使われると私は考えている。日本は憲法第九条改正前より後のほう
が先制核攻撃を受けやすくなるのだ。その口実を自ら作り出したから
だ。
 だから、日本の防衛線はアメリカ軍産複合体が何と言おうと、日本
の領土領海に限定すべきである。そのためには憲法第九条を変えては
いけないのだ。日本は、米ソ冷戦時代は憲法第九条を変えようとすれ
ば日本に社会主義政権ができてしまう、とアメリカに抵抗した。今度
は、国連憲章の敵国条項と日本の先制攻撃能力保持(迎撃戦闘機から
戦闘爆撃機の切り替え、軽空母の保持などといった軍備や訓練の推移
を見ればすぐわかってしまい、絶対にごまかせない)を口実に日本が
中国から先制核攻撃を受けてしまう、と言って抵抗すればよいのであ
る。これこそ日本の国是である「国連中心主義」ではないか。
 もしどうしても憲法第九条を変えたいのであれば、日本は日米同盟
を破棄して、武装中立国となり、防衛線を日本の領土領海に限定する
ことを内外に宣言する以外に道はない。日本が武装中立国であれば、
いきなり核攻撃を受けることはないからだ。誰が見てもそれは戦争で
はなく国家犯罪だ。核攻撃した国は世界秩序の破壊者として存続でき
なくなることは間違いない。(中山治氏著『誇りを持って戦争から逃
げろ!』ちくま新書、pp.60-62)
平成18年10月20日 鳥越恵治郎