第15話:【灯台下暗し】−原子力発電の恐怖−
【灯台下暗し】−原子力発電の恐怖−
以前から大いに気になっていたことがある。それは「原子力の平和利用」
の名のもとに、金権・利権によってこっそりと静かにやみくもに巨大に増殖
させられてきた「原子力産業」「プルトニウム社会」「原爆原料蓄積国家」
の恐怖である。私はその時々に中途半端に聞きかじってきたが、このほど
高木仁三郎著作集のうちの『プルートーンの火』、特にそのなかの『プルト
ニウムの恐怖』を読んで身震いした。ここではそのほんの一部であるが、抜
粋しながら原子力というもののもたらす恐怖を再認識したいと思う。
以下は高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』(七つ
森書館)の124〜126ページの記述(★印)をベースにしながら日本を中心に
これまで世界中で起きた原子力にまつわる各種の恐ろしいできごとを書き足
したものである。

● レントゲンがX線を発見(1895年)。
● ベクレルによる放射能の発見(1896年)。
● キュリー夫妻によるラジウムの発見(1898年)。
● マリー・キュリーがラジウムの単離に成功(1911年)。
● ナチスドイツの科学者、オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマ
ンが中性子によるウランの核分裂実験に成功(1938年12月17日)。
原子核分裂をおこすのは、天然ウランのなかにわずかに0.7%ふくまれ
ている質量数235のウランの同位体(アクチノウラン)だった。
● アメリカが原爆開発に着手(1939年10月):ルーズベルト大統領が、
レオ・シラードとアインジュタインの直訴に基づき「ウラン諮問委員会」
を設置。--->マンハッタン計画へ
● 日本がウラン爆弾に取り組みはじめた(「ニ号研究」、1940年3月)。
しかしこの研究は、日本ではあまりにも課題山積で荒唐無稽の試みに
近かった(海軍の原爆研究は「F研究」とよばれ1940年8月に始まった)。
★ 第二次世界大戦の色濃い1940年の暮のことであった。カリフォルニア
大学のシーボルグとケネディとワールの三人は、ウランの原子核に加速
器で高速に加速した重水素の原子核をぶつける実験を繰りかえしていた。
その反応生成物の中に、これまでに知られているどの元素とも性質の異
なる放射性物質が存在することを、3人は確かめた。これが原子番号94番
の元素、プルトニウムと人類の最初の出会いであった。

<プルトニウムーーこの世で最も毒性の強い元素>
プルトニウムは、この世で最も毒性の強い物質のひとつ、とよくい
われる。後から述べるように、その毒性の評価は未だ専門家の間でも
大きく意見の分れるところだが、どんな評価をとっても、プルトニウ
ムが「地獄の王の元素」の名にふさわしく、超猛毒の物質であること
には、まぎれがない。その毒性がこの元素を大きく特徴づけることに
なった。
現行の許容量の妥当性には、さまざまな疑義が提出されているが、
現行の許容量をとっても、一般人の肺の中にとりこむ限度は、プルト
ニウム239の場合、0.0016マイクロキュリー(1600ピコキュリー,59Bq)
とされている。これは重量にして4000万分の1グラムほどに過ぎず、
もちろん目に見える量ではない。骨を決定臓器とした場合の許容量も、
0.0036マイクロキュリー(0.13Bq)と小さい。
このように大きな毒性が生じる最大の原因は、その放出するアルファ
線である。アルファ線は、その通路に沿って電子をたたき出すが、こ
れが放射線のもたらす生体に対する悪影響の主な原因である。このよ
うな放射線の作用を電離作用と呼んでいる。電離作用が生体結合に与
える破壊・損傷効果によって、いろいろな障害がもたらされるのであ
る。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七
つ森書館、p205:1981年『プルトニウムの恐怖』を著作集に再録)

★ 1942年8月18日。シカゴ大学ジョーンズ化学研究所。この日、人類の
歴史で初めて、プルトニウムの酸化物のかけらが、人間の眼にとらえら
れた。集まってきた科学者たちを興奮させたこのかけらは、しかし、た
ったの1μg(100万分の1グラム)、顕微鏡を通してやっと見えるほどに
過ぎなかった。プルトニウムという元素の存在が発見されてから、一年
半あまりたった時のことである。
● 1942年9月、アメリカ、マンハッタン計画を立ちあげる。
レズリー・グローヴス(責任者)、ロバート・オッペンハイマー、
エンリコ・フェルミ、シーボルグらが中心となり原爆開発にいそしむ。
● 1942年11月16日、フェルミにより原子炉建設計画がスタートした。
通称「シカゴ・パイル」は11月末にはほぼ完成した。そして1942年12月2
日午後3時25分、50トンの天然ウランは核分裂の制御のもとで臨界(筆者
注:核分裂反応が連鎖的に続いている状態:中性子の生成と消滅が均衡
する状態)に達した。(飯高季雄『原子力重大事事件エピソード』日刊
工業新聞社、pp.38-39)
● マリー・キュリーが白血病で死去(1943年)
● プルトニウムの精製が、1943年の年末より盛んになってくる。またプ
ルトニウム汚染が深刻な問題となり始める。(アイリーン・ウェルサム
『プルトニウムファイル<上>』)
● 1945年7月16日、プルトニウムを用いた人類最初の原爆実験成功。
コード・ネーム”トリニティ(三位一体)”(オッペンハイマー命名)
● 1945年8月6日8時16分、広島市細工町29番地(現、中区大手町1丁目)の
上空540m。ウランを用いた原子爆弾が世界で初めて人類に向けて投下され
た。TNT15キロトンの破壊力。
<新藤兼人氏監督映画『原爆の子』(1952年)>
この映画のテーマははっきりしている。このドラマの人たちは、
何ごともなく八月六日の朝を迎え、それぞれ職場に向かい、主婦
は食後のあと片づけ、子どもたちは公園や川で遊び、嬉々と声を
たてていた。
  そこへ、音もなく、原爆を乗せたB29機がやってきて原爆を投下
した。ここは戦場ではない、平和な生活を営む銃後だ。それを知
っていてアメリカは落とした。砂漠で実験をやって、無人の地で
は効果がないので、人が住む街を実験台にした。
  五、六万という人間が白熱光線で焼かれ、爆風でふっ飛んだ。
アメリカの大統領、開発の科学者チームは、その成功に乾杯し歓
声をあげた。
  そのとき広島では、人の首が千裂れ、夫婦が断末魔の声をあげ
て焔に焼かれ、親が子が、助け合いながら悶死、全身をピカで焼
かれ、垂れ下った皮膚を引きずった幽霊の行列が西へ東へと助け
を求めてさまよい、あるものは焼かれた熱さにたえきれず川へ飛
びこんで溺死、赤ん坊が死んだ母の乳房にしがみついて泣いてい
るのだ。助かったと思った人も放射能をあびたことは知らず、や
がて、血を吐き髪の毛がぬけて悶死、その数二十万に及ぶ。
  地獄でもこれほどの惨劇はあるまい。
(新藤兼人氏著『新藤兼人・原爆を撮る』新日本出版社、pp.40-41)
★ 1945年8月9日11時3分、長崎。プルトニウムを用いた原子爆弾「ファッ
ト・マン」が長崎を襲い(TNT21キロトンの破壊力。)、一瞬にして8万
余の命を奪い、長崎に地獄絵図を作り出した日である。それは同時に、
その3日前に広島に投下されたウラン原爆とともに、人類が「核」という
パンドラの筐を開けたことを意味していた。ちょうど3年前に顕微鏡の下
にささやかに存在していたプルトニウムは、すでに巨大な鬼っ子として
の姿を露わにしたのである。
● 1946年から1958年にかけてアメリカはビキニとエニュエトクの2島で
67回も核実験を行った。
● 1949年9月3日、ソ連が原爆実験に成功。ドイツ出身の物理学者でロス
アラモス研究所で原爆開発をしていたクラウス・フックスがソ連に情報
を流していた。
● 1951年7月3日、沖縄に核兵器の陸揚げ。
● 1951年5月8日、人間の歴史上はじめて核融合反応(重水素と三重水素
の反応)=水爆がマクロの規模で爆発的に行われた。(「グリーンハウ
ス」、太平洋マーシャル群島、エニウェトク環礁)。
● 1952年10月3日、イギリスがオーストラリア北西岸沖合いのモンテベロ
諸島で初の原爆実験を行った。
● 1952年11月1日、テラー-ウラムの新しい設計による水爆「マイク」が
実験された。TNT10メガトンに相当し広島原爆の1000倍近い大きさ。この
アメリカ水爆実験の「死の灰」のなかから原子番号99番と100番の元素、
アインスタイニウムとフェルミウムが初めて発見された。
(高木仁三郎氏著『市民科学者として生きる』岩波新書、pp.143-144)
「マイク」の威力は10.4メガトン、広島型原爆の750倍の威力。
● 1953年8月12日、ソ連が水爆実験に成功。戦略的に価値の高い(飛行機
で運べる)計量水爆はソ連のほうが先に作り、1955年11月末に実験に成
功。(アメリカは1956年4月の<つぐみ(レッドウィング)作戦>でソ連に
追いついた)。
● 1953年12月31日、沖縄に地対地戦術核ミサイル、オネストジョンが正
式配備された。(有馬哲夫氏著『原発・正力・CIA』新潮新書、p.53)
● 1954年1月21日、アメリカで世界初の原子力潜水艦(ノーチラス号)の
進水式。
● 1954年3月1日午前3時42分、アメリカ水爆実験(重水素化リチウム使用、
「ブラボー」)にともなう悲劇。
ビキニ環礁で日本のマグロ漁船・第五福竜丸船員が被爆(実験場から
150km離れて被爆)。焼津港に帰った乗組員全員の顔は泥を被ったような
黒さだった。無電技師久保山愛吉は原爆症で死亡し、その最後の言葉は
「おれ、電流に焼かれとる・・・おらの体の下に高圧線が通っておる・
・・」だった。(新藤兼人氏著『新藤兼人・原爆を撮る』新日本出版社、
pp.80-82)。40度を越える高熱を発し”体が燃える。熱い熱い”といい
ながら悶死するのは原爆症特有の断末魔だ。中性子やγ線は人間をじわ
じわと内蔵から焼き尽くすのである。
このブラボー爆弾は、さんご礁の岩上に建てられた約50mの鉄塔の上で
爆発し、その結果はさんご礁の島に直径約500m、ふかさ数100mの大穴があ
き莫大な量のさんご礁のかけらと粉末が空高く吹き飛ばされた。このブラ
ボー爆弾の爆発力はTNT火薬にして15Mtとも32Mtとも言われる(広島・長崎
の原爆は0.02Mt)。(最後半部は三宅泰雄氏著『死の灰と闘う科学者』岩
波新書、p.2より)
● 第五福竜丸船員の持ってきた死の灰の粒子の大きさはだいたい径0.1ミリ
くらいで、珊瑚礁の粉末のようであった。放射能の強さは、3月1日午前7時
現在の値に直して1gあたり1.4キュリー(約520億Bq)と推算された(換算
は筆者)。(三宅泰雄氏著『死の灰と闘う科学者』岩波新書、p.32-33)
● ビキニ環礁から遠く離れた海域で操業していた漁船にも、ぞくぞく放射
能汚染が見つかった。例えば第五福竜丸事件から2か月以上たった5月19日
に東京の筑地魚市場に入った三崎の漁船、第八順光丸(246トン)の船体は
10000cpm(counts per minute)(約83μSv; 120cpm=約1μSv/hr)以上の放
射能で汚染されていた。・・・第八順光丸は、ビキニ環礁から北東3000km
も離れたミッドウェイ群島付近で操業していた(単位換算は筆者)。
(三宅泰雄氏著『死の灰と闘う科学者』岩波新書、p.85)
● 日本の原子力開発は、1954年中曽根康弘が「ウラン235」の語呂合わせ
で2億3500万円の予算をつけて始まった。不遜でフザけた発想からだった。
このとき日本には、原子炉を作りべきだと考えている学者は一人もおら
ず、製造出来る会社や研究所は一つもなく、もちろん具体的な計画さえな
かった。(1954年は重大な年であった。ビキニ水爆被災事件と、原子力予
算の国会通過の悪の二重奏が起きた年だった) 。
● 時の農林省水産庁はビキニ海域としの付近の放射能の影響を行うことに
踏みきった。そして1954年5月15日午後1時、俊カク丸が出港した。・・・
俊カク丸は5月28日にウェーキ島を出発し、旧危険海域の外側に添う形で
航海した。そしてウェーキ島を出て2日目、5月30日の朝海水中にはじめて
150cpm/lの放射能が検出され、プランクトンにも生重量1gあたり数千から
1万cpmの放射能があった。(三宅泰雄氏著『死の灰と闘う科学者』岩波新
書、p.60)
ビキニ海域から上流にあたる1000kmも東に離れたところで海水もプラン
クトンも放射能で汚染されており、海水では450cpm/lの放射能が検出され
た。・・・マグロだけでなく、よわい放射能とはいえ、イカやトビウオと
いう大衆魚までが汚染されていた。(三宅泰雄氏著『死の灰と闘う科学者』
岩波新書、pp.61-64)
● 亜鉛65の存在
海水中の安定な亜鉛(亜鉛64)は、わずか5μg/lにすぎない。亜鉛65は
爆弾の金属部にある亜鉛64(安定)に中性子が当たってできる放射性核種
である。魚の中に亜鉛65が濃縮されていたのだ。(三宅泰雄氏著『死の灰
と闘う科学者』岩波新書、pp.127-128)
----------------------<ビキニ海域の汚染状況>-------------------
海水(表層水) 556〜1610 cpm/l
プランクトン 1927〜7220 cpm/g
---------------------------------------------
魚の体表面(10cm上)
キハダ 240〜 620 cpm
メバチ 380
ビンナガ 600
(カツオ 3500)
クロカジキ 500〜 1200
---------------------------------------------
魚の肝臓
キハダ 1900〜 3500 cpm/g
メバチ 1400〜 4000
ビンナガ 2600〜 5000
(カツオ 33000〜48000)
---------------------------------------------
小魚(大型魚の胃の中にあったもの)
イカ 6600
マンボウ科 14000
ハコフグ科 2200
サバ型類 17000
-----------------------------------------------------------------
(表は三宅泰雄氏著『死の灰と闘う科学者』岩波新書、p.66)
・・・それにしても水爆の爆発地点から1000kmも2000kmも離れて、なお
海水にも生物にも放射能があることは、いままで想像もしていなかった。
(三宅泰雄氏著『死の灰と闘う科学者』岩波新書、p.70)
● 日本に降り始めた放射能雨(1954年5月16日前後を境とする)
鹿児島大学の鎌田政明助教授は1954年5月14日の雨に4000cpm/lの放射
能を検出。鹿児島では5月16日ににさらに強まり15000cpm/lになった。
京都でも5月16日の雨に86760cpm/lという高い放射能が測定され、その
他の大学からもぞくぞくと雨水中に高い放射能が検出された。・・・
この雨のなかにはネプツニウム239とウラン237が含まれており、これ
ら2つの核種は核分裂生成物ではなくウラン238の存在と関連し、放射能
雨の由来が単純な原爆ではなく、水爆であることを連想させた。
(三宅泰雄氏著『死の灰と闘う科学者』岩波新書、pp.95-110)
● 正力松太郎・読売新聞による原子力平和利用キャンペーン。原子力平和
利用使節団による講演(1955年5月)。原子力平和利用博覧会(10月)。
(正力はその後衆議院議員となり、原子力委員会を強引に設置し自らそ
の初代委員長におさまり、初代科学技術庁長官におさまった)。
● 1955年8月8日、ジュネーヴで原子力平和利用国際会議が開かれた。会議
終わってまもなくカナダがインドのトロンベイに天然ウランを使った原子
炉(CIRUS)を建設することになった。(ステファニー・クック著『原子力
その隠蔽された真実』藤井留美訳、飛鳥新社、p.113)
● 1955年10月、「日米原子力協定」締結。(財)日本原子力研究所発足。
1955年末の「原子力三法」(原子力基本法、原子力委員会設置法、原
子力局設置に関する法律)が成立、発効した。
※「原子力三法」の重大な欠陥
1. 原子力平和利用は「善」であるとの大前提
原子力基本法第一条:
「この法律は、原子力の研究、開発及び利用を推進する
ことによって、将来におけるエネルギー資源を確保し、学
術の進歩と産業の進行とを図り、もって人類社会の福祉と
国民生活の水準向上とに寄与することを目的とする」。
2. 「安全」の過小評価
<1957年アメリカBNL(ブルックヘブン国立研究所)の解析>
・・その一方で、原発の本質が次第に明らかになっていっ
た。まず1957年に公表された前述のアメリカのBNLの解析研究
は、標準的な都市から48キロメートル離れた20万キロワット
の小型の原子炉でも、「暴走事故が起これば、24キロメート
ル以内で即死者3400人、72キロメートル以内で負傷者43000人
を出し、メリーランド州に匹敵する面積が放射能汚染されて
数百年間住めなくなり、物的損害も70億ドル(当時のレート
で2兆5200億円)に達する」と予測したのである。(市川定夫
氏他『希望の未来へー市民科学者・高木仁三郎の生き方ー』
七つ森書館、p.31)
3. 「民主」「自主」を保障する方法の欠如
原子力基本法第五条:(国会の審議無視の政策決定)
「原子力委員会は、原子力の研究、開発及び利用に関す
る事項について企画し、審議し、及び決定する」。
(久米三四郎氏他『希望の未来へー市民科学者・高木仁三郎
の生き方ー』七つ森書館、pp.7-9より)

★ これらの法律が通る前に、一つの重要なできごとがあった。東京大学総長
矢内原忠雄博・東京大学芽誠司教授が国会をおとずれ、原子力諸法に関し重
大な申し入れをしたことをいう。それは1955年12月12日のことだった。
  矢内原忠雄博士は当時国立大学協会の会長でもあった。博士が衆参両院を
訪れたのは国立大学協会会長としての資格においてであった。
  衆参両院で矢内原・茅両博士が国会に要望したことは、原子力諸法の成立
によって、大学の研究、教育の自由がおかされることのないようにしてほし
い、ということであった。国立大学学協会は、国立大学の協議体で、各大学
の学長がその大学を代表して参加している団体である。国立大学協会で、原
子力研究の問題がどのように議論されたかを、いまくわしく知ることはでき
ない。しかし、国立大学協会としては、大学所属の教官の意見がまとまって
いない段階に政治家ペースで原子力の研究が推進されることに不安をいだい
たことは、推察できるところである。
  とくに東京大学には原子核研究所(同年7月1目発足)があった。政治家た
ちは、この研究所の予算を原子力予算にくみいれるべきであると考えていた。
  ・・・当時は国内政治は急速な右旋回の時期であった。政治権力によ学問、
思想の自由への干渉が、ふたたび露骨になりはじめていた。
その平和主義で、第二次世界大戦前に大学を追われ、戦後、大学に復帰し
た矢内原博士にとっては、政治権力から大学の教育と研究を守ることが、そ
の使命であった。
また平和主義の立場からも、矢内原博士は原子力研究の早期開始には、き
わめて懐疑的であった。たとえ法律で原子力の平和利用がうたわれても、そ
れだけで大学における研究の平和性がつらぬけるかどうか0政治の暴力を身
をもって体験してきた矢内原博士は、政治をけっして信用してはいなかった。
矢内原博士の文章をみれば、当時の博士の憂慮がわかるだろう。
「事実上の軍隊である防衛隊は次第に充実され、膨大な防衛費予算は国会
を簡単に通過し、200億にのぼる使い切れない金額さえ与えられる。今や防衛
費は予算費目の首位を占める。これは平和国家の予算ではなくて、軍事国家
の予算ではないか。……(中略)=…・もしも政治が自己の好む政策と思想
をば国民の問に普及させるために、教育の制度を自己の都合よきように改め、
教育の内容に干渉しようとするならば、それは全体主義国家のやり方であっ
て民主主義国家の道ではない。大学の自治を削減し、大学を含めて日本の教
育に対する政府の監督権を強くしようとする政策もしくは思想が、責任の地
位にある政治家のロから公言されるに至っては、日本教育の民主化はまさに
危機に立ちつつあるというも過言ではあるまい」(朝日新聞・論壇、1956年
8月15日)。(三宅泰雄氏著『死の灰と闘う科学者』岩波新書、pp.170-171)

● 1955年11月23日、ソ連が本格的なメガトン級の水爆実験。
  ★ 1955年11月29日、アイダホ州国立原子炉試験所。高速増殖実験炉EBR-1
で、実験運転中に燃料棒が曲がり、その効果によって原子炉出力が急上
昇して、燃料の一部が溶けた。それは原子炉の事故のなかでも最も恐れ
られているメルトダウン事故ーー燃料が溶けて中に詰まっている燃えか
すの放射能が大量に放出されるーーの、最初の本格的な経験だった。
EBR-1は、この時点ではプルトニウムを燃料として用いていなかったが、
プルトニウムを生産する目的の原子炉であり、また、いずれはプルトニ
ウムを燃やす計画をもっていたように、プルトニウムと因縁の深い原子
炉だった。メルトダウンの恐怖もまた、プルトニウムがらみでやってき
たのである。(EBR-1計画はその後中止された)。
● 第二次俊カク丸調査(1956年5月26日に東京を出向)
アメリカの水爆実験「つぐみ(レッドウイング)作戦」による影響を
調べるためのもので、海水放射能最高値は第一次 91233dpm/l(1dpm =
1分あたりの壊変数 = 1/60Bq)・第二次 4511dpm、空気放射線最高量
は第一次 450dpm/100m3・第二次 95231だった。二次ではプランクトン
汚染が強く、マグロ類の内臓汚染も一次と同様だったが、1954年の核実
験の名残が未だに魚体内に残存していることもわかった。
(三宅泰雄氏著『死の灰と闘う科学者』岩波新書、p.84)
● 1957年2月と1958年1月、ソ連の南ウラルでプルトニウム関連核廃棄物
貯蔵施設で大爆発(『ウラルの核惨事』(邦訳『技術と人間』1982)。
● 1957年9月29日、ソ連のキシュティムで核燃料工場爆発。液体廃棄物
貯蔵タンクの冷却装置が故障して爆発。放射能を浴びた瓦礫が70〜80ト
ンが飛散した。これはチェルノブイリの瓦礫の約1/4で25万人以上が被
曝した。(ステファニー・クック著『原子力その隠蔽された真実』藤井
留美訳、飛鳥新社、pp.137-138)
● 1957年10月10日、イギリス、ウィンズケール原発で大規模な放射能放
出を伴う事故があった。この事故で総計7400兆Bq(2万キュリー)の放射
性ヨウ素が放出された。(ヨウ素で汚染された牧草を牛が食べた場合、
すぐに牛乳の汚染となって現れることが知られている。人間が飲んだ牛
乳中のヨウ素はすぐに甲状腺に集まり、そこに大きな被害を与える)。
(高木仁三郎・渡辺美紀子氏著『食卓に上がった放射能』七つ森書館、
pp.32-33)
● 1957年12月18日、ハイマン・リコーバーがペンシルベニア州のシッピ
ングボートで発電用PWR(加圧水型原子炉)を完成させた、出力は10万
kw。(1982年10月閉鎖)。
● 1958年に原子力発電にむけてアクセルを踏んだのは、時の総理大臣で
戦前に東条内閣のもとで商工相として戦時統制経済を指導した岸信介で
あり、彼は回顧録で語っている。

  昭和33年(1958年)正月六日、私は茨城県東海村の原子力研究所を
視察した。日本の原子力研究はまだ緒についたばかりであったが、私
は原子力の将来に非常な関心と期待を寄せていた。
  原子力技術はそれ自体平和利用も兵器としての使用も共に可能であ
る。どちらに用いるかは政策であり国家意志の問題である。日本は国
家・国民の意志として原子力を兵器として利用しないことを決めてい
るので、平和利用一本槍であるが、平和利用にせよその技術が進歩す
るにつれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる。日本は核
兵器を持たないが、〔核兵器保有の〕潜在的可能性を高めることによ
って、軍縮や核実験禁止問題などについて、国際の場における発言力
を高めることが出来る。

  つまりこの時点では原子力発電(原子炉建設)の真の狙いは、エネル
ギー需要に対処するというよりは、むしろ日本が核技術を有すること自
体、すなわちその気になれば核兵器を作りだしうるという意味で核兵器
の潜在的保有国に日本をすることに置かれていた。(山本義隆氏著『福
島の原発事故をめぐって』みすず書房、pp.8-9)
● 1960年代は米国において、放射性物質投与による人体実験や抗癌治療
に名を借りた放射能全身照射(TBI)が華やかな狂気の時代であった。
(アイリーン・ウェルサム『プルトニウムファイル<下>』)
● 1960年に東京大学工学部にはじめて原子力工学科が設置された。
● 1961年10月30日、ソ連でサハロフとゼルドヴィッチが「ツアー」とい
う50メガトン級の水爆を爆発させた。これは実際に爆発させた核兵器と
しては最大のものだった。 (アーサー・I・ミラー『ブラックホールを
みつけた男』阪本芳久訳、草思社、p.353)
● 1961年、原子力損害賠償法成立。
焦って安全性に問題がある英国製原子炉=コールダーホール型発電用
原子炉を導入、英国からは原発事故への免責条項挿入を強制されたため
、にわかに原発事故に対処する必要に迫られた。(実際英国では原発事
故が起こっていた)。
● 1963年11月22日、ケネディがダラスで暗殺された。
  ★ 1964年、アメリカの軍事衛星SNAP-9Aがインド洋上空で炎上し、プルト
ニウムの仲間であるプルトニウム238約1キログラムが空から世界中にば
らまかれた。プルトニウムは、「この世で最も毒性の強い物質のひとつ」
といわれる猛毒の放射性物質である。1キログラムといっても、もしそれ
をそのまま人びとが吸い込んでいたら、1兆人分もの許容量にあたる。こ
の出来事は、プルトニウムがすでに私たちの生活環境にも深く入りこん
できたことを示していた。
● 1964年10月、中国が初の核実験を行った。
● 1966年7月25日、東海村で「東海原発一号機」の運転開始。耐震など安
全設計の面で技術的に未熟な英国「コールダーホール型発電用原子炉」
が予定より3年も遅れて運転開始にこぎつけた。
● 1966年10月5日、アメリカの「フェルミ炉」(高速増殖炉)の事故。
炉心の底に使っていた金属版のボルトが緩んで外れて、燃料二体につ
いて流路を閉塞。ナトリウムの流れる道を閉塞してしまった。そのため
に、冷却状態が悪くなって温度が上り燃料の溶融に至った。幸い大惨事
にはならなかった。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートー
ンの火>』七つ森書館、p.351より)

(高速増殖炉は)どんな表現を使うにせよ(核的爆発的エネルギー、
燃料の臨界超過形状への急速再結合と破壊的核逸走、急速な炉心溶融
とそれに続く、臨界超過形状への稠密化、反応度のより高い形状への
燃料の稠密化とそれに伴う破壊的エネルギー放出)、その意味すると
ころは明らかである。液体金属(ナトリウム)冷却高速増殖炉は即発
臨界超過状態になり得るということだ。そして、AEC(原子力委員会)
がよく承知している通りこの専門用語は、しろうとの言葉に翻訳すれ
ば、原子爆弾なのである。(ジョン・G・フラー『原子炉災害』田窪
雅文訳、時事通信社会、pp.70-71)

  ★ 1967年4月22日、日本の原子力委員会の「原子力開発利用長期計画」が
この日に決定された。それによって、日本でもプルトニウムを生産し、燃
料として燃やす長期計画が本決まりになったのである。この計画は国家の
エネルギー開発の柱となる「国家プロジェクト」の中心に、プルトニウム
を燃やし、生産する高速増殖炉と新型転換炉という二つのタイプの原子炉
を据えたものだった。その計画に、10年間で1500億円という、当時として
は破格の研究・開発費が見積られた。これは、同時に国家に強力に支えら
れた巨大科学プロジェクトの時代の日本における幕明けを意味していた。
● 1967年5月29日、イスラエルが国産原爆第一号を完成させる。
● 1969年6月12日、原子力船「むつ」の進水(1200億円かかって、フル稼
働換算でたった95日分動いたのみ)。
「むつ」の原子炉は1974年8月28日に初めて動き、むつ市の大湊港を出た
のは26日の朝早く。25日に出港の予定が、250隻の抗議の漁船にかこまれて
閉じこめられ、ほぼ一日遅れて夜逃げのように出港した。陸奥湾から津軽
海峡をとおって太平洋側にすすみ、尻屋崎の沖で原子炉運転の実験を開始
した。
  ところが、9月1日、出力を2%にまで上げようとしたところで放射線漏れ
の警報が鳴った。放射線をさえぎる対策が不十分で中性子が漏れ、中性子
がまわりの物質と反応する際に生まれるガンマ線も漏れた。原子炉の運転
はすぐに中断され、中性子漏れの原因を調査するために、お米をたいて、
中性子を吸収するホウ素をまぜ、それをナイロンのシートでのり巻きのよ
うにしたものがつくられた。これがマスコミに漏れをとめる応急措置とお
もしろおかしく報じられ、話題となった。
(西尾漠氏著『新版 原発を考える50話』岩波ジュニア新書、pp.154-155)
● 六か所村開発前史(土地買収会社「むつ小川原開発株式会社」の暗躍)
『六か所村史』年表(1970年) より。「昨年来、県内外不動産業者
による土地買い占めが続き、その規模が1260人から870ヘクタールに及ぶ」。
翌年の1971年には「土地ブームが続き、村内民有地の13%に当たる1780ヘク
タールが売られ、長者番付にのる人も出てきたが、トラブルも目立ってき
た」。1973年の記述では「千歳地区は土地値上がりにより、この年の春、
地価が3年前の200倍になる」。(鎌田彗氏・斉藤光政氏共著『ルポ 下北核
半島』岩波書店、pp.6-7)
● 1972年6月、関西電力美浜原発一号機(ウエスチングハウス社「加圧水
型原子炉(PWR)」:ハイマン・リコーバーが製作)で蒸気発生器の内部
設置の電熱管破損のよる放射能漏洩事故発生。
● 1973年3月頃、関西電力美浜一号炉で大規模な燃料棒破損事故があった。
関電と三菱重工はそれを全く秘密裡に処理していた(田原総一朗『原子力
戦争』筑摩書房)。この事故は徹底的な事故隠しの後、石野久男代議士
(当時、社会党)の追求などで、1976年にやっと公表されたが、事故後3
年経過しており時効で何の咎めもなかった。

<腐れ企業と欺瞞行政当局の隠蔽体質>
ほぼ最初から最後まで、この事件の顛末に付き合ったことで、私は多く
を学んだ。その多くは驚きの連続で、思えば私が会社にいた頃は、隠蔽の
体質はあったものの、商業原発など始まっておらず、呑気なものだった。
関西電力・三菱重工が一体となったきわめて組織的な事故隠しと、それを
知りながらシラを切り通そうとする通産省、そして時効という狡猾な逃げ
道。それらは、私の想像をはるかに越えた、悪らつな国民無視と安全感覚
の欠如を浮き彫りにした。ほとんどの場合、私は怒りの感情で動くことは
なかったが、この時は心から憤りの気持をもった。(高木仁三郎氏著『市
民科学者として生きる』岩波新書、pp.151-152)

● 1973年に伊方原発設置認可取り消し訴訟がスタート。まことにいいかげ
んな途中経過であり最終判決だった。

安全審査の問題点について、原告側弁護士が糾しても、国側の証人は何
も答えられなくて、沈黙するだけでした。これは、前にも述べたように、
軽水炉が米国からの輸入技術で、日本には、精通している専門家がいなか
ったせいでもあったでしょう。
  また、安全審査会も本当にいい加減で、議事録もなく、審査委員がたっ
たひとりしか出席していない審査会もあったようです。
  こういう状況ですから、裁判も圧倒的に原告ペースで進み、僕らは勝訴
を確信していました。ところが、土壇場で想像もしていない逆転劇が起き
たのです。
  担当の裁判長が、結審の一方月前に突然、交代し、横浜地裁から異動し
てきた判事(柏木賢吉)が担当になり、被告(国)勝訴の判決を出したの
です。しかも、この判事は、この判決を出すとまたすぐ、横浜地裁に戻っ
たのです。
  膨大な資料を読まなければなら凌い原発訴訟で、どうしてこのような
”乱暴”なことが行われるのか、唖然としました。もともと、「国に勝訴
させる」という前提だったのだと思いました。司法の独立性など、最初か
らなかったわけです。
  福島第一原発事故以降、東電や経済産業省、原子力安全・保安院、原子
力安全委員会、マスコミなど、いわゆる「原子力ムラ」への批判が高まっ
ています。当然の事ですが、もうひとつ見逃せないのは、司法です。色々
な原発訴訟で「原発は安全だ」という判決を下した裁判官はいっぱいいま
す。原告側というか、住民側が勝訴したケースは二件しかありません。名
古屋高裁での、高速増殖炉「もんじゅ」の設置許可無効確認訴訟と、金沢
地裁での志賀原発二号(石川県)建設認可阻止訴訟です。この金沢地裁の
裁判官は、井出さんといい、その後、弁護士になって、今は、原発の危険
性を問う訴訟を自ら起しています。こういう人は稀です。
  判事は「ひとりひとりが独立して、国の法解釈を代表している」とか言
われます。しかし、ここには大きな問題がひそんでいます。大きな訴訟の
判決を下した裁判官もすぐに忘れ去られ、その後、判決が明らかに”ミス
ジャッジ”でも責任が追求されることはなく、冤罪事件でもなければマス
コミも問題視しません。総選挙の際に、最高裁判事の適格性を問う投票が
行われるだけです。しかし、一般の人が、裁判官の適格性を判断するのは
無理です。現実的には、何ら意味のない制度になっています。
  他の訴訟については、詳しく知りませんのでコメントできませんが、原
発関連の訴訟については、今回の福島第一原発事故をもたらした責任の一
端が行政や電力会社に追随してきた裁判官にもあるのは明白です。しかし、
この人達から何のコメントも出ていません。無責任極まりないと思います。
(小林圭二氏編書『「熊取」からの提言』世界書院、pp.70-71)

● 1974年4月15日、大阪の岩佐嘉寿幸氏(58歳)が原電敦賀原発を相手ど
り、我が国初の原発被曝裁判を大阪地方裁判所に起こした。(樋口健二氏
著『闇に消される原発被曝者』八月書館、pp.14-15)
 ★ 1974年5月18日、インドがプルトニウムを用いた核実験を行ない、6番日
の核保有国として、「核クラブ」入りした日である。この核実験が世界に
ショックを与えたのは、インドが「平和利用」の原子力施設だけを利用し
て、プルトニウムを生産し、核爆発装置にまでこぎつけたことだった。こ
れは、「平和利用」の原子力からの「核」の拡散の時代の幕明けを告げる
できごとであった。
● 1974年、原発立地では他企業が嫌う為地域振興ができないという理由で
交付金というアメをなめさせて地元の同意を得ようという卑怯な制度がで
きた。

<原発立地交付金制度の現実>
原発をつくると多額の交付金が受け取れるということ自体、原発立地で
地域の振興ができない証拠だ、と言って過言ではないでしょう。現に資源
エネルギー庁では、交付金に関するパンフレットで、なぜ交付金を出すの
かについて、次のように説明しています。

  発電所が立地しても、他の工場とちがって地元からやとえる労働力も
少なく、必ずしも地元住民の福祉の向上や地元経済の発展に結びつかな
いことから発電所予定地の住民の同意がなかなか得られない。

そこで、地域振興にならないかわりに交付金を出し、地元の同意を得よ
うとする制度が、1974年に設けられたわけです。その後、この交付金の制
度は、年々拡充されてきました。2005年現在の資源エネルギー庁のモデル
試算では、135万キロワット級原発を建設した場合、地元市町村への立地
交付金は約260億円にもなるとか。
  そのうち約100億円は、一般家庭、事務所ビル、工場などの電気料金の割
り引きにあてられます。ほかにも交付金をつかって企業誘致のための補助
金・低利融資、企業の福利厚生施設への補助金と、至れり尽くせりで企業
の誘致をすすめようとしているのですが、さすがに原発の隣りに進出して
くる企業はなく、制度は生かされていません。
(西尾漠氏著『新版 原発を考える50話』岩波ジュニア新書、p.151)

● 1974年11月13日、カレン・シルクウッド事件。
カレン・シルクウッドはプルトニウム燃料会社カーマギー社に勤めるプ
ルトニウム技術者で、同社のずさんな放射線管理体制を告発しようとして
いて交通事故に遭遇し死んだ。彼女はプルトニウムに汚染されていたが、
死因となった交通事故は単なる事故なのか会社による謀殺なのか不明のま
まである。また彼女(反原発派とみなされFBIに私生活を調査されていた)
の死そのものにFBIが深く関わっていたことは確実だった。(高木仁三郎氏
著『プルトニウムの恐怖』岩波新書、pp.179-184)
● 1975年8月24〜26日、日本で初めての反原発全国集会開催(京都)。
1975年9月「原子力資料情報室」発足。神田司町ビル5階、代表武谷三男氏、
専従高木仁三郎氏(高木仁三郎氏著『市民科学者として生きる』岩波新書、
pp.148-149より)。
● 1976年4月2日、東電福島第一原子力発電所2号機火災事故。当初は隠蔽さ
れたが内部告発で発覚、約1か月後に事故を認めた。(河野太郎氏著『原発
と日本はこうなる』講談社、pp.49-50)
● 1976〜1977頃、1950年代の被爆の顕在化と情報公開を通して放射能の恐
ろしさの情景がやっと人類に見えはじめた。1950年代にネバダ州で20〜30
万の兵士(アトミック・ソルジャー)の間近で核爆発実験が行われ、彼ら
は約20年後の1970年代後半になって、次々とガンや白血病となって亡くな
った。またネバダの風下に住む20〜30万の住民にも放射能の被害が及んだ。
(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館、
pp.530-531より)
● 1976年、原発稼働後10年経ってやっと放射性個体廃棄物(ドラム缶詰に
して貯蔵施設に放り込んでおくだけ) 処理の基本方針が政府より打ちだ
された。しかしこの方針の後には「極低レベル放射性廃棄物は一般ゴミと
同等に扱う」などと危険極まりない提言まで出た。(堀江邦夫氏著『原発
労働記』講談社文庫、pp.127-128)
● 1977年3月17日を皮切りに、全国の新聞が楢崎弥之助氏(当時、社会党衆
議院議員)の調査による”原発労働者の被曝実態”を報道した。
  その報告は、「原発関係死亡下請け労働者内訳」として、事故死亡(業
務上)31人、放射線被曝死亡下請け労働(業務外)75人、合計106人、そし
て、ガンや白血病死が増加しており、アフターケアを緊急に要するという
内容で、原発内労働の恐怖をショッキングに報じていた。その報告は、被
曝死者のみで、生存する被曝者は皆無であった。(樋口健二氏著『闇に消
される原発被曝者』八月書館、p.16)
● 1978年11月2日、福島第一原発3号機で7時間半にわたる臨界状態が発生。
(これは原発の隠蔽体質が次々と内部告発で明るみに出る2007年3月22日
まで約30年間隠蔽されていた。
● 1978年10月、全国統一の『放射線管理手帳』(通産省:放射線従業者中央
登録センター発行)なるものが原発従業員に与えられた。日本で原発が稼
働しはじめて(1966年)約10年。ようやく国家が労働者の被曝管理に動き
始めた。原発労働者は実に長い間放置されつづけてきた。(堀江邦夫氏著
『原発労働記』講談社文庫、pp.52-53)
● 1979年3月28日、米国、ペンシルヴェニア州ハリスバーグのスリーマイル
島原発で、原子炉の冷却系が誤作動(冷却材喪失事故、LOCA)し大量の放
射性ガスが大気に噴出。アメリカはこの事故によって、新規の原発を中止
するという道を選んだ。
この事故は約7日で収束したが、発電所から80km以内に住む約216万人が
受けた放射線量は平均で0.01mSv(ミリシーベルト)だった。これは自然状
態で癌に罹患する32万人に0.7人を加えたものに匹敵するという。(後半部
は、飯高季雄氏著『原子力重大事件&エピソード』日刊工業新聞社、pp.196
-198より要約)
● 1979年7月、アメリカ・ニューメキシコ州にあるユナイテッド・ニューク
リア社のウラン鉱の鉱滓(テーリング)用ダムが決壊した。放射能を含んだ
40万トンの水と1000トンを越えるテーリングはそのままプエルトリコ川に
流れ込み約100キロにわたって流域を汚染した。事故周辺地域はナバホ・イ
ンディアンの居留区で、彼らの飲料用の井戸からも放射能が検出された。
今でも(1981年頃)流域ではウラン、ラジウムなどの高濃度の放射能が検出
され、利用が禁止されているという(高木仁三郎氏著『プルトニウムの恐
怖』岩波新書、p.86)
● 1980年1月25日、東電福島原発1号機が定期検査に入った。その作業にお
いて平井憲夫氏(当時47歳)らはノーマスクで原子炉建屋内にはいり原子
炉周辺の清掃作業を行った。その際同僚の作業員2人が通常の約6倍と100
倍の大量被曝を受けたという(恩田勝亘氏著『東京電力 帝国の暗黒』七つ
森書簡、pp.62-71)。この事故は東電により完全に隠蔽された。
 ★ 1980年秋のある日。日本のどこか。東海村の動力炉・核燃料開発事業団
の施設から、敦賀の新型転換炉「ふげん」に向けて、パトカーに前後を守
られながらも、それと目立たぬようにひっそりと、3台のトラックが走り
だした。それは、プルトニウム24キログラムを含む原子炉燃料の運搬トラ
ックだった。そのルートは、「核ジャック」防止を理由に私たち誰にも知
らされず、日付も明らかにされていない。しかし、一般のトラックと同じ
ように、一般の道路や高速道路を、おそらく私たちの寝ているすぐそばを
走り抜けていったことだろう。そして、そのトラックには、原爆をつくる
ならば3発分、また、 1兆人分の許容量にあたる毒物(プルトニウム239と
しての毒性で計算、先のプルトニウム238とは毒性が違うことに注意)が
積まれていたのである。「ゼッタイに漏れない、ゼッタイに安全」という
評価だけを頼りにして。このことは私たちが、いつの間にかプルトニウム
を大量につんだトラックが走りまわる時代の入口に立たされていることを
教えている。(筆者注:重水漏れ事故「ふげん」は後に廃炉が決定)

<無謀・無能・無責任の繰り返し>
 敦賀3、4号炉(福井県敦賀市)は、一基あたり153万キロワットという
世界最大の出力が計画されている。ところが、責任者である日本原子力発
電(原電)の鷲見禎彦社長は「8300億円を投じて建設する原発の電気が売
れない恐れがある」(「日本経済新聞」2000年4月24日付)と心配している、
という。
  運転が開始されたにしても、発電単価が当初、1キロワットあたり10円に
つく。これは最新鋭の火力発電の6円よりも、はるかに高い。まして将来の
廃棄物処理や廃炉のコストははいっていないというのだから、建設自体が
経営の足を引っ張ることになる。それでも、経済産業省は、かつての軍部
のように、敗色濃厚にしてなお、「聖戦」を唱えている。
  将来、戦争責任が問われるのは明らかだが、これ以上の戦傷者の発生を
思えば、あまりにも無能、無責任すぎる。あたかも、3000の将兵を積んで、
沖縄にむけて「特攻」を敢行した戦艦大和の無謀に似ている。
財務省幹部が銀行へ、国土交通省幹部がゼネコンへ天下っているように、
経済産業省幹部が鉄鋼・造船ばかりか、原発プラントを受注する電機・重
工業業界に天下っているのは公然たる事実である。核燃料加工会社である
JCOの高木俊毅前社長が、通産省からJCOの親会社である住友金属鉱山へ天
下っていたのは、いまだに記憶にあたらしい。
  この癒着の構造が、原発戦争継続の最大の理由である。これからの原発
輸出と廃棄物の再処理引き受けが、原発関連産業の欲望である。その欲望
のために、地域の住民ばかりでなく、アジアのひとたちまで危険にさらさ
れようとしている。
  ついでにいえば、オーストラリアのアボリジニー(先住民族)が反対し
ているにもかかわらず、世界遺産・カカドウ国立公園の中でウラン鉱山を
開発する会社へ出資しているのは、関西、九州、四国電力などである。
(鎌田慧氏著『原発列島を行く』集英社新書、pp.90-10より)

<プルトニウム239の特性>
プルトニウム239は以下のようにα線やβ線を出して核種が変化する。
プルトニウム239(α線)--->ウラン235(α線)--->トリウム231(β線)
--->プロアクチニウム231(α線)--->アクチニウム227(β線)--->
トリウム227(α線)--->ラジウム223(α線)--->ラドン239(α線)
--->ポロニウム215(α線)--->鉛211(β線)--->ビスマス211(α線)
--->タリウム211(β線)--->鉛211(安定)
(安斎育郎氏著『福島原発事故』かもがわ出版、pp.28-29)

● 1981年1月10日、19日、24日、3月8日と4回にわたり敦賀原発で大量の放
射能排液事故。この事故は4月になって明るみになった。
事故により廃棄物処理建屋内のフィルタースラッジタンク室から漏れだ
した大量の放射能排液をチリ取りですくって寄せ集め、雑巾をひたしバケ
ツにすくい取る作業が行われた。バケツの排液はそのまま地下のマンホー
ルに捨てられ。そこから浦底湾に流れ出ていた。延べ278人もの被曝労働者
のリストは秘匿された。(樋口健二氏著『原発被曝列島』三一書房、pp.31
-38)
● 1981年4月18日、日本原子力発電・敦賀発電所事故報道。
福井県の定期モニタリング調査で、海藻から高い放射線が検出された。
さらに一般排水路の土砂からも高い放射能が検出された。そもそも雨水や
一般生活排水に存在する子とのない放射性廃棄物が含まれていたことにな
る。結局このミステリーは処理建屋内で溢れた放射性廃棄物が、欠陥工事
で作られた建屋床のヒビ割れを通り、処理建屋の下を通っている一般排水
路に流れ込んでいた(総量約10億Bq)ことが判明して解決された。(飯高
季雄氏著『原子力重大事件&エピソード』日刊工業新聞社、pp.185-187)
・(安斎育郎氏著『福島原発事故』かもがわ出版、pp.76-77)
● 1984年10月21日、東京電力福島第一原発2号機で臨界事故発生。この原子
炉の暴走は「数秒程度で止まり」「臨界は低く安定しており」などとして、
作業員100人もの被爆を軽んじていた。(坂昇二・前田栄作氏著『日本を滅
ぼす原発大災害』風媒社、pp.24-26)
● 1985年、アメリカ。エドワード・マーキー議員が放射能人体実験解明小
委員会の聴聞会報告書を「アメリカの核モルモットーー米国市民にたいす
る30年にわたる放射能実験」と名づけた。一連の実験はマハッタン計画に
はじまり、末期癌患者のみならず妊婦や囚人、ホームの知能停滞者が含ま
れていた。(メアリー=ルイーズ・エンゲルス『反核シスター ロザリー・
バーテルの軌跡』中川慶子訳、緑風出版、pp.160-161)
● 1986年1月、アメリカのセコイヤ燃料会社の工場でウランのボンベが爆発。
飛び散ったウランが空気中の水分と反応して有毒ガスが発生。このガスを
吸い込んだ労働者が肺そのものの熱傷(体内被爆)で死亡。
(西尾漠氏著『新版 原発を考える50話』岩波ジュニア新書、p.139)
● 1986年4月26日1時23分、ソ連チェルノブイリ原発4号基が大爆発。これま
での原発史上最大の爆発とされた。最初に気づいたのはスェーデン気象台
で、飛散した放射性の塵からルテニウムを検出したことがきっかけだった。
(あとの付録で日本でのシミュレーションを行ってみた)。
● 1986年5月、原子炉等規制法の改悪(3月提出、あっという間の成立)。
これで従来捨てることができなかった放射性廃棄物が個体で地下に埋設
することが可能になった(事業者:日本原燃)。
(西尾漠氏著『新版 原発を考える50話』岩波ジュニア新書、pp.70-71)
● 1986年11月、アメリカのサリー原発2号機で給水ポンプ入口配管が破断。
翌年7月にはアメリカのトロージャン原発でも広範囲に配管が劣化。この
後日本であわてて検査したところ、あちこちでひび割れ、すり減りがみつ
かった。(西尾漠氏著『新版 原発を考える50話』
岩波ジュニア新書、pp.114-115)
● 日本における食品中の放射能の暫定基準値(実は国によってマチマチ)
(チェルノブイリ原発4号基)事故直後の混乱が終わった後にも、この史
上空前の大事故は長く続く大きな影響を残すことになったのだが、そのひと
つが食品の汚染という問題だった。
  とくに問題となったのは、セシウム134とセシウム137という二つの放射能
で、これらは農作物や魚類などほとんどあらゆる食物に入ってきて、農漁民
やその土地の人々を苦しめただけでなく、輸出入を通じて、広く世界を悩ま
せることになった。
  ヨーロッパ各国では事故後しばらくしてから、汚染食品の流通を規制する
手が打たれたが、日本では、輸入食品の規制について厚生省が重い腰をあげ
たのは、事故後半年以上を過ぎた1986年の11月のことである。すなわち、厚
生省が専門家を集めてつくった「食品中の放射能に関する検討会」は、10月
に会議を開いて、「食品1キロ(ないし1リットル)あたり370ベクレル」と
いう暫定的な制限値を設けた。そしてセシウムの放射能がこの値を超えたも
のは、食品衛生法第四条違反に相当するとして輸入を認めない(積み戻しを
指示する)という方針を決めた。これが暫定基準といわれるものだ。
  規制値を決めると同時に、厚生省はヨーロッパからの輸入食品について抜
き取り検査を始めた。その結果として、先述のように翌年の1月から実際に
積み戻しに該当する汚染食品が検出され始めたのだった。(高木仁三郎・
渡辺美紀子氏著『食卓に上がった放射能』七つ森書館、pp.12-13)
● 1987年1月6日、福島第2原発3号炉で再循環ポンプ損傷事故。
● 1987年4月23日、福島県沖地震(M6.5)のため福島原発1・3・5号炉で弱
い揺れ(60ガル)のため緊急原子炉停止信号が出ず、燃料集合体と制御棒
の揺れが原因で出力が上昇し原子炉の出力異常による緊急停止信号が発信
され制御棒が挿入され大事に至らなかった。(原発老朽化問題研究会編
『まるで原発などないかのように』現代書館、p.131)
● 1988年、岡山県人形峠周辺のウラン採掘残土の放射線量が久米三四郎氏
(当時大阪大学講師)と市民グループによって測定された。最大131ミリ
シーベルトという値で、これは国が定める年間被爆許容量の130倍。
● 1988年10月17日午前9時、北海道積丹半島岩内湾(町)堀株地区の泊原
発1号機の試運転が始まった。これはチェルノブイリ原発事故後初めての
日本における原発の稼働だった。その後11月16日に臨界を迎えた。1989年
3月20日に100%運転(6月22日に営業運転)となった。(また2号機は1991
年4月12日に営業運転を開始)。
● 1989年〜1990年、フランスで「フェニックス」(高速増殖炉)に事故多
発。反応速度低下、出力異常(急激な出力の高低の振れ)などを認めたが、
何一つその原因の確定に至らず。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集
<プルートーンの火>』七つ森書館、pp.357-359より)
● 1989年、脱原発を実現する目的で株を購入した株主たちが「脱原発・東
電株主運動」が結成される。(平成25年現在のリーダーは木村結氏)。
(大下英治氏著『逆襲弁護士 河合弘之』さくら社、p319)
● 1989年1月6日、東電福島第二原発3号機が異常を示し手動停止した。これ
は(後にわかったことだが)、はじめての警報ではなく前年暮れから 3回
もトラブルが起きていたのだった。原子炉内の冷却水再循環ポンプ内部に
部品が脱落し、ボルトや座金が原子炉内に流入するという国内でも前例の
ない大きな事故で、その後の調査で脱落した金属片は最大30kgの重さだっ
た。しかも東電はこの事故を正月の間隠し続け、事故報告の1月6日にも、
異常を示す警報を鳴りっぱなしにして7時間も運転を続けていた。
・・・(中略)・・・事故の経過説明に県庁を訪れた東電の池亀亮原子力
本部長がこう発言したのである。(謝罪直後の記者会見で)
「安全性が確認されれば、炉心に流入した座金が回収されなくても運転
はありうる」(後になって原子炉に流れ込んだ部品は約30kgに上ること
がわかった)。
・・・(中略)・・・
この事故で、強烈な教訓として残ったのは、「国策である原子力発電の
第一当事者であるべき国は、安全対策に何の主導権もとらない」という
「完全無責任体制」だった。(佐藤栄佐久氏著『知事抹殺』平凡社、p.51
-53)(佐藤栄佐久氏著『福島原発の真実』平凡社新書、pp.26-30)
● 1990年9月9日、東電福島第一原発3号機事故。
主蒸気隔離弁を止めるピンが壊れ原子炉圧力が上昇して「中性子束高」
の信号により原子炉が自動停止。
● 1991年2月9日、機械的な共振振動による金属疲労のため、美浜2号機の
蒸気発生器内で電熱管がギロチン破断(配管がすぱっと真っ二つに割れる
ような破断)し、一時冷却水が失われあわやメルトダウン事故を起こすと
ころだった。(原発老朽化問題研究会編『まるで原発などないかのように』
現代書館、pp.76-78)
● 1991年12月、福島原発で働いていた人が慢性骨髄性白血病で死亡。日本
で初めて、原因を放射線被爆として労災認定。
● 1992年3月と4月に青森県六か所村で「ウラン濃縮工場」と「低レベル放
射性廃棄物埋設センター」が操業開始。(ただしその後の予定の高濃度放
射性物質を含む排液をガラス固化しようとする「再処理工場」はH23年8月
時点で全面休止中)。(鎌田彗氏・斉藤光政氏共著『ルポ 下北核半島』
岩波書店、p.15)
<六か所村は問題山積>
六ヶ所村の再処理工場では、問題が続いています。放射性物質を含む
低レベル濃縮廃液の漏洩、硝酸ウラナス溶液の漏洩、試薬の漏洩、作業
員の内部被曝、低レベル廃棄物処理建屋での放射性物質を含む洗浄水漏
洩、ウラン・プルトニウム溶液の誤供給、エンドピース(使用済み核燃
料の剪断片)を洗浄する装置の部品の変形、剪断機からの作動油漏洩、
使用済み核燃料再処理工場建屋での高レベル放射性廃液の漏洩、東北地
方太平洋沖地震による外部電源喪失、使用済み核燃料の貯蔵プールの水
の漏洩等が続き、未だに再処理工場は稼働していません。(河野太郎氏
著『原発と日本はこうなる』講談社、p.165)。
● 1992年6月、フランスが高速増殖炉「スーパーフェニックス」の運転再
開を中止。
● 1992年7月、イギリスが高速増殖炉PFRの打ち切りを決定、さらにEFR(
ヨーロッパ高速炉計画)からの撤退を決定。
● 1992年11月、ドイツの電力大手二者が大胆な脱原発・脱プルトニウム構
想を明らかにした。
● 1993年1月3日、「脱プルトニウム宣言」(高木仁三郎)
全文は高木仁三郎氏著『市民科学者として生きる』岩波新書、pp.185-
188ページ参照。以下は結び部分。
  現在の日本のプルトニウム政策は、官僚とそれをとりまく一部の学者
・技術者たちの手に委ねられているが、彼らは自己の利害のかかった
巨大プロジェクトを自ら断つことはできないであろう。彼ら「専門家」
や「識者」に判断を委ねるのは、自分の命や子供たちの将来を委ねてし
まうにも等しい。プルトニウムのように猛毒で、核兵器になりやすく、
また秘密の壁をひたすら厚くしなくては守れない物質と、安全で民主的
な社会がいったいどう相容れるのか、日本のすべての人々が、真剣に考
え、決断すべきときだと信じる。
● 1993年11月27日、宮城県北部地震(M5.8)あり。女川原発1号炉では弱
い揺れだったため緊急原子炉停止信号が出ず、燃料集合体と制御棒の揺
れが原因で出力が上昇し原子炉の出力異常による緊急停止信号が発信され
制御棒が挿入され大事に至らなかった。(原発老朽化問題研究会編『まる
で原発などないかのように』現代書館、p.131)
● 1993年12月7日、米国ではエネルギー省(DOE)長官に任命されていた
ヘイゼル・オリアリー女史が完全機密組織に変貌していたDOEの体質を解
放した。
・「冷戦はすんだ。・・・事実を言おう」
・「放射能人体実験」
一つが、18人にしたプルトニウム注射です。ぞっとしまし
た。・・・、今の基準に合う同意を患者から得たとは思えま
せん。被験者の名も公表したかったが、DOEの法律家に止め
られた。国民の知る権利と、残されたご家族の思いを秤にか
け、こういう形にとどめさせてもらいます。
(アイリーン・ウェルサム『プルトニウムファイル<下>』)
● 1995年、青森県六か所村で「高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センター」
が操業開始。フランスやイギリスから返還されたガラス固化体(キャニス
ター)2200本を貯蔵管理し、さらに貯蔵施設を増設中である。(鎌田彗氏
・斉藤光政氏共著『ルポ 下北核半島』岩波書店、pp.15-16)
● 1995年12月8日、高速増殖炉「もんじゅ」で液体ナトリウム漏れ事故
(共振振動による金属疲労のため熱電対のさや管破損)と公開上の度重な
る欺瞞。(この事故は全く初歩的な設計ミスだったことも判明)。

<高速増殖炉の危険性>(日本では『常陽』(茨城県東茨城
市大洗町)、『もんじゅ』(福井県敦賀市白木))
高速増殖炉は、その構造の特殊性から、軽水炉のもつ潜在的危険性に
加えて、軽水炉にはない安全上の問題点をもっている。それらを詳述す
ることは専門領域に属することといえそうだが、基本的な点だけはおさ
えておこう。
高速増殖炉の基本的な難しさは、軽水炉と比べて炉心の出力密度が高
く、温度も高いことである。表5-2(ここでは省略)に、高速増殖炉と
軽水炉の基本的なデータの比較を掲げておく。この表をみても分るよう
に、さまざまな数量的因子が場合によっては一桁近くも高速増殖炉の方
が高く、それだけ反応の制御や安全設計に難しい点が出てくる。
それと同時に大きな問題は、毒性の強くやっかいなプルトニウムの炉
心内蔵量が多いということである。炉心とブランケットを合わせて、大
型の高速増殖炉では高温の原子炉が内蔵するプルトニウム量は、数トン
に達する。また、高速増殖炉が実用化されることになれば、核燃料サイ
クルで取扱われるプルトニウム量は飛躍的に増大する。これは、核拡散
問題まで含めて大きな社会問題となる。
  次に、冷却材としてナトリウムが使われることも大きな問題である。
ナトリウムは、腐食性に富むため、配管の腐食の問題が深刻となる。さ
らに、一次系のナトリウムは原子炉内で放射性となり、冷却材自体が強
い放射能を帯びるという軽水炉にはない問題が生じる。そして、ナトリ
ウムがきわめて反応性に富む物質で、水に接触すれば爆発的に反応する
(燃える)という点が、何よりも恐れられていることである。そのナト
リウムと水が熱交換器のパイプの薄い金属を隔てて接しているからだ。
高温のナトリウムは、空気中でも燃える。
(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書
館、pp.236-237:1981年『プルトニウムの恐怖』を著作集に再録)

<ドイツにおける高速増殖炉放棄についての感想>
  高速増殖炉の内部で本当に深刻な事故が発生した場合に、どういうこ
とに至るのかということについては、未だ科学が及んでいない領域だと
思います。その科学が及んでいないところを、不確かさと見て、人間の
安全の立場から許容しがたいとするのか、分かってないからと言って、
手抜きをして作業をしないでごまかしてしまうのか、そういうところで
高速増殖炉を許容するかしないかということが分かれると思います。
ドイツで高速増殖炉が放棄されたのは、そこに誠実である人たちが一定
程度州当局の中にいたということに尽きると思います。日本の場合には、
まったく粗末な安全審査の結果で、それゆえに今日になっていると思い
ます。(『もんじゅ訴訟』第28回口頭弁論(1993.7.16)において。高木
仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館、
p.395より)

<小林圭二氏(元京都大学原子炉実験研究所講師)の警告>
  昨年(2008 年)の原子力学会年会、14の分科会に分かれた広範かつ膨大
なプログラム の中に「ナトリウム冷却型高速炉の原子炉容器内観察・補
修技術の開発」という地味な タイトルが含まれていた。特に注意はして
いなかったが、直前に送られてきた予稿集を読 んで、「おや、これは何
だろう」と思う記述があった。「計測線付実験装置と回転プラグとの干
渉」という短い記述である。胸騒ぎを覚えて当日の口頭発表を聞きに行き、
そこで高 速増殖実験炉「常陽」で事故があったことを初めて知ったので
ある。 常陽は茨城県大洗町にある熱出力14万キロワットの実験炉で、発
電設備は備えてない。 現在はもっぱら将来の高速増殖炉用燃料や材料の
開発のための照射試験用原子炉として使われている。「常陽」の炉心は、
「もんじゅ」と同じような六角形の燃料集合体85体で構成されている。照
射試験は、炉心のど真ん中を含む6か所で行えるようになっている。2007
年5月の定期検査時に、そのうちの1つに入れていた MARICO-2と呼ばれる
照射試験用実験装置を抜き、原子炉容器内壁近くのラックへ移した。
MARICO-2 をそこで切り離し、移動装置だけ元の位置に戻した。ところが、
照射実験装置がラックにキチンと収まっていなかったか、あるいは移動装
置の掴みがはずれなかったために、移動装置の移動によって MARICO-2の
上部が引きちぎられてしまった。MARICO-2はラックの上へ9センチもはみ
出し、その突起物が移動装置の移動にともないラック上を通過した炉心上
部機構にぶつかり、炉心上部機構の下面を破損させた。
ところが、事故の発生は約6か月後までわからなかった。11月の燃料交
換作業で操作不能が起こり、その原因調査で初めて損傷に気がついたので
ある。破損の発生も、それに気がつかなかったことも、ナトリウムが水と
ちがって不透明なことが基本的要因となっている。その不透明さが、破損
の調査自体も大変困難にした。破損部を探査するためには、原子炉容器内
のナトリウム液位を、炉心上面が裸になるまで下げなければならない。炉
心上面と炉心上部機構の間はわずか7センチだ。炉心上部機構の下面を調査
するには、その隙間へ上向きの観察・撮影機器を差し込み、原子炉容器外
から遠隔操作できる特殊な取扱装置を開発しなければならない。学会の発
表はその装置の開発と模擬テストを報告するものだった。 特殊装置によ
る調査の結果、炉心上部機構の下面では制御棒案内管が曲げられ、冷却材
の整流板が下へ垂れ下がっていた。照射実験装置の移動装置は引きちぎら
れた MARICO-2 の上部(ハンドリングヘッド)を掴んだままの状態で、それ
を試料部とをつないでいた6本のピンはなくなっていた。数々の損傷の中で
も制御棒のスムーズな動作を妨げる案内管の損傷、原子炉容器内に散乱さ
れた固定ピンの行方は、安全上極めて重大な事態である。
同様の事故が「もんじゅ」で起こればどうなるだろうか。そもそも「もん
じゅ」では、究極の事故=炉心崩壊事故対策として、ナトリウム液位を炉心
上面が見えるところまで下 げられない構造になっている。破損を見つける
こと自体できない。
「常陽」で失われたピンの探索・回収は困難を極める。前例が1966年、
米国高速増殖実験炉フェルミ炉で起こった。剥がれた板が冷却材流路を塞
ぎ、過熱した燃料が溶融した事故である。特殊な遠隔操作機具を開発し、
失われた板の回収に2年近くを要した。固定 ピンはより小さいため、探す
だけでもフェルミ炉事故の場合よりずっと困難だろう。どこかに挟まり冷
却材の流れを塞げば炉心溶融につながる。炉心が溶融すると原子炉の反応
度が増大するので暴走事故につながるかもしれない。(フェルミ炉や「常
陽」は実験炉で小型のため、その影響は「もんじゅ」より軽減される)。原
子炉容器内に異物を落としてしまうトラブルはあり得ることだ。高速増殖
炉ではそれが致命的になる可能性が大きい。
「常陽」の事故は、軽水炉にない高速増殖炉特有の危険性を如実に示して
いる。それが、原子力界内で目立たぬように処理されようとしている。修理
には2年〜4年、40 億円〜100億円の費用がかかると言われている。こんな原
発が実用になるはずがない。

● 1996年8月4日、原発建設計画を問う最初の住民投票が新潟県巻町(当時)
で行われた。投票率88.3%、有効投票数の61.2%にあたる12478票が原発建設
に反対。反対票は全有権者数に対しても53.7%と過半数を越えた。
結局東北電力は2003年12月24日、正式に巻原発計画を撤回。
● 1997年2月、プルサーマル計画閣議了解。(もんじゅ事故で行き場がなく
なったプルトニウムを。各地の原発で消費するという国策変更だった)。

<プル・サーマル計画の問題点>
  すでに述べたように、この何十年という期間を考えても、高速増殖炉
が多量のプルトニウムを消費するというようなことは実現しそうもない。
その間、軽水炉によるプルトニウムの生産が続けば、プルトニウムはむ
しろたまり続ける。そのたまり続けるプルトニウムを軽水炉で燃やそう
というのが、プル・サーマル計画である。サーマルとは、サーマル・リ
アクタ(熱中性子炉)からきている。
原理的にはこの方法は可能である。プルトニウムはウランにまぜて、
混合酸化物燃料として使用することになる。実際この方法で、プルトニ
ウムを燃やす試験をすることが、すでに日本でも1970年代初期から検討
され、美浜1号炉で試みられることになっていた。このことについては、
日本のプルトニウムがアメリカに売られる問題に関連して、第四章で触
れた。その後に美浜1号炉が、燃料棒大破損や蒸気発生器の事故で長い
間運転を停止したため、現在までその試験は実施されないままになって
いるが、今後復活することになりそうだ。政府の計画では90年代には実
用化したいとしている。
  1978年に出された資源エネルギー庁の「核燃料サイクルに関する検討
結果中間とりまとめ」によると、プル・サーマル計画の意義を、(1)燃料
節約効果、(2)プルトニウムを貯蔵所で保管するより、原子炉内に入れて
おいた方が核拡散防止上好ましい、(3)高速増殖炉時代への技術的訓練、
の三点にあるとしている。
このうち(1)以外は、とってつけたというか、本来的な必然性のない
理由である。(1)の燃料節約効果があるかどうかという点もそう自明では
ない。高速増殖炉とは異なるといっても、プル・サーマル計画はプルト
ニウム・リサイクル計画である。仮にそれが核燃料節釣上の効果をもつ
とすれば、それは核燃料サイクル全体が「プルトニウム経済」という形
で回転する時のことだろう。それにともなって、本書で述べたようなプ
ルトニウムに関するあらゆる問題が問われることになる。それを覚悟で
実行するだけの魅力が、プル・サーマル計画にあるとは思われない。も
ちろん、プル・サーマル計画にともなって、プルトニウムの安全上の問
題が、社会に大きな重荷を背負わすことになろう。実際、世界各国でも、
プル・サーマルの方向に歩み出した国はない。
(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館、
pp.252-253:1981年『プルトニウムの恐怖』を著作集に再録)
※プルサーマルを行おうとしている原発は玄海・伊方・浜岡。
(坂昇二・前田栄作氏著『日本を滅ぼす原発大災害』風媒社、p.166)

● 1997年3月11日、核燃料サイクル開発機構(当時、動力炉核燃料開発事業
団)の東海再処理工場のアスファルト固化処理施設において、充填済みドラ
ム缶数本に火災が発生し、午前10時13分頃消火した。火災の発生から約10時
間後の午後8時頃、同施設において爆発が発生し、建家の窓、扉等が破損し、
環境中に少量の放射性物質が放出された。
  アスファルト充填室と周辺の部屋との境にある扉等が吹き飛ばされ、建家
内の設備類、窓、扉等が破損した。また、換気系ダクトとフィルタの一部が
損傷を受けた。事故発生時に当該建家等にいた作業員129名のうち、37名の
体内から微量の放射性物質が検出された。
今回の事故を発生・拡大させた根本原因は、過去に3万本以上のアスファ
ルト固化体を安定的に製造してきた「慣れと安全への過信」があったことに
よるが、事故時の対応のまずさも被害を拡大させた。
● 1997年9月16日、日立の下請けが原発配管溶接工事での焼鈍記録を捏造。
● 1998年、日本最初の原発である東海原発は32年の寿命で運転を終了。原子
炉を含む全ての解体終了は20年あとの2018年といわれている。
● 1998年8月、中電はトレンチ(試掘溝)調査によって、原発から2.5kmの
地点で活断層が発見された、と告白した。それでも、その長さは8kmなので、
地震が起きた場合でも、せいぜいマグニチュード(M)6.3どまり。耐震設計
M6.5の範囲内内である、という。(鎌田慧氏著『原発列島を行く』集英社
新書、p.54より)
● 1998年10月1日、相次ぐ事故隠しと虚偽報告が発覚して動力炉・核燃料開
発事業団(動燃)が核燃料サイクル開発機構に改名。
● 1998年10月4日、使用済み燃料・MOX燃料の輸送容器の中性子遮蔽材デー
タ捏造・改ざんが内部告発で発覚。
● 1999年6月18日午前2時18分、志賀原発1号機で原子炉が暴走状態になった。
(この事実は2007年3月まで秘匿されていた)。緊急停止の試みは失敗、メ
ルトダウンの危険さえあった。原因は制御棒3本が抜け落ちたまま挿入不能
になっていたためだった。結局運転員の努力により午前2時33分制御棒が炉
に挿入され15分間の臨界事故はきわどく収束した。(坂昇二・前田栄作氏
著『日本を滅ぼす原発大災害』風媒社、pp.12-13)
● 1999年7月12日、敦賀2号炉で一次冷却水漏れ事故(熱疲労による破断)。
この事故はフルパワーで運転中の原発を冷やせなくなる恐れを招く重大な事
故だった。メルトダウンに至らなかったのは天の僥倖としかいえない事故だ
った。しかも原発側はなにくわぬ顔で、原発の見学者を案内していたという。
ノーテンキなものである。

・・・原子炉手動停止のあと、原発内では事故の対策におおわらわに
なっていた。が、原発構内ではふだんとかわらず、見学者たちが事故に
ついてはなにも知らされることなく、ぞろぞろ歩いていた。原発見学ツ
アーは、原発予定地の住民を招待して、安全性を宣伝する「買収ツアー」
だから、事故発生を告げ、中止にするわけにはいかなかったようだ。
  たしかに、格納容器のなかにはいるわけではないので、放射能汚染の
危険性はなかったかもしれない。しかし、「安全性」をまことしやかに
説明しながら構内をひきつれて歩いている裏側では、高温の一次冷却水
がコンクリートの床にあふれていた。豪胆というべきか無神経というべ
きか、このチグハグぶりは見事というしかない。(鎌田慧氏著『原発列
島を行く』集英社新書、p.75より)

● 1999年9月30日午前10時35分、東海村JCOウラン臨界事故。
ウラン0.5〜1mgが燃え、現場作業員3人のうち2人が強烈な中性子線被曝
で死亡(被曝線量は1人が16〜20Gy、もう1人は6〜10Gy)、1人が重大な被
曝(1〜4.5Gy)。さらに多くの付近住民も放射性ヨードや中性子線に被曝
した。臨界がおさまったのは事故発生から19時間40分後の10月1日午前6時
15分だった。被爆者の数最終的には666人だった。

※ 何と、許可(ウラン加工事業変更許可)申請のため提出した作業
過程のなかで硝酸ウラニルという溶液ができる(一度できた粉末の
ウランを硝酸に溶かす)のだがその溶液製造過程というものがスッ
ポリと抜け落ちていた。そして実際の作業では、本来存在し得ない、
従って許可のない過程のなかで、溶解塔さえパスして、一度の取り
扱い量を規定の1バッチ(ウランが臨界を起こさないための最高取扱
量)から大幅に逸脱して、硝酸ウラニル溶液の「混合均一化」(新
たな勝手に作った工程)をバケツ(ステンレス製容器)の中で、い
いかげんにやっていたというのが事故の直接原因だった。(七沢潔
氏著『東海村臨界事故への道』岩波書店、pp.21-22, 33-34,41-47)

※ 動燃は高速増殖炉計画の道を急ぎ、JCOはその要請に従って許認可
の取得を急ぎ、国の安全審査官もまた自分の任期が気になりながら
審査終了への道を急いでいた。
「安全」を構築する立場にある三者が、みな揃って臨界事故への
道を急いでいたのである。
ここまで見てくると、JCOの転換試験棟改造をめぐる国の安全審査
には、「拙速」という言葉がいかにも当てはまる。
そしてその責任はJCO、動燃、国の安全審査のすべてにあることが
わかる。
もちろん安全審査の中には、一次審査の不備に気づきながら「差し
戻し」するなど取るべき措置を講じなかった原子力安全委員会の対
応も含まれる。しかし、こうした安全審査でミスをした人々も口を
そろえて問題視するのが、混合均一化工程が安全審査終了後二年も
たってから持ち込まれ、しかもクロスブレンドという手法が加工事
業変更許可申請という形で科技庁に伝えられず、安全審査の手続き
を経ていなかったことである。しかも、臨界事故はこの無届けの工
程で起こっている。(七沢潔氏著『東海村臨界事故への道』岩波書
店、pp.80-81)

● 1999年9月14日、12月16日、福井県高浜原発で使用するMOX燃料(英国
BNFL社)の寸法データ改ざん・捏造事件。--->プルサーマルの延期。
● 2000年5月31日、原発廃棄物をてっとりばやく、深さ1000mほどの地層
に隠してしまおうという「高レベル放射能廃棄物処分法」(「特定放射
性廃棄物の最終処分に関する法律」)が、ロクな審議もなく可決。特定
放射性廃棄物とは高レベル放射性廃棄物のガラス固化体のこと。隠匿候
補とされているのは北海道幌延地区や岐阜県の東濃地区、岡山県人形峠
、青森県の六ヶ所村などが狙われている。このガラス固化体を地下に埋
めて捨てる事の安全性はまったく確立されてない。
(西尾漠氏著『新版 原発を考える50話』岩波ジュニア新書などより)
● 2000年10月8日、高木仁三郎氏逝去。
● 2000年11月、青森県むつ市が核廃棄物を受け入れる事に決定。およそ年
間20憶円とされる「電源三法交付金」と固定資産税などをあてこんだ、カ
ネと危険を引き替えにする大バクチである。
● 2001年11月7日、浜岡原発1号炉でECCS配管が爆発(水素爆発)。(浜岡
原発は東海大地震の想定震源域の真上に立っている)。
● 2001年12月、ドイツのブルンスビュッテル原発で水素爆発。(ステファ
ニー・クック著『原子力その隠蔽された真実』藤井留美訳、飛鳥新社、
p.316)
● 2002年2月、アメリカ・オハイオ州デイヴィスベッセ原発で原子炉圧力容
器の上蓋にパイナップル大の錆びた穴を発見。そこは制御棒の貫通部だっ
たが、炭素鋼でできた上蓋は腐食によって重さ32kg、深さ約15cmが失われ
ていた。同炉はメインテナンスと燃料交換のため運転を停止していて大災
難は免れた。(ステファニー・クック著『原子力その隠蔽された真実』藤
井留美訳、飛鳥新社、p.314)
● 2002年5月28日、東電柏崎刈羽原発3号機が立地する新潟県刈羽村でプル
サーマル計画導入の賛否を問う住民投票で反対票が54.3%を占めた。
● 2002年8月29日、日本の原子力安全・保安院が「東電が過去少なくとも10
年間にわたって原発の自主点検作業記録とひび割れに関する記録を改ざん
していた」と発表。東電は最終的には1977年〜2002年の20年以上、技術デ
ータの虚偽報告を含む200件の不正を行っていた。(ステファニー・クック
著『原子力その隠蔽された真実』藤井留美訳、飛鳥新社、p.314)
● 2003年4月14日の午後福島第一原発6号機が安全点検のため原子炉を停止。
これで東電のもつ全ての原発(福島10基、柏崎刈羽7基)が全て運転停止
(--->5月7日柏崎刈羽の1基が運転再開されるまで続く)。
● 2003年4月15日、東京電力の原発にまつわる相次ぐ不正(シュラウドと
再循環系配管のひび割れ隠し)により全17基の原発が運転停止。(詳しく
は、原発老朽化問題研究会編『まるで原発などないかのように』現代書館、
pp.79-87あたりを参照)
● 2003年12月、石川県珠州原発、新潟県巻原発という二つの原発計画が相
次いで断念された。
● 2004年初頭、全国で52基、4574.2万kwの原発が運転中。
(最後の数項目は武本和幸氏他『希望の未来へー市民科学者・高木仁三郎の
生き方ー』七つ森書館、pp.53-55より)
● 2004年8月9日、福井県の関西電力美浜原発3号機の蒸気噴出事故。死傷者
11人(6人死亡・5人重症火傷)を数えた。この事故はタービン建屋内の配
管が破裂した(原発を止めず運転士ながらの作業)ことで発生し、その原
因を辿れば人災であり、運転開始から約28年間もの間一度も配管の点検を
しておらず、最初1cmだった配管の肉厚が、わずか0.4mmまで薄くなってい
たことが判明。
その後の点検では5734箇所の配管のうち29箇所において配管の肉厚が0.1
mmから2.6mmの範囲で基準より細くなっていた(H15年5月12日、朝日新聞)。
この美浜原発は、過去にもいろんな事故を起こし、時にはその事実を何年
も隠蔽していたという恐ろしい体質をもった原発である。

※ 原子炉は「一日止めれば一億円の損失」といわれる。関西電力が
国の安全基準を割り込んだ配管を「当面、安全には影響ない」とし
て次の定期検査まで交換を先延ばししてきたのは、配管の交換をす
れば原子炉を止める日数がその分多くなってコストを押し上げ、ひ
いては原子力の発電単価が高くなり、その結果火力など他の電力源
との市場競争で不利になるので、それを防ぐためだったという。
(七沢潔氏著『東海村臨界事故への道』岩波書店、<はじめに>より)

● 2004年11月22日、青森県六ヶ所村原発廃棄物再処理工場の稼働を県知事が
承認。プルトニウムをどのように使うか全く宛てのない未来へ対する見切り
発車。(日本みんなオオバカものの集まりだ!!)

※「六ヶ所村には日本が凝縮している」(坂昇二・前田栄作氏著『日本を
滅ぼす原発大災害』風媒社より)
「原子力政策は放射能のゴミ(筆者注:H23年現在日本全国で年間約
1000トンも出る)問題を先送りして推し進められてきましたが、その
しわ寄せが六ヶ所村で顕在化しているのだと思います。それは原子力だ
けにとどまらず、権力者と庶民の軋轢、開発による経済成長と自然破壊、
豊かさと貧困など、日本社会の矛盾全てが、小さな村ゆえに浮き彫りに
なって見える、ということではないでしょうか」(pp.232-233)
原発の建設が絶対に都市で進められないのは、人口が大きく、社会資
本が集中しているからだ。つまり僻地であるほうが、事故が起きた時に
犠牲者が少なくて済み、社会全体へのダメージも小さくて済む、という
論理である。
  だが、原発で発電された電気の恩恵を最も受けているのは、私たち都
市生活者だ。潤沢な電気エネルギーによる快適な生活と引きかえに、原
発という危険な施設を僻地に押しつけているのだ。だから、都市に住む
者こそ、原発立地の現実をよく見つめなければならない。核施設は立地
地域の環境を汚染し、経済の自立性を壊滅させ、住民の心そのものを挫
くものだ。原発や核燃施設立地地域から見た場合、私たち電力消費者は
”加害者”であることを自覚しなければならない。そして全国の原発か
ら核のゴミを押しつけられる六ヶ所村は、最も過酷な犠牲を強いられて
いる”被害者”である。
  しかし、再処理工場が稼動を開始すれば、そんな構図が大きく変わる。
日常的に垂れ流される莫大な放射能は、国土そのものを破壊し、海洋を
回復不能に汚染するほどの脅威となる。最大の被害者が未来の加害者へ
と変わろうとしている。すべては私たち自身の無関心が招いた事態であ
り、それを止められるのもまた私たちの意志をもってするほかにない。
ーー「六ヶ所村には日本が凝縮している」とは、そういう意味なので
ある。(pp.236-237)

● 2005年5月、寿命が尽きて廃止された原子炉から出る大量の放射性廃棄物
(一基あたり50万トン)を「放射能のレベルがきわめて低く、人の健康に対
するリスクが無視出来る」として、それを放射能廃棄物の取り扱いをしなく
てすむようにする制度が国会で成立(原子炉等規制法の改悪)。安全性を全
く無視した暴挙。
「豆腐の上の原発」(命名:地質学者・生越忠氏)と揶揄された新潟県・
柏崎刈羽原発(東京電力)で「1年間に発生した人為ミスは360件」と発表
(西尾漠氏著『新版 原発を考える50話』岩波ジュニア新書、pp.83,102,108)
● 2005年5月30日、福井県敦賀市の研究開発型高速増殖炉『もんじゅ』への
国の設置許可の安全審査上の不当性についての行政訴訟で、最高裁は二審判
決を破棄して住民側が逆転敗訴した。権力と司法と原子力財界の密接な癒着
が原子力行政でも再確認された。フランスが高速増殖炉「スーパーフェニッ
クス」の恐るべき危険性に鑑みて1998年にそれを廃炉に決定したことと比べ
るとき、筆者は日本の行政権力に携わる者どもの限りない無知無能・鈍感・
卑怯・狡猾・残忍さを痛感し暗澹たる気分になった。
● 2005年10月1日、独立行政法人「日本原子力研究開発機構」発足。職員約
4400人、予算規模約2000億円の巨大な原子力の研究開発組織。これまでの赤
字は4兆4000億円。日本原子力研究所(1956年)と核燃料サイクル開発機構
(1998)が悪名隠しで合併したもの。もともと両者は水と油の関係だったの
で、前途多難が予想される。
殿塚理事長が各所でインタビューに答えているところによれば、重点的に
取り組む分野は4つで、高速増殖炉、高レベル放射性廃棄物の処分、大強度
陽子加速器(高エネルギー加速器研究機構との共同研究)、核融合。前2者
が旧核燃料サイクル開発機構、後2者が旧日本原子力研究所の事業を引き継
ぐもの。いずれも大規模施設の建設が中心で、日本原子力研究所が行ってき
た安全研究には言及さえされてない。
(西尾漠氏著『新版 原発を考える50話』岩波ジュニア新書、pp.34-36)
● 2005年末現在、日本には54基、合計4822万kwの商業用原発が稼働中。アメ
リカ・フランスに次ぐ原発大国。総発電量に占める原発の発電量は約35%。
これらの原発が1年間に生み出すプルトニウムは約10トン。これで1200発
以上の原爆をつくることができる。(西尾漠氏著『新版 原発を考える50話』
岩波ジュニア新書、p.9, 94)
● 2006年2月、米国が「国際原子力エネルギー・パートナーシップ(GNEP=ジ
ーネップ)構想」を提案。これは実際は「核の不拡散」を最大の目的とした
もので、世界を「燃料供給国グループ」と「原子炉使用グループ」に分けて
、後者は開発技術を持たないただの燃料消費国になってしまうというもの。
(坂昇二・前田栄作氏著『日本を滅ぼす原発大災害』風媒社、pp.252-253、
GNEPの本質については同書の255-257ページを参照)
● 2006年2月24日、金沢地裁は、耐震性に問題があるとして北陸電力志賀原発
2号炉(沸騰水型炉;BWR)の運転差し止め判決を出す。運転差し止めは原発
史上始めての画期的な判決。
● 2006年6月15日、浜岡原発5号炉(ABWR、138万kw)で運転中に、発電用ター
ビンの動翼(回転翼)が根元から折れて車軸から飛び出した。この原発は前
年の1月18日に稼働をはじめたばかりだった。
結局原因は設計ミスによる金属疲労が原因だった。(原発老朽化問題研究
会編『まるで原発などないかのように』現代書館、pp.148-152)
● 2006年8月28日、石橋克彦氏(地震学者、神戸大学名誉教授)が原子力安全
基準・指針専門部会の耐震指針検討分科会第48回会合にて原子力安全行政の
本質をえぐりだす発言を行って抗議の辞任。

「私は地震科学の研究者として自分の知識や考え方を極力その社会に役
立てたいという気持ちでこの会に参加してきたわけでありますけれども、
このような分科会のありさまでは、このままここにとどまっていても、私
は社会に対する責任が果たせないと感じます。(中略)この状況では、む
しろ私としてはパブコメを寄せてくださった方に対する背信行為を行いつ
つあるような感じがいたします」
「(それまでの礼を委員たちに述べた後)しかし、最後の段階になって、
私はこの分科会の正体といいますか本性といいますか、それもよくわかり
ました。さらに日本の原子力安全行政というのがどういうものであるかと
いうことも改めてよくわかりました。私がやめれば、この分科会の性格と
いうものが非常にすっきり単純なものになるだろうと思います」
(佐藤栄左久氏著『福島原発の真実』平凡社新書、pp.210-211)
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※ 原子炉立地審査指針:原発を立地するには災害が起きそうもない
場所を選び、仮に大きな事故が起きたとしても放射性物質の漏出で
影響が及ぶ範囲には大勢の人が住んでいないこと
※ 安全設計審査指針:長期間にわたる全交流電源喪失は、送電線の
復旧又は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要
はない。
(以上、まことに奇怪な指針である)

● 2006年11月7日、福井県敦賀市の「ふげん」(2003年重水漏れ事故を起こし
た)が正式に解体となった(日本で2例目)。2028年までに約750億円をかけ
て解体する予定。廃棄物37万トンのうち放射性物質は5万3000屯。後者の行く
先はまだ決まってない。(平成18年11月8日、朝日新聞朝刊より)。
● 2007年3月、原発の隠蔽体質が次々と暴露された。
17日北陸電力志賀原発1号機で1999年6月18日に臨界事故があったことが発
覚。数日後中部電力浜岡原発3号機(1991年定期検査中)、東北電力女川原
発1号機(1988年7月定期検査中)で制御棒がそれぞれ3、2本脱落していたこ
とが発覚。全て沸騰水型原子炉で相次ぐ制御棒脱落に同型の原子炉の信頼性
が危うくなった。(朝日新聞朝刊より)
また22日には東京電力福島第1原発3号機で、1978年定期検査中に制御棒が
5本脱落し臨界状態になっていた可能性がある(原子炉メーカーの東芝の社
員が残したメモから)ことも暴露された。(朝日新聞朝刊より)
● 2007年5月、高速増殖炉「もんじゅ」に再びナトリウムが注入された。11
年間の運転期間中、いったいどのような補修が施され、どんな安全対策が講
じられたのかまったく明らかでないまま、2008年5月の運転再開をめざして
改造工事が急ピッチで進められている。(坂昇二・前田栄作氏著『日本を滅
ぼす原発大災害』風媒社、p.255)
● 2007年7月16日午前10時13分、新潟県と長野県を震度6強(マグニチュード
6.8)の地震(新潟県中越沖地震)が襲った。震源から約9km離れた新潟県
柏崎市刈羽原発(東京電力)もその影響で火災を起こし、冷却水漏れから放
射能漏れを起こした。(もちろん正確な情報開示は全く行われてない)。

約10か月後の2008年5月の東京電力による発表では、設計時にありそうもな
いとされていた(基準地震動S2)水平方向加速度450ガルをはるかに越える
1699ガルの地震動に襲われていたことが明らかになった。(後半部は原発老
朽化問題研究会編『まるで原発などないかのように』現代書館、p.46より)
-----<変わった柏崎市・新潟県、変わらぬ東京電力と御用学者>-----
  中越沖地震以降、新潟県や柏崎市は原子力発電所に大きな不信を持
つようになった。長年原発推進を続けてきた地方行政が大きく方向転
換したように見受けられる。背景には無責任な国の原子力行政と東京
電力の対応があったと考える。
  新潟県の泉田知事は、9月県議会以降、「現在は調査中、調査結果に
よっては廃炉もありうる」と繰り返し発言している。「国の調査では
真相解明はできない、新潟県原子力技術委員会の委員を拡充して国の
調査結果を検証する」としている。
  柏崎市の会田市長は、地震直後の敷地の破揖状況を調査した消防庁
・消防署の勧告で非常用発電機の軽油タンクの使用禁止命令を出した。
命令解除の条件は、安全確保と長年続いた地盤・地震論争の決着=地
域・国民のコンセンサスだとしている。
  背景には、地域の原子力に対する不信・疑念がある。被災地の最大
の関心ごとは柏崎刈羽原発の今後のことである。原発が運転再開して
不安な生活に戻るのか、原発のない地域づくりをするのかが地域に問
われている。
  推進派は依然として原発に寄生した地域づくりを画策している。現
段階での推進派の主張は、雇用の喪失と・税収減を含む経済損失であ
る。
  国と東京電力は、運転再開しか考えていない。耐震偽装手法を使っ
てキズモノ原発の再使用を画策している。その尖兵が原子力に群がる
「御用学者」である。その手口は、情報公開・説明責任の時代となっ
たため、不完全ではあるが公開されるようになった。彼らの手口を原
子力発電所に不信を持った地域住民・国民に暴露していく必要がある。
(原発老朽化問題研究会編『まるで原発などないかのように』現代書
館、pp.174-175)

● 2008年6月16日、関西電力発表によると、福井県大飯発電所3号機(加圧水
型軽水炉)の原子炉圧力容器出口管台(ノズル)溶接部のひび割れが深刻な
状態になっているらしい。(原発老朽化問題研究会編『まるで原発などない
かのように』現代書館、pp.92-93)
● 2008年春、ガラス溶融炉のレンガが、曲がった撹拌棒によって損傷されて
おり作業をストップした。そのあと2009年、1月、2月、10月と連続してガラ
ス固化工場の固化セル(小部屋)で、高レベル排液が漏洩しているのが発見さ
れた。セル内は強度の放射能に汚染されているため。労働者が入って作業す
ることはできない。それでパワー・マニピュレータの遠隔操作で復旧作業を
行っているが動作不良や装置の不具合でで作業は遅々として進まない。
(鎌田彗氏・斉藤光政氏共著『ルポ 下北核半島』岩波書店、p.10)

六ヶ所再処理工場がまともに運転できないことは最初から分っていたので
す。前身の東海再処理工場の時代からトラブルの連続でね。技術が未熟なの
に六ヶ所村に持ってきて大型化したものだから、運転するとストップ、運転
するとストップを繰り返してきた。それがついに、2008年10月24日に、高レ
ベルの廃液をガラス固化する溶融炉のノズルに白金族が詰まって流れないと
いう末期的状態に陥った。その時、この運転会社の日本原燃がどうしたと思
いますか。なんと、棒を突っ込んでノズルの穴を突っつくという狂気のよう
な作業をしたのですよ。その結果、今度は突っ込んだ撹拌棒が抜けなくなっ
てしまった。危険で近寄ることもできないので、しかたなくカメラで覗いて
みると、棒がひん曲がって、さらには炉の耐熱材として使われているレンガ
がノズル部分に落ち込んでいることも判明した。こんなマンガのような能力
で、デッドエンド。その結果、固化することもできないまま、高レベルの放
射性廃液が240立方メートルもたまってしまった。この廃液は強い放射線を
出して水を分解し、水素を発生させます。絶えず冷却して、完璧に管理をお
こなわないと爆発する、きわめて危険な液体なのです。
この廃液が一立方メートル漏れただけで、東北地方、北海道地方南部の住
民が避難しなければならないほどの大惨事になる。私が原発の反対運動を始
めた最大の動機は、1977年に、再処理工場の大事故について西ドイツの原子
力産業が出した秘密報告書の内容に震え上がったからです。廃液のすべてが
大気中に放出されれば、まず日本全土は終ると見ていいでしょう。こんな危
険な場所で耐震工事をできるわけがない。おまけに、六ヶ所再処理工場は今
回のような津波の想定すらしていません。高台にあるから大丈夫だというが、
海岸からたかだか5キロくらいのところにあるのですよ。(広瀬隆・明石昇
二郎氏共著『原発の闇を暴く』集英社新書、pp.74-75)
---------------------------------
六ケ所再処理工場の建設費は、現在までに2兆2000億円にものぼっている。
が、それでもなお本格稼働できない。おまけに2012年5月14日付けの「東京新
聞」によれば、この再処理工場は稼働させなくても維持費が年間1100億円も
かかるという。(小出裕章・渡辺満久・明石昇二郎氏共著『「最悪」の核施
設 六ケ所再処理工場』集英社新書、p.175)
● 2010年6月17日、福島第一原発2号機で外部電源全喪失事故あり。その後数
秒で非常用ディーゼル発電機が起動するも、炉内の水位は外部電源が復旧す
る前の約30分間、約2mも低下したままで、あわやメルトダウンの危機的状況
となった。この事故に対し東電は事故報告を怠り、規制する立場にある原子
力安全・保安院は事故にすらしなかった。

-----------関東東北沖大地震による福島原発の惨状(ここから)-----------
● 2011年(平成23年)3月11日14時46分頃三陸沖を震源とするマグニチュード
8.8(後で9.0に訂正、その真意は不明)の観測史上最大の地震(東北太平洋
沖地震;東日本大震災)が発生。福島第一原発は自動停止し炉の一つ(1号炉
-->後2〜4号炉の全てと判明)が冷却できなくなっている。これは地震と津波
による電源の全ての喪失に伴う原子炉冷却系の完全喪失の結果によるもの。
夜12日には炉の周囲でセシウムが検出されメルトダウンが発生した(後日の
発表で3号機は加速度で507ガル(cm/sec^2)を記録したという)。
<本当の事故の流れ>
・地震により、主蒸気系配管の破断が起き(炉心が損傷し)た。
・津波により、主要な電気機器・分電盤が海水に水没し使えなくなった。
(電源車は届いたが海水に浸かった機器に電気を通すのは危険だった)。
・津波により、海水冷却機能が全て流出した。
(小野俊一氏著『フクシマの真実と内部被曝』七桃社、p.47)
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<原子力安全・保安院の見通し(3月11日午後10時)(菅首相に提出)>
22時50分 炉心露出
23時50分 燃料被覆管破損
24時50分 燃料溶融(メルトダウン) ーー3月12日午前0時50分
27時20分 原子炉格納容器設計最高圧到達ーー3月12日午前3時20分
(格納容器のベントが必要だったがすんなりとは進まなかった)
(読売新聞政治部『亡国の宰相』新潮社、p.31)
● 2011年(平成23年)3月11日16時45分、原子力災害特別措置法(原災法)に
基づく15条通報が福島第一原発よりあった。斑目原子力安全委員会委員長は
ただちに官邸に向かった。官邸5階総理執務室についた時、本来そこにいる
はずの原子力保安院院長の寺坂信昭院長は菅総理の質問に全く答えられず厳
しく叱責されて敵前逃亡していた。(斑目春樹氏著『証言 斑目春樹』新潮社、
pp.38-39)
● 2011年(平成23年)3月12日15時36分と14日11時01分にそれぞれ1号炉と3号
炉の外枠の上半分 が水素爆発(3号機は核爆発かもしれない)で吹き飛び環
境中に放射能が漏出。炉心を取り巻く鋼鉄製の外殻が吹き飛んだわけではな
いが、原子炉を必死になって冷却しようとしているはずで、まことにやばい
事態を生じている。
これらの結果本当か嘘かわからないが、東京電力は昼間の電力需要が追い
つかず部分的に強制的停電を始めるという。なお原子炉および使用済み燃料
の貯蔵用水槽(1〜4号炉の全て)も水が足らなくなって発熱している。(後
に4号機の側面が吹っ飛び、2号機のあちこちに穴があいて常に水蒸気が立ち
上っている)。

<福島第一原発の大事故は人災だ>
京都大学で原子核工学を学んだ吉井英勝衆議院議員(共産)は、
これまでに原発問題を国会で追求、2006年10月の衆議院内閣委員会
では「原発で非常用電源が失われた場合にどういう事態が起きるか
を想定(筆者注:例えば水素爆発・水蒸気爆発までにも論及)し質
問していた」。これに対し当時の鈴木篤之・原子力安全委員長(現
・日本原子力研究開発機構理事長)は「同じ敷地には多数のプラン
トがあるので他のプラントと融通する」と説明していた。また吉井
氏が2010年5月の経済産業委員会でこのことを取り上げた際にも原
子力安全保安院・寺坂信明院長(現在も同職)は炉心溶融の可能性
を認めつつも「そういうことはありえないだろうというくらいまで
の安全設計をしている」と述べて可能性を否定した。一方現在の原
子力安全委員長の班目春樹は東大教授だった当時の2007年2月、中
部電力の浜岡原発をめぐる訴訟で中部電力側の証人として出廷し
「原発内の非常用電源が全てダウンすることを想定しないのか」と
問われ「あれもこれもと言ってると設計ができなくなる。ちょっと
可能性のあるものに全部対処していたらものなんて絶対作れない。
割りきりだ」という主旨の証言をしていた。班目春樹は22日に社民
党福島瑞穂氏からこの証言について問われ「割り切り方が正しくな
かった。想像よりもどんどん先に(深刻な事態に)いっちゃってい
る」と認めた。(H23/3/26、朝日新聞朝刊、p4より、一部要約)

<福島第一原発1〜5号機の格納容器は欠陥品>
福島第一原発1〜5号機の格納容器は、GEが開発したMARK1と呼ばれ
るタイプ(沸騰水型)のものです。・・・ 浜岡原発1〜4号機も同じ
ものです。MARK1は、GEが1960年代に実用化した原子炉です。・・・
MARK1は、完成直後からGE内部でも、安全性に問題があると指摘さ
れていた「いわくつき」のものです。・・・ MARK1の弱点は一言で
いえば、内側からの圧力に対する弱さです。格納容器が小さすぎて、
水素などが大量発生すれば容器そのものがもたない、ということで
す。(菊地洋一氏著『原発をつくった私が、原発に反対する理由』
角川書店、pp.12-15、一部要約して引用)

<福島第一原発事故による汚染状況>
・ 大気中に放出されたセシウム137の量はF1-1号機で5.9*10^14Bq、
2号機では1.4*10^16Bq、3号機では7.1*10^14Bqで、大気中だけで
広島原爆の168発分が放出された。(IAEA会議への日本政府の報
告)
・ 福島県の東半分を中心にして、宮城県と茨城県の南部・北部、
さらに栃木県、群馬県と千葉県の北部、新潟県、埼玉県と東京都
の一部地域が放射線管理区域にしなければならない汚染を受けた。
・ セシウム137はカムチャツカ半島、アラスカ、アメリカ西海岸一
帯に広がっている。
・ 約100mSv以下の線量においては不確実性がともなうものの、がん
の場合、疫学研究および実験的研究が放射線リスクの証拠を提供し
ている。
約100mSvを下回る低線量域でのがんまたは遺伝的影響の発生率
は、関係する臓器および組織の被曝量に比例して増加すると仮定
するのが科学的に妥当である。(ICRP-2007年勧告)
(H25.11.4、小出裕章氏講演会、岡山市にて)

● 確実に無駄だったSPEEDI開発120億円
文科省はSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)を
自慢していたが実際は全く役立たなかった。(斑目春樹氏著『証言 斑目
春樹』新潮社、pp.118-122)
(文科省のSPEEDIに関する隠蔽工作と原子力安全委員会への丸投げ奇襲
作戦については同書のpp.125-130を参照)。
文科省は福島第一原発事故で思考停止に陥り、SPEEDIをどう活用すべき
か何ら建設的な判断が出来ないままだった。それを知りながら政務3役と
彼らを補佐した官僚は責任逃れに終始した(同書、pp.134-139)。
● 2011年(平成23年)3月18日まで陸や上空から必死で冷却作戦が展開されて
いるが全て中途半端。内部で働く従業員には悪いが情報伝達の遅さや情報隠
匿などバカ丸出しの大恥を世界にさらしている。(後の3月26日に判明したこ
とだが、東電は3号炉で18日にすでに500mSvの放射能を検知していたことを隠
していた。腐り切った隠匿体質は相変わらず治らないようである)。
● 2011年(平成23年)3月19日16時政府発表。茨城県のホウレン草と福島県の
牛乳(原発より30km超)に食品衛生法の規制を上回る放射線を検出。
● 2011年(平成23年)3月19日22時、東京消防庁発表。ハイパーレスキュー隊
が原発3号機に放水、60mSv(場所により一時的には100mSv以上)の放射線の
中139人の隊員が交代で14:20頃から約10時間で約1800トンの海水を3号機の使
用済み燃料タンク(容積1200〜1400屯)に放水。500m離れたところからの計
測で3.4mSv/hの放射線が2.9mSvに低下したという。
● 2011年(平成23年)3月23日、東京で飲料水から放射性ヨウ素が検出され、
乳幼児の飲料制限が発表された。また福島県産の葉菜の出荷制限がなされた。
原発では3号炉から黒煙が出て、一説には500mSvの放射能を検知して作業が
難行しているという。
● 2011年(平成23年)3月24日、原発3号機内で作業していた3人がβ線に被爆
して皮膚をやけどしたようだ。(プルトニウムはどこにいったんだろう。確か
3号機はMOX燃料を使っていたはずだが)。
● 2011年(平成23年)3月25日、朝日新聞はこの事故をレベル6(大事故)と
判断して報道した。
● 2011年(平成23年)3月27日、福島第一原発2号機はボロボロで、タービン
建屋の地下一階の深さ約1mの水たまりから1000mSvを超える(針が振りきれて
それ以上測定できなかった)放射線量を検出。その水は1cc当たり通常の1000
万倍の29億Bqの放射能(後で測定間違いで、実際は10万倍の2900万Bqと訂正)
を示した。その近くの海水のI-131の濃度は通常の1850倍であった。(うわさ
によると、この日初めてプルトニウムを測り始めたという)。
● 2011年(平成23年)4月7日、余震により女川(震度5)、東通(震度4)の
原発が自動停止。この程度の地震で女川原発は外部電源3系統のうち2系統を
喪失、東通原発は外部電源を喪失。どちらもかなり危険な状態に追い込まれ
た。
● 福島第一原発はもう末期状態のように思われる。2011年(平成23年)4月12
日までに排出・拡散した放射線量はチェルノブイリ大惨事を越えており(1時
間あたり最大で1万テラベクレル(1テラ=1兆)の放射性物質を放出していたと
発表(合計36〜67万Bqの放出)。まだ断定はしてないが国際原子力機関は
レベル7に相当する大事故であることを示唆(明言に近い)した
● 福島第一原発の迷走。2011年(平成23年)4月15日現在、事態は一向に好転
しないばかりか、政府は原発近隣の30km範囲を逸脱して住民の避難や、農作物、
酪農製品の出荷制限を行っている。また原発の地下水の放射能汚染も発覚。
ある外国報道では原発の終息(廃炉を含めて)には今後100年かかるだろう
という。
● 2011年(平成23年)5月6日、菅直人首相が浜岡原発の全ての運転停止を要請
。これに応じて中部電力が原発の運転停止。ところが運転停止の作業中に5号
機の復水器内部で冷却用の海水が通る配管が既に複数、破損しているのを確認
した。大地震の起こる前から浜岡原発はすでに壊れていた。(菊地洋一氏著
『原発をつくった私が、原発に反対する理由』角川書店、pp.154-155)
● 2011年(平成23年)5月12日、東電は福島第一原発1号機の核燃料の大半が
メルトダウンしていることを認めたが、臨界は起こってないそうである。また
ここは大量の水を注入しているが計算以下の水しか溜っておらず、水はザーザ
ーもれらしい。漏れた水がどこへ行っているのかはわかってない。
● 2011年(平成23年)5月25日、日本で最も放射能汚染された大熊町で土壌検査
が行われ、国際標準であるBq/m2で発表された。東平地区ではセシウム134とセ
シウム137の汚染の合計は5700万Bq/m2(1500Ci/Km2)。(チェルノブイリでは
半径30kmで148万〜370万Bq/m2が最も高いレンジだった)。要するに福島大熊町
ではチェルノブイリを凌ぐこと10倍以上の汚染を受けていた。(小野俊一氏著
『フクシマの真実と内部被曝』七桃社、pp.94-95)
なお大気核実験からの放射性物質の月別推移の最高は1960年代半ばでセシウ
ム137が約1000Bq/m2で、今回の福島原発事故では2011年3月の東京でセシウム
137が8100Bq、茨城で17000Bq、福島では334万Bqの放射能が降下した。(小野
俊一氏著 『フクシマの真実と内部被曝』七桃社、pp.96-97)
● 2011年(平成23年)6月20日、2号機のトレンチ(細長い掘削溝)の汚染水は
1000mSv/h、2号機は4000mSv/h。これらは水中ではなくて空間線量当量率だ。
汚染水濃度がハンパないんだ。(ハッピー氏著『福島第一原発収束作業日記』
河出書房新社、p.54)
.........................................
● 2011年(平成23年)7月8日<筆者の勝手な総括>、福島第一原発4号機から
は時々水蒸気らしい白煙があがり、雨が降ると常に水蒸気がどしどし発生して
いる。以前は青い発光を伴うという報告があったが最近はない。1〜3号機の
燃料は全て完全にメルトダウンしている。その量は1機100トン以上、合計300
トンを越えている。このうち2・3号機はメルトスルーまで行っており、おそら
く釜を突き抜け、建屋のコンクリを突き抜け外の地面に浸潤しているものと
想像される。この状況ではいくら水をかけても冷却効果は薄く、地下水脈に
ふれたら大きな水蒸気爆発を起こす恐れもある。
東電は今、積もり積もった高濃度汚染水をアレバ(フランス)とキュリオン
(アメリカ)の放射線フィルターで浄化しようとしているが、しょっちゅう停
止してまったく非効率らしい。総じてお先真っ暗の状態である。
以下Web『現代ビジネス』(gendai.ismedia.jp)より。

・・・だが「福島第一はもっと絶望的な状況にある」と指摘するのは、
京都大学原子炉実験所の小出裕章助教である。
「溶けた核燃料であるウランの塊=溶融体が、格納容器の底をも破り、
原子炉建屋地下のコンクリートを溶かして地面にめり込んでいるのでは
ないかと考えています。核燃料の炉心部分は、2800℃を超えないと溶け
ません(現在の温度は高い放射線量のため測定不能)。溶融体の重量は
100tにもなります。圧力容器や格納容器の鉄鋼は1500℃程度で溶けてし
まいますから、溶融体は原子炉建屋地下の床に落ちているはずです。そ
の一部は地下の床を浸食し、一部は汚染水に流され周囲の壁を溶かして
いるでしょう」
  これは核燃料が原子炉建屋の外部に直接漏れ出て、周囲に超高濃度の
放射性物質を撒き散らす「メルトアウト」と呼ばれる最悪の状態だ。
小出氏が続ける。
「もし溶融体が地下水を直撃していれば、いくら循環冷却しても放射
性物質の拡散は防ぐことはできません。地下水の流れを止めない限り、
周囲の海は汚染され続けるのです。汚染を防ぐためには、原子炉建屋の
地下の四方に遮蔽壁を作るしかないでしょう。溶融体や汚染された土壌
と、地下水の接触を断つのです」
  原子炉の構造的に見ても、メルトアウトが起きている可能性は高い。
解説するのは、元東芝の原子炉格納容器の設計技術者だった後藤政志氏だ。
「圧力容器の鉄鋼の厚さは十数cmもあります。一方の格納容器の厚さは、
20~30mmしかありません。また圧力容器は70気圧にも耐えられるように設
計されていますが、格納容器の設定は4気圧です。もし圧力容器を溶かす
ほどの核燃料が漏れ出たら、格納容器はひとたまりもない。ましてや原子
炉建屋地下のコンク リート壁などは単なる覆いであって、超高温の溶融
体を防ぐことはできないのです。そもそも圧力容器も格納容器も、炉心溶
融することを前提に作られていませ ん。すでに設計上破綻しています。
ですからメルトダウンして何の対策も採らなければ、溶融体が圧力容器か
ら格納容器を突き抜け、原子炉建屋地下の床に溶け出てしまうのは時間の
問題なのです」
メルトアウトによって撒き散らされる放射性物質は、より猛毒なものと
なる。地下から地表に溢れ出た汚染水の中には、半減期が8日のヨウ素や
2年ほどのセシウムなど、水の上部に溜まりやすい軽い放射性物質が多く
含まれる。だが地下から漏れ出るのは、半減期が29年ほどのストロンチウ
ムや2万4000年にもなるプルトニウムなどの放射性物質だ。特にプルトニ
ウムは、人体に入ると50年にわたり内臓を破壊し続け、最悪の放射性物質
と言われる。中部大学総合工学研究所教授で、元内閣府原子力委員会専門
委員の武田邦彦氏が語る。
「地下から流れ出るのはプルトニウムなどの水の下部に沈殿しやすい
比較的重い放射性物質です。核燃料が地下に浸透していれば、こうした超
猛毒の物質が海や川、池、湖、井戸など、地下水脈が行き着くあらゆる場
所にたれ流されます。 ただし地下は放射線量が高過ぎて人間は近づけない
ため、誰も現状を正確には把握できていないでしょう」
------関東東北沖大地震による福島原発の急性期の惨状(ここまで)------

● 2011年(平成23年) 8月10日
(逆襲弁護士)河合弘之氏が「脱原発弁護団全国連絡会」を結成。その代表
に就任。H25年現在約170名の弁護士が加入。
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<原子力損害の賠償に関する法律(原賠法)>(S36.6 制定)
「原子力損害については電力事業者という会社のみが責任を負う」という
責任集中原則が厳然と存在する。
原賠法第三条 原子炉の運転の際、当該原子炉の運転等により原子力損害
を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を
賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変また
は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない。
原賠法第四条 前条の場合においては、同条の規定により損害を賠償する
責めに任ずべき原子力事業者以外の者は、その損害を賠償する責めに任
じない。(大下英治氏著『逆襲弁護士 河合弘之』さくら社 pp.314-316)
● 2011年(平成23年)12月17日 :いまだに0.6億Bq以上の放射性物質が日本中
に向けて拡散しているという。(ハッピー氏著『福島第一原発収束作業日記』
河出書房新社、p.117)
● 2012年(平成24年)3月5日
河合弘之弁護士を代表(原告団事務局長は木村結氏)として、東電に対し株
主代表訴訟が提起された。
東電福島第一原発事故で巨額の損失が生じたのは、東電の歴代経営陣が地震
や津波への対策を怠ったためだとして、同社の株主が現・元取締役を相手取り、
5兆5045億円の損害賠償を同社に支払うことを求めるよう東京地裁に訴えた。
(大下英治氏著『逆襲弁護士 河合弘之』さくら社、p324)
● 2012年(平成24年)6月11日
福島県民13412人が、原発事故による被曝や死亡は「業務上過失致死傷」にあ
たるとして、東電幹部や学者、官僚らを福島地方検察庁に刑事告訴・告発し、
8月1日に受理された。(大下英治氏著『逆襲弁護士 河合弘之』さくら社、
p.336)
● 2012年(平成24年)6月30日 :無知無能狡猾残忍丸出しの政府・原子力ムラ
<「安全保障」という新たな大義名分の出現>
六ヶ所再処理工場の延命に苦慮する原子力ムラに、突如、政治の舞台から強力
な援護射撃が繰り出された。日本の原子力の新たな使い道として「核武装」が登
場してきたのである。窮余の策だとしても、あまりにも恥知らずな話だ。
  同日に成立した原子力規制委員会設置法の第一条には、「我が国の安全保障に
資する」とする文言が盛り込まれている。第一条の全文は次のとおり。
原子力規制委員会設置法案
(目的)
第一条 この法律は、平成23年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震に伴う原
子力発電所の事故を契機に明らかとなった原子力の研究、開発及び利用(以下
「原子力利用」という)に関する政策に係る縦割り行政の弊害を除去し、並び
に一の行政組織が原子力利用の推進及び規制の両方の機能を担うことにより生
ずる問題を解消するため、原子力利用における事故の発生を常に想定し、その
防止に最善かつ最大の努力をしなければならないという認識に立って、確立さ
れた国際的な基準を踏まえて原子力利用における安全の確保を図るため必要な
施策を策定し、又は実施する事務(原子力に係る製錬、加工、貯蔵、再処理及
び廃棄の事業並びに原子炉に関する規制に関することを含む)を一元的につか
さどるとともに、その委員長及び委員が専門的知見に基づき中立公正な立場で
独立して職権を行使する原子力規制委員会を設置し、もって国民の生命、健康
及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的とす
る。

そしてこの法律の「附則」の中で、「原子力の憲法」とも言われる原子力基本
法の基本方針変更まで行なわれた。その「附則」にはこうある。
(原子力基本法の一部改正)
第十二条 原子力基本法(昭和30年法律第186号)の一部を次のように改正する。
   (中略)
第二条中「原子力の研究、開発及び利用」を「原子力利用」に改め、同条に次
の一項を加える。
2 前項の安全の確保については、確立された国際的な基準を踏まえ、国民の
生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資するこ
とを目的として、行うものとする。

ここで言われる「安全保障」とは何か。『広辞苑』第4版(岩波書店)はこう
解説する。「外部からの侵略に対して国家および国民の安全を保障すること」
つまり、原子力を「安全保障に資する」(=役立てる)とは、外部からの侵略に
対する抑止力として原子力を役立てること以外の何ものでもない。すでに「核武
装」したと宣言している北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の後に続こうとして
いるらしい。
実質上の自爆とも言える "三発日の原爆" を福島の地に受けてもまだ懲りない
人々がいることには、驚きを禁じえない。せめて正々堂々と議論を戦わした結果
であればともかく、この原子力基本法改正は、「日本に真の原子力規制当局を設
置する」という美名の下、事前に国民に告知されることなく、だまし討ちの形で
行なわれた。(小出裕章・渡辺満久・明石昇二郎氏共著『「最悪」の核施設 六
ケ所再処理工場』集英社新書、pp.182-185)
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● 平成24年(2012)5月5日、北海道電力泊原発3号機を最後に国内の全原発が止ま
った
● 平成25年(2013)5月15日、原子力規制委員会は<もんじゅ>で約10000点の
機器の点検漏れがあったとして運営もとの日本原子力開発機構に対し、運転
準備(使用前検査)を見合わせるよう命じた。数日後に理事長が引責辞任。
● 平成25年(2013)5月15日、原子力規制委員会は福井県敦賀市の日本原子力
発電の敦賀原子力発電所2号機の直下に活断層があることを正式に認定した。
島崎邦彦委員長代理は「安全性が低い状態にある。事故がなかったのは幸
いというしかない」と指摘した。
● 平成25年(2013)5月23日正午頃、茨城県東海村にある加速器実験施設<J-PARC>
の放射能物質漏れ事故あり。30人以上の作業員が最大1.7mSvの被曝を受けた。
またこの通報は25日未明の記者会見で発表され事故から約1.5日遅れた。
● 平成25年(2013)5月26日、東京電力F1原発事故について国連科学委員会が
報告書案をまとめた。それによれば放射性物質の大気放出量はヨウ素で100
〜500(1000兆Bq)、セシウム137で6〜20(1000兆Bq)でチェルノブイリの
約4分の1、甲状腺の被曝線量は30km圏内で小児が33〜66mSv・大人が8〜24
mSvでチェルノブイリの約1/30とされた。(朝日新聞朝刊5.27日号)
● 福島で原発事故(2011.3.11)当時18歳以下だった子ども17400人のうち累計
で12人が甲状腺癌と診断され、疑い例は累計で16人と判明。(6月5日に福島
県が開催した「県民健康管理調査検討委員会」で報告)。
この発症頻度は通常の子どもの甲状腺癌の発症頻度(1〜2/100万人)の155
倍に達するが、なぜか根拠はわからないが福島県立医科大学の鈴木眞一御用
教授は被曝の影響を否定している。(朝日新聞DIGITAL、東洋経済ONLINE等
より)
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<子どもの甲状腺癌が事故後11年間で70倍に>
  ここからは、チェルノブイリ原発事故が起こってから、実際にどれ
だけ甲状腺がの患者が増えたのか、ベラルーシ国立甲状腺がんセンタ
ーから入手した資料をお見しながら話を進めていくことにします。
  事故が起きた1986年、ベラルーシ全体で小児甲状腺がんは2例しか
ありませでした(図は省略)。この段階では、小児人口100万人に1人
か2人という国際的な発症水準を保っていたのです(図は省略)。そ
れが翌年の1987年には4例、さらに次の年の1988年には5例、1989年に
は7例と徐々に増え始め、事故から5年目の1990年になると、急激に増
えて29例になりました(図は省略)。そして小児甲状腺がんの発症は
その後もどんどん増え続けて、10年目の1995年には91例とピークに達
します(図は省略)。以後、1996年からは減少に転じますが、IAEAが
小児甲状腺がんと原発事故との因果関係を認めたのはこの年のことで
した。・・・この間増加したのは小児甲状腺癌だけではありません。
・・・成人をみてみると、事故前の11年間では1347人、事故後の11
年間は4006人となっており(成人の甲状腺癌は)約3倍に増えておりま
す。この傾向には子どもは急激に、大人はゆっくり増えるという放射
線誘発性甲状腺癌の特徴が表れてます。(菅谷昭氏著『原発事故と甲
状腺がん』幻冬社ルネサンス新書、pp.86-87)
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<内部被曝による甲状腺癌の特徴>
  1. 放射性ヨウ素が甲状腺に取り込まれる確立は0〜5歳児が最も多い。
2. 甲状腺が被曝する線量は0歳児で大人の21倍、1歳児で大人の15倍。
3. 年齢が若いほど早い時期に発症する。(菅谷昭氏著『原発事故と
甲状腺がん』幻冬社ルネサンス新書、p.95)
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● 福島原発大事故は未だ続いている(当たり前の話だけれど)。
東京電力が平成25年(2013)7月9日、福島原発の一定の範囲内に設けられた
観測用の井戸から検出された放射性セシウム濃度が3日間で90倍に達したと
表明。フランス通信の報道によると8日(月)、海岸から25m離れた地点で採取
された地下水からは1Lあたり9000Bqのセシウム134と18000Bqのセシウム137
が検出されたという。(なお3日前にはそれぞれ99Bq・210Bqでおよそ90倍に
あたる)。今回地下水のセシウムの濃度が急激に上昇したことから、汚染水
が別の場所から漏れている可能性が出てきたことになる。
また東京電力は6月、海水の放射性物質の濃度に上昇が見られないとして、
海へ漏えいした疑いは低いと説明していた。東京電力は6月19日の会見で
「地下水の移行には、時間がかかるものでございますので、海側への影響と
いうことで見たときに、まだ、過去のばらつきの 範囲内ということで、影
響は見られない」などと話していた。ところが、7月3日に原発の港で採取し
た海水からも、高い濃度のトリチウムが検出されるなど汚染水が海に漏えい
している可能性が出ている。
今回の事態について、東京電力は「セシウムが3日間で上昇した理由や、
海への影響はわからない」としている。(筆者私見:メルトスルーした
放射性物質の塊が地下水と反応しているのではなかろうか。3号炉の近く
から白い霧のようなものが出ているという)。
● 東電は平成25年(2013)8月2日、高濃度放射性物質が海へ流出している問題
で平成23年5月から流出し続けていると仮定した場合、汚染水中のトリチウム
濃度が最大約40兆Bqに上るとの試算を発表した。(gooニュース、8.3)
● 平成25年(2013)8月5日、東電福島第1原発の地下水が広範囲に放射性物質で
汚染され海にも流出している問題で、東電は2号機タービン建屋近くの観測用
井戸で5日に採取した水から放射性セシウムが960Bq/L検出されたと発表。こ
れは前回調査(7.31)の約15倍に上昇。ストロンチウムなどのβ線を出す放射
性物質濃度も約47倍に急上昇したという。放射性物質の拡散状況も濃度上昇
の原因も不明という。(gooニュース、8.5)
● 『終わりなき被爆との戦い』(H25.8.26、NHKテレビ)
被曝10年目で白血病発症(通常の20倍、9・22番染色体異常)。被曝40年後
から骨髄異痙性症候群(MDS)の増加(通常の15.9倍、多くの複数の染色体異常)
あり。しかもMDSは被曝が爆心地に近い程多いということが判明
● 平成25年(2013)8月7日、資源エネルギー庁幹部が福島第1原発の敷地内から
300屯/日の汚染水が海に流出しているとの試算を明らかにした。
● 福島で原発事故(2011.3.11)当時18歳以下だった子ども17400人のうち累計
で18人(前回12人)が甲状腺癌と診断され、疑い例は累計で25人(前回15人)
と判明。(8月20日に福島県が開催した「県民健康管理調査検討委員会」で報
告)。甲状腺検査は震災当時18歳以下だった36万人が対象、これまで193000人
の一次検査が確定。東電は放射線の影響を認めていない。
● 福島第一原発の汚染水漏れが「レベル3」に引き上げ検討(H25.8.20)
汚染水も核燃料も制御不能!! 福島第一原発の放射能は当初からダダ漏れ。
7月には汚染地下水が海に流出していたことを認め、8.19には汚染水貯蔵タ
ンクからの300tの高濃度放射能汚染水漏れが発覚したばかり。もう全方位・
全敷地から地下へ海へダダ漏れと云っても言い過ぎではない状況。
1〜3号機のメルトスルーした核燃料には誰も近づくことができず。だれも
位置も状態も確認しようがなく、おそらく地下でくすぶっていて多量の放射
線を連続的に発生させているに違いない。汚染地下水の殆んどはこれが原因
で、放射能は今後も海へ漏れ続けるのだ(段落後半部は筆者注)。
● H25年9月11日現在(震災後2.5年)、まだ29万人が避難しているという。
● H25年11月12日「県民健康管理調査検討委員会」が小児甲状腺癌発症につい
て報告。確定癌が前回の18人から25人に増えた。また疑い例は8人増えて33人
となった。100万人に一人といわれている小児甲状腺癌発症率が今回は1/4100
で実に250倍の発症率である。
● H25年11月13日、ロボットを使い福島第一原発1号機の格納容器の比較的大き
な水漏れが2箇所見つかった。
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ところで、現在の地上のプルトニウム汚染の程度というのは一体どのくらい
なのだろうか。これも『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』の522〜523
ページより引用しよう。ただしこの論文は1975年刊『原爆から原発まで<下>』
所収のものなので、2004年現在(さらには2013年現在も)はその分汚染程度も毒性の
強さも増加していると判断しなければならないだろう。

<地上のプルトニウムの汚染程度>
現在、プルトニウムがどのくらい環境を汚染してるかということに話を移
します。その前に、放射能の量を表わす単位として、ここではピコキュリー
(1pCi=0.037Bq)という単位を使います。1ピコキュリーというのは、だいた
い1分間に2個くらいのα線を出すプルトニウム量です。ーー1分間に2個です
から、あまり強くない、放射能としては、非常に弱い量ですが、それがすで
に非常に危険なわけです。
  現在、空気は、1000立方センチメートルあたりに約0.1ピコキュリー、それ
くらいの濃度で、核兵器の実験によるんですけれども、汚染されているわけ
です。これを現行の基準と比べると、まだ大丈夫だということになるんです
が、タンプリンが指摘している基準に比べると、すでに基準量を越している。
タンプリンの説をそのままあてはめれば、現在の空気汚染によって1000人に
1人くらいは肺ガンにかかるようになるという可能性もあるわけですが、た
だ、必ずしもそういう話にならないようなところがいろいろあります。とい
うのは、プルトニウムの毒性が、粒子の大きさに依存すると考えられるから
です。一つ一つの粒子の大きさが1ミクロンとかそのへんのものは非常に危険
だと考えられるんですが、小さな粒子ならば、同じ何ピコキュリーという量
が集まっても、むしろ危険度が小さいと考えられる。核兵器から出てくる粒
子というのは、どうも、この最も危険な粒子の100分の1ぐらいの大きさでし
かないらしいんで、それによってわれわればかろうじて助かっているんじゃ
ないか、というわけです。ただ肺ガンの潜伏期ってのは、20年とか25年とか
ですから、いま大丈夫だからと言って、安全ではないわけで、15年後にバタ
バタいきだすかもしれない。
  表面水も1リットル当り0.01ピコキュリーくらい、汚染されているという
データがありまして、これも、タンプリンの指摘している量とだいたい、一
致しているようです。地表の汚染に関しては、もうべらぼうにタンプリンの
量より大きくなっている。食品からも、一日当り0.007ピコキュリーくらい、
人間はとっているんだというデータもあります。それは、必ずしも、大きす
ぎる見つもりではないようです。
  すでに現在、人間の肺には、そういう結果として、0.45ピコキュリー
(0.017Bq)が検出されてるわけです。これは普通の平均値です。これはほと
んど核兵器によるものですから、そんなに地域差が出ないわけですけれども。
比較的この粒子の大きさが小さいと思われるんで、現在、現実に肺ガンに達
してないようですけれども、このわりでいったら、人類は皆ほっておいたら、
いつかは肺ガンにかかってしまうところへくる。

【原発問題のなかにすべてがある】
原発は、言うまでもなく技術的には核兵器と切っても切れない関係にある。
核兵器保有をめざす大国が、経済的にはまったく見通しのない状況で、潜在的
な危険性も大きいこの産業へと国家主導的に大量投資をして取り組んだのは、
もちろん、核兵器開発に乗り遅れたくないという思惑があったからである。従
って、原子力問題には、常にそういう国際政治的力学が背景にあり、国家機密
の技術である故の機密性、閉鎖性もつきまとった。
そのことにも関連するのだが、原子力のような中央集権型の巨大技術を国家
や大企業がひとたび保有するならば、核兵器の保有とは別に、それ自体がエネ
ルギー市場やエネルギー供給管理のうえで、大きな支配力、従って権力を保障
する。風力とかバイオマスとか太陽電池などの地域分散型のテクノロジーを軽
視し、ほとんどの政府がまず原子力にとびついた(その段階での商業化の可能
性の不確かさは、前述の分散型ないし再生型のエネルギーが現在もつ不確かさ
より、はるかに大きかった)のは、この中央集権性ないし支配力にあったと思
う。その底流には、巨大テクノロジーと民主主義はどこまで相容れるかという、
現代に普遍的な問題が関係している。
(高木仁三郎氏著『市民科学者として生きる』岩波新書、pp.216-217より)

原発政策は国会議員でさえタッチできない内閣の専権事項、つまり政府の決
めることで、その意を受けた原子力委員会の力が大きいということだった。そ
して、原子力委員会の実態は、霞が関ががっちり握っている。すなわち、原発
政策は、立地している自治体にはまったく手が出せない問題だと言うことが、
私(筆者注:元福島県知事、佐藤栄佐久氏)の在任中に起きた数々の事故、そ
してそれにともなう情報の隠蔽でよくわかった。(佐藤栄佐久氏著『知事抹殺』
平凡社、p.50)

デフレから全く脱却出来ない経済、泥棒国家の腐った政治、アメリカの飼い
犬・戦争好きの政府、性悪本性むき出しの政治屋さんと官僚(役人)ども、国
家社会主義的悪民主・悪平等、人権のはきちがえ、年金・医療・福祉等々なに
もかも他人任せに欲しがる卑しき国民の群れ、大地震の恐怖、原発による日本
メルトダウンの予感。アメリカという”帝国主義ならずもの核武装国家”のた
めの”原爆原料(プルトニウム)貯蔵用属国”日本の行く末推して知るべし。

【付録1】
<原発事業のハードルについて(2004年現在世界の電力供給量の18%)>
1. 建設地選定が政治的に難しい。
2. 経済面で割に合わない(多額の補助金と、大気汚染に対抗するインセンティ
ブが必要)
1) 一基あたりの建設費が約20億ドル
2) 建設許可がおりるのに何年もかかる。その後出来上がるまでに5年。
3. 放射性廃棄物の処分の問題。
※「原発は電気(1/3)と廃熱(2/3)と放射能のごみを生産する」
(西尾漠氏著『新版 原発を考える50話』岩波ジュニア新書、p.66)
4. 政治的不満分子から燃料をどう守るか。
5. 2001年の時点で原発拡大を計画している国は、中国、インド、日本、ロシア
韓国の5か国のみ。
6. 2005年には世界の電力供給量に対する原発のシェアは10%まで下落するだろう。
(ポール・ロバーツ『石油の終焉』久保恵美子訳、光文社、pp.283-284)

【付録2:原発の種類】
原発にはいろいろな種類があります。そのうち、日本に現在ある商業用原発は、
すべて「軽水炉」というものです。軽水をつかって炉心を冷やしたり、核分裂で
出てくる中性子のスピードを落としたりします。軽水というと何だろうと思いま
すが、ふつうの水です。ふつうの水は酸素と水素でできていますが、この水素が
重水素におきかわったものを重水とよび、それに対して、ふつうの水を軽水とよ
ぶわけです。
  さて、その軽水炉にも、沸騰水型炉(BWR:Boiling Water Reactor)と加圧水
型炉(PWR:Pressurized Water Reactor)の二種類があります。原子炉のなかを
流れる水を沸騰させて発電用の蒸気をつくるのが沸騰水型、原子炉のなかの水に
高い圧力をかけて沸騰を抑え、蒸気発生器をつかって蒸気をつくるのが加圧水型
です。
  この説明でわかるように、沸騰水型の軽水炉では原子炉のなかを流れた水が蒸
気になるため、その蒸気には、どうしても放射能がふくまれてしまいます。です
から、放射能で汚れた蒸気が、原子炉のある建物だけでなく、発電機のある建物
まで汚します。当然、労働者の被曝も大きくなりますし、放射性廃棄物の発生量
も多くなります。
  そのためか、世界的には沸騰水型の原発は敬遠されて、加圧水型が主流になっ
ています。ただし日本では逆で、沸騰水型のほうが多く建てられています。
  その理由は単純で、日本では、沸騰水型は東芝と日立製作所、加圧水型は三菱
重工がつくっており、お客である電力会社を分け合っているからです。北から、
北海道電力は加圧水型、東北電力、東京電力、中部電力、北陸電力は沸騰水型、
関西電力は加圧水型、中国電力は沸騰水型、四国電力と九州電力は加圧水型とな
ります。これは、もともと火力発電のときからの電力会社とメーカーとの関係が、
そのまま原子力発電にもひきつがれたものだそうです。
  ほかに日本原子力発電という会社があって、沸騰水型と加圧水型の両方をもっ
ています。
  沸騰水型原発の泣きどころは再循環ポンプです。このポンプは、原子炉を冷や
している水の量を調整する役割を受けもっています。水の量が増えると中性子の
スピードが落ちて核分裂しやすくなりますから、核反応を左右するとても大事な
ポンプです。
(西尾漠氏著『新版 原発を考える50話』岩波ジュニア新書、pp.20-21)

【付録3:原発の寿命は40年】
  原発の寿命は、建設が始まった頃は40年と想定されていた。国や事業者は、そ
んなことは決まっていなかった、法律のどこにも書いていないと今になって言う
が、1970年代当時、事業者が作成した設置申請書には庄力容器の寿命を40年(実
効運転期間32年)と想定して、容器鋼材が中性子照射によって脆くなる様子を推
定している。また、1980年代に将来の原発の経年変化について原研(日本原子力
研究所)の研究者が書いた総説においても、寿命を40年と想定して議論を展開し
ている。これらのことから、原発建設が始まった当時は40年寿命が共通認識だっ
たことは明らかだろう。
  40年を寿命とすれば2010年以降古い原発から次々と閉鎖されてゆくはずだが、
そうはなっていない。住民の反対などで新規原発の建設が困難になっていること
や新しい原発を建設するよりも寿命延長のほうが安上がりなことなどから原発の
寿命を60年まで延ばして使う方針が決まり、建設から30年を超えた原発について
は各事業者が「高経年化技術評価報告書」を提出し、政府の「高経年化対策検討
委員会」がそれらを審議して、10年ごとに60年まで寿命延長を認めることになっ
た。今まで13基の原発について延長運転OKのお墨付きが与えられている。認めら
れなかった原発は1基もない。(原発老朽化問題研究会編『まるで原発などない
かのように』現代書館、pp.94-95)

【付録4:永遠の未完成】(柏崎市在住、桑原正史氏作)
100万キロワット級の原発を動かすと
1年でヒロシマ原爆の1000倍もの死の灰がでる
高濃度の放射能にまみれた使用済み核燃料もでる

使用済み核燃料を再処理すると
さらに高濃度の放射能にまみれた核廃棄物がでる
すぐそばに立つと たった数秒で 人が死ぬ

それらのなかには ほっておくと
放射能が勝手にあばれだすものがある
だから
何百年 何千年 何万年 なかには何十万年も
厳重に保管しなければならないものがある
そんなものが 今 どんどん たまっている

いったい これから
誰が どこに どうやって
何百年 何千年 何万年も保管するんだろう?

僕がそういうと
きっと 原発期待派の科学者は こう言うだろう
「大丈夫 いろいろ研究や実験をしている」
きっと 原発期待派の政治家は こう言うだろう
「大丈夫 いろいろ手をうっている」
きっと 楽観的な庶民は こう言うだろう
「大丈夫 科学の未来を信じよう」

でも
いろいろ研究や実験をしているのなら
いろいろ手をうっているのなら
科学の未来が信じられるのなら
僕らは待とうじゃないか
その成果がきちんと得られる日まで

今は未完成で
ひょっとしたら 永遠に未完成かもしれないのに
「なんとかなるさ」と
豊かで便利な今の暮らしと引き換えに
危険な放射性廃棄物を山ほどかかえて
見切り発車するのは やっぱり 冒険すぎるだろう

「僕らは楽しかった あとは頼む」と言って
危険な放射性廃棄物を山ほど残して
さっさと消えてしまうのは やっぱり 無責任だろう

高濃度の放射性廃棄物は
始末を頼まれた未来の人々にとっても
やっぱり
どうにもできないシロモノかもしれないから
(原発老朽化問題研究会編『まるで原発などないかのように』
現代書館、pp.233-235)

【付録5:底なし沼から底なし沼へ】(柏崎市在住、桑原正史氏作)
地球の温暖化が進んでいる
「だからCO2の排出量を減らそう」
僕は言う「大賛成」

原発はCO2をださない
「だから原発をつくろう」
僕は言う「ちょっと待って」

原発だってCO2をだす
ウランを掘るとき
ウランを核燃料に加工するとき
原発を建設するとき
使用済み核燃料を処分するとき
原発を解体するとき
そのほか いろんな過程でCO2をだす

そして 何よりも
何百年 何千年 何万年 もしかしたら何十万年も
始末できない放射性廃棄物をだす

その放射性廃棄物は
何百年 何千年 何万年 もしかしたら何十万年も
地球をおびやかす
地球上のすべての生命をおびやかす

誰かが言った「脱原発は究極のエコ」
僕もそう思う

いくらCO2を減らしても
  放射性廃棄物を山ほど出したら意味がない
こっちのヤミ金融からの借金を減らすために
  あっちのヤミ金融に借金したら意味がない
底なし沼から底なし沼への引っ越しだ

CO2を減らそう!
放射性廃棄物を出すのをやめよう!
そこに
人間のすべての生命が暮らせる未来がある

  科学にはずぶの素人だが、私たちすべての安全に関わる課題であり、日頃、
原発について感じてる疑問点を記した、と桑原さんは言う。『永遠の未完成』
という桑原さんの詩集を読むと、科学に無限の明るい未来を抱いていた頃の私
自身が恥ずかしい。桑原さんは問う。「原発はなんかうさんくさい / 30年前
は『石油がなくなるから原発だ』と言い / 20年前は『発電コストが安いから
原発だ』と言い / 10年前は『ベストミックスのために原発だ』と言い / 今
は『CO2を出さないから原発だ』という」。同じ原発なのに、その時々で、言
うことがコロコロ変わる、いったい、本当の理由は何だろう?
(原発老朽化問題研究会編『まるで原発などないかのように』現代書館、
pp.243-246)

【付録6:放射能や放射線の単位などの知識】
1. 放射能の単位
単位:Bq(ベクレル)
(どこにどのくらいの放射性物質が飛散沈着したのかの絶対量)
定義:1秒間に1個の原子核が壊変している放射性物質
従来の単位:Ci(キュリー)
換算方法:1Ci=3.7×10^10Bq = 370億Bq (1Bq = 27ピコキュリー)
ベクレル(Bq)が単独で使われることは少なく、単位体積当たり又は単位重量
当たりの放射能の強さを表すBq/リットル、Bq/kgなどがよく使われる。
Bq/kgを使って内部被曝の積算値が求められる。つまりBq/kgに「実効線量
係数」(放射性核種、年齢、臓器により異なる)を乗ずる。例えば500Bq/kgの
放射性セシウム134が検出されたホウレンソウを大人が100g食べたときの内部
被曝線量を計算すると、その「実効線量係数」は0.019(μSv/Bq)なので、500
×0.1(kg)×0.019 = 0.95μSvの内部被曝になる。この量を毎日1年間食べ続け
ると約350μSvの内部被曝となる。(後半部は『文藝春秋』2011年6月号、
p.207)
2. 放射線の量に関する単位
1) 照射線量:放射線の強さ
単位:C/kg(クーロン毎キログラム)
定義:1kgの空気に照射し、1クーロンのイオンを作るX線、ガンマ線量
従来の単位:R(レントゲン)
換算方法:1R = 2.58×10^-4 C/kg
2) 吸収線量:生物に吸収された放射線のエネルギー(4Gyで50%・8Gyで全死亡)
単位:Gy(グレイ)
定義:1kg当たり1ジュールのエネルギー吸収があるときの線量
従来の単位:rad(ラド)
換算方法:1Gy = 100rad
単位としてはグレイ単独よりその100万分の1を意味するマイクログレイ
(μGy)、10億分の1を意味するナノグレイ(nGy)が通常よく使われる 。
3) 線量当量:被曝線量
単位:Sv(シーベルト)
定義:グレイに線質係数、修正係数をかけたもの
従来の単位:rem(レム)
換算方法:1Sv = 100rem
線量当量=吸収線量×線質係数×その他の補正係数
放射線が生物に及ぼす効果は、放射線の種類やエネルギーによって異なる
。単位としては、シーベルト単独よりその1,000分の1を意味するミリシーベ
ルト(mSv)、100万分の1を意味するマイクロシーベルト(μSv)が通常よく使
われる。
継続した被曝を考えたときレ線撮影等では100mSv以下では発癌リスクは確
認されてない。疫学調査では100mSvを超えた時にがん死亡率が0.5%上がると
いわれている。外部被曝と内部被曝量をあわせて年間1mSvが日本の一般公衆
の線量限度である。問題は1mSvと100mSvとの間をどう考えるか。(後半部は
『文藝春秋』2011年6月号、pp.206-207)
4) やや古い本にでてくるcpm(counts per minute)について
1cpmは、表面放射線測定器で1分間に測定器に入ってきた放射線の数であ
り人体への影響は考慮せず。なお120cpm=約1μSv/hrと換算されている。
3. 放射線とは
放射性物質から出るアルファ(α)線、ベータ(β)線、ガンマ(γ)線、
X線、中性子線などを総称して放射線という。放射線には、原子をイオン化さ
せたり(電離作用)、写真のフィルムを感光させたり(感光作用)、物質を通
り抜ける力(透過力)がありますが、これらは放 射線の種類によって異なる。
電離作用や感光作用の強いものほど透過力は弱く、例えば、アルファ線は薄
い紙1枚でさえぎることができますが、ベータ線はアルミ板、ガンマ線は鋼鉄
や厚 いコンクリートなどが必要。
また、放射線を出す能力(放射能)は時間とともに減ってゆく。放射能の減
る割合は放射性物質の種類によって違いますが、それぞれ一定の時間で半分に
なる性質があり、この時間のことを半減期という。
4. 放射線の種類
1) アルファ線(主にウラン、プルトニウム、ラジウムより)
原子核から出てくるヘリウムの原子核で、プラスの電気をもっている。
アルファ線は原子核がアルファ崩壊を起こしたときに放出される放射線
でアルファ崩壊は陽子が2、質量数が4減少して新しい原子をつくり安定に
なろうとする崩壊。そのときに外に放出されるものがアルファ線の正体で、
中性子2個と陽子2個からできているヘリウムの原子核。ほかの放射線より
もエネルギーと粒が大きいのでアルファ線は近くのものに与えるエネルギ
ーは大きいけれど、すぐにエネルギーを失ってしまい透過力が弱く紙1枚
で遮断できる放射線である。
このため外からアルファ線を浴びても、皮膚でさえぎられ人体への害は
ない。しかしアルファ線を放出する物質が体内に取り込まれると直接組織
や臓器に影響を与え、臓器の1つの細胞などの小さい範囲に長くアルファ線
を放射するため大変危険である。
アルファ線は強力な電離作用を持つため細胞を構成する原子の電子をは
じきだし、電子は細胞核やDNAを傷つけ、がんや遺伝的問題を引き起こす
。ラドンは天然に存在する唯一のアルファ線を放出する気体である。
すべてのウランやプルトニウム241以外のプルトニウムはアルファ線を放
出する。吸入されたプルトニウムが二酸化プルトニウムなら肺癌、硝酸プ
ルトニウムなら肝臓癌になることが多いといわれている。
2) ベータ線
原子核から出てくる高速の電子でマイナスの電気をもっている。
ベータ線は原子核がベータ崩壊を起こしたときに放出される放射線。
ベータ崩壊とは中性子1つが陽子になりバランスをとって安定になろう
とする崩壊で中性子1個から陽子1個と電子1個と中性微子ができる。ベータ
崩壊では原子は違う種類の原子になるが質量数は変化しない。このときに
高速で放出される電子がベータ線である。
ベータ線は空気中は透過するが薄い金属板で遮断できる。
透過力がアルファ線よりも強い分電離作用はアルファ線より弱くなって
いる。
原子炉の中でウラン238からプルトニウムが生成される時などに発生する。
3) ガンマ線
原子核から出てくる電磁波(テレビの電波や赤外線、光などの仲間)で、
電荷をもっていない。極めて波長が短く、X線と同じ性質をもっている。
原子核が崩壊したときに必要なくなったエネルギーがガンマ線で、アル
ファ線やベータ線と異なり電荷を持たない放射線。
アルファ崩壊、ベータ崩壊の時に不要になったエネルギーの分アルファ
線、ベータ線とともに放出されています。ガンマ線は電波と同じ電磁波で
物質を透過する力が大きく、被曝すると外部からでも体の奥深くまで到達
する。コンクリートの壁や鉛の板で遮断することができ、ベータ線よりも
弱い電離作用を持っている。因みにセシウム137は662000eVのγ線を放出
しその電離作用でDNAを傷つける)。
4) エックス線
電磁波の一種です。
1895年にウィルヘルム C. レントゲンによって発見された放射線で、
電磁波の一種です。病院でレントゲン写真に使われているように透過力は
大きく人体を貫通する。また、電離作用が弱いため人体に放射することが
できる。
5) 中性子線
中性子からできている放射線で透過力が大きく、原子に吸収されると違
う種類の原子を作る性質がある。主に核分裂の時に発生する。
中性子線は核分裂を引き起こしたり、プルトニウム239からプルトニウム
の同位体を生成したりする。
1999年東海村の核燃料施設における臨界事故では、この中性子線が最も
被害をもたらした。
----------------------------------
※筆者注:臨界における中性子・水・(冷却水ジャケット・ホウ酸)など
  水は中性子を減速させる。中性子のスピードが落ちると、横分裂
反応が高まる。軽水炉が減速材として水を使っているのはこのため
である。また水は、外に出ようとする中性子を沈殿槽に押し戻す役
割を果たす。加えて循環することによって水の温度を下げることも、
臨界を助長する。つまり冷却水ジャケットの存在は、臨界を発生さ
せ、臨界状態を維持する働きをすることになる。逆説的にみれば、
冷却水がなければ中性子は外に逃げて行くから、核反応は抑制され
る。また水温が高くなれば、水の密度が下がるから中性子の反射率
も落ちる。いずれも臨界状態にブレーキがかかる。
なおホウ酸は中性子を吸収する役目として投入されることがある。
(飯高季雄氏著『原子力重大事件&エピソード』日刊工業新聞社、
p.215)
5. 放射線の内部被曝(死の灰の人体内での蓄積と濃縮)について
(広瀬隆氏著『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』文藝春秋、p.253)
(以下[放射性核種・放射線・半減期])
1) 肺
[ラドン222・α線・3.8日][ウラン233・α線・16万2000年]
[プルトニウム239・α線・2万4000年]
[クリプトン85・β(γ)線・10年]
2) 甲状腺
[ヨウ素131・β(γ)線・8日]
3) 皮膚
[硫黄35・β線・87日]
4) 肝臓
[コバルト60・β(γ)線・5年]
5) 卵巣
[ヨウ素131・γ線・8日][コバルト60・γ線・5年]
[クリプトン85・γ線・10年][ルテニウム・γ線・1年]
[亜鉛65・γ線・245日][バリウム140・γ線・13日]
[カリウム42・γ線・12時間][セシウム137・γ線・30年]
[プルトニウム239・α線・2万4000年]
6) 脾臓
[ポロニウム210・α線・138日]
7) 腎臓
[ルテニウム106・β(γ)線・1年](セシウムは尿管上皮・膀胱の集積)
8) 骨
[ストロンチウム90・β線・28年][亜鉛65・γ線・245日]
[ラジウム226・α線・16920年][プロメチウム147・β線・3年]
[バリウム140・γ線・13日][トリウム234・β線・24日]
[リン32・β線・14日][炭素14・β線・5600年]
9) 筋肉
[カリウム42・β(γ)線・12時間][カリウム42・β(γ)線・12時間]

放射線は五感には感じないが、私たちの身の回りの自然界には、大地をはじめ
宇宙や食物などから絶えず受けている自然放射線がある。私たちはその自然放射
線を1年間に約1.1ミリシーベルト受けている。原子力発電所周辺における放射線
の線量目標値は年間0.05ミリシーベルトであり、実際にはこの目標値を大幅に下
回っているという(が実際は定かではない)。
私たちが受ける自然放射線の量は日本各地で異なる。例えば関西地方と青森県
を比べると、関西の方が年間2〜3割ほど高くなっている。また南米などでは、年
間で10ミリシーベルトにも達するところもある。このような地域差が生じるのは、
大地の岩石に含まれる放射性物質の量や種類が地域により異なるためである。

【付録7:核燃料サイクルについて】
核燃料サイクルは、文字通り空間的にひろがっている。本章ではおいおいその
全体像を明らかにしていくが、そのひろがりについてのおよそのイメージを持っ
ておこう。ウラン鉱石は、アメリカやアフリカ諸国や、カナダやオーストラリア
で採掘され、濃縮はアメリカで行なわれ、日本で発電された後の使用済み燃料は、
イギリスやフランスに運ばれて再処理される。その際に出る放射性廃棄物 = 核
のゴミは、日本に持ち帰られる。また、廃棄物の一部は国際的な批判を浴びなが
らも太平洋に海洋投棄されようとしている。
  この地理的ひろがりは、社会的ひろがりでもある。ウラン資源をめぐる先進諸
国の争い、ウラン鉱に働らく低賃金労働者、核のゴミを押しつけられる太平洋諸
国の人びと……と、国際的に重層的な問題が、サイクルの各段階に待ちうけてい
る。国内的にも、電力の消費地の都会と原発をかかえる地域、さらに原発より一
層過疎地に建てられようとする再処理工場、被曝労働の大半を担う下請労働者、
といった複雑な構造が存在している。
  同時に、このサイクルは時間的に大きなひろがりを呈している。長い寿命をも
った放射性廃乗物やプルトニウムの管理は、何十万年、何百万年の安全性を見通し
て考えられねばならない。それは、これまで人類が経験したことのないような、時
間的ひろがりをもった問題である。
  核燃料サイクルを物質の流れという側面からみると、それは核物質の流れと放射
性物質の流れという二つの面をもっている。核物質の流れは、もちろん原子力発電
に直結するが、そこで生れるプルトニウムという第二の核物質が、このサイクルを
一層特徴づける。核物質の流れに沿っては、平和利用から軍事利用への転用、いわ
ゆる核拡散の問題や核ジャック問題が生じる。これはいま、原子力問題がかかえる
最も大きな問題のひとつである。
  いっぽう、核燃料サイクルには、そのすべての面で放射性物質がかかわっている。
その流れに沿っては、環境問題や労働者被曝問題、大事故の危険性といった、すで
に述べたような安全面の問題がひろがっている。
  この二つのどちらの流れにとっても、原子力発電所と再処理工場とがかなめであ
る。核物質の流れは、原子力発電所でプルトニウムが生み出され、再処理工場で純
粋な形で取り出されることによって、その複雑さと社会的な深刻さを増す。もちろ
ん、核燃料サイクルにかかわる放射性物質の量も、原子力発電所でウランが燃える
ことによって飛躍的に増え、再処理を経ることによってやっかいな放射性廃案物の
発生量も桁違いに増える。
  ひと口に言えば、核燃料サイクルはその下流に最もやっかいな問題をかかえてい
るのである。
そして上流から下流への流れの節目に原子力発電所があり、下流のスタートが再
処理工場である。いま、核燃料サイクルの全体が問われ、原子力開発が新たな次元
に入ろうとしていると述べた意味は、実は、開発が上流から下流へと向いつつある、
ということにほかならない。(高木仁三郎氏著『プルトニウムの恐怖』岩波新書、
pp.67-69)

【付録8:技術論の役割とその限界】
「廃棄物処理(あるいは核燃料サイクル)」、「廃炉技術」、そして「クライ
シス・マネージメント」(大規模事故時の対応)。この三つに対する明確な展望
をもたぬまま、日本の原発はスタートした。はじめ、遠方から眺めるかぎり、こ
の三つはけっして迷路ではなく、技術的に克服可能な障害物であるようにも見え
た。しかしそれから約20数年、40機ほどの原発を保有するにいたったいま、それ
らが単なる技術的障害物ではなく、じつは、関係する地域住民の暮らしの形態や
健康や安らぎを犠牲にして出口を探し求める以外に術のない社会的迷路であるこ
とが明らかになりつつある。
  しかしその一方で、とくにエネルギー中毒のような今日のライフスタイルが原
発推進者に格好の口実を与え、その結果、たとえわれわれが望んだことではなか
ったにせよ、いつのまにかわれわれが原発にかなりの程度依存し、結果的に多く
の人間が原発を支えてしまっているという構図があることは、否定できないよう
に思う。また原発は自動車産業ほど巨大ではないにしても、すでにある程度すそ
野の広い産業構造を形成しており、原発の関連企業やそこで働く多くの人間にと
っては、原発は電気のためにあるというより、いまや生きる手段そのものになり
つつある。
  技術的に解決しえない三重苦を背負った原発。しかし、その原発への依存をま
すます強めようとする今日の社会。とすれば、このジレンマのはざまに、可能な
かぎりグローバルな視点から、完全ならずともある程度妥当な解決策(オルタナ
ティヴ)を探っていくことこそ、いまわれわれに求められていることではないか
と思う。が、イニシアティヴをとってその可能性を真剣に模索すべき国や電力会
社は、原発を批判するすべての声を「反原発」という古典的な枠組みのなかに閉
じ込め、現状を正当化することにのみ腐心している。だがそれは、問題を次世代
に先送りする近視眼的な行為でしかない。
 たとえは、日本の場合は原発がすべて海岸に建設されているという特殊性があ
る。大事故を起こせば、大気ばかりでなく、おそらく海流をとおしても、放射性
物質を世界中にばらまくことになる。このことだけをとっても、原発はすでに一
国の問題ではないといえるはずだが、国や電力会社は原発見直しの世界的趨勢を
無視して、自国民の「豊かな生活」、そしてそれを支えるための「エネルギー論」
を説いている。そして、いまや技術はアメリカを凌いでいる、日本ではスリーマ
イルやチェルノブイリのような大事故はおこりえない、とし、原発の安全性を喧
伝、強調する。
  が、「原発推進」を前提にしたこのような論法は、今日、その "前提" を問題
にしはじめている多くの人びとを説き伏せるだけの力をもっていない。しかしひ
とたびそれが批判にさらされると、ならばオルタナティヴなエネルギー政策を提
示せよ、とせまり、それを提示できないとき、批判物に "非現実的" の烙印を押
す。が、これはあまりにも一方的な話である。国や電力会社が原発をわが国に導
入して以来、一貫して "迷路" を "克服可能な障害" と見誤り、その問オルタナ
ティヴなエネルギーやライフスタイルを模索することにまったく力を入れてこな
かった "つけ" の解決策を、原発の批判者に一方的に問うわけにはいかない。
(田中三彦氏著『原発はなぜ危険か』岩波新書(1990年第1刷)、pp.167-169)

【付録9:労働者の命より納期が大事】
  引き渡しがすんで運転を開始すれば、作業員たちが検査のためにここに入る。
そのときに、掃除し残したホコリは原子炉の運転にともなって放射性物質になっ
ています。それを現場作業員が吸い込んで内部被曝することは間違いないのです。
マスクの隙間から体内に入るかもしれない。マスクをはずしてしまう人がいるこ
とも知っていました。
  引き渡し前の掃除をしている最中に、ミラーインシュレーションという部分が、
本来とは違う仕様になっていることをみつけ、「直せ」「直せない」で大げんか
になったこともあります。これは、原子炉の機能や安全性には直接関係ない部分
ですが、仕様どおりになっていないと、非常にその後の検査がやりにくく、時間
がかかることになる。1箇所検査するために、全部取り外さなければならないよう
な状態になっていたからです。これでは被曝作業が必要以上にどんどん長くなっ
てしまう。
  私は、現場を担当していたIHIや東芝の作業員に「絶対に直せ」と言いました。
「運転に入ってしまったら後で苦労するのはあなたたちだ」と。ところがその
場で「直します」と言いながら直さない。東電の社員が「GEの言うことは開かな
くてもいい」と指示していたのです。
  理由を開くと「そんなことですでに新開発表した炉の立ち上げを遅らせること
はできない」ということでした。
「そんなこととはどういうことだ、被曝労働者の命にかかわることだ!」と怒
鳴り、大げんかになりました。それでも直せないと言うから、全体会議でも大声
を出しました。
「こんな仕事をしている6号機が安全なわけあるか!」
「安全じゃない理由をいくらでも教えてやる!」
「労働者の命より納期が大事か!」
  みんなあきれていたと思いますよ。6号磯の完成直前といえば、私がGEにはいっ
て5年以上たっていたころです。被曝労働の過酷な現実はいやというほどわかって
いた。本当に「原子力発電所」というものに愛想がつきていたのです。6号機が終
わったら、もう原発なんかからは足を洗うんだ、と決めていましたから、誰に嫌
われようが怖いものなど何もありません。言うだけのことは言って、できるかぎ
りのことをして辞めようと思っていました。
原子力発電所があれば、そこには必ず被曝労働がある。「安全」と言われる基
準以下だろうが、それを長期に浴びれば将来的に重大な影響が出て来ることは間
違いがありません。「安全基準」といっても、そもそも「絶対に安全」などとい
う根拠はありません。・・・
乏しい知識、納期に追われる過酷な現場で、放射線から完全に身を守るすべは
全くないのでです。被曝労働の現実を見続けるに連れ、私は「こんな労働現場が
あってはならない」と思うようになっていったのです。(菊地洋一氏著『原発を
つくった私が、原発に反対する理由』角川書店、pp.100-102)

【付録10:日本でのシミュレーション】
(ここではその多くの記述や知見を高木仁三郎・渡辺美紀子氏の共著『食卓に
あがった放射能』(七つ森書館、pp.110-150)より引用した)。

ある日、日本のA原発でチェルノブイリ級(レベル7)のメルトダウン事故が発
生したとしよう。飛散した放射能は風速が4m/秒とすると7時間もあれば100kmを走
る。上空はもっと速いからいっそう短時間で放射能は届く。(チェルノブイリで
は1500km離れたスカンジナビアに届くのにわずか2.5日ほどしかかからなかった)。
さて事故原発から100km離れて住んでいるKさんを放射能雲が襲ってきた。この
雲には大量の希ガスや放射性ヨウ素ををはじめ殆どの放射能核種が含まれており、
事故からたかだか10時間しか経っていないから短寿命の放射線(半減期:ヨウ素
131:8日・ネプツニウム239:2.4日など)も多く含まれている。被曝はまず放射能
雲による直接の照射から始まる。100km離れたKさんの団地では、建物の遮蔽効果
を勘案しても、おそらく1mSv(1ミリシーベルト)前後の被曝となるだろう。この数
字は自然放射線の年間総量をわずか数時間で浴びるということだから、すでにい
ろいろな対策を講じなければならない線量である。気象条件によっては事態は何
倍・何十倍にもなる。何はともあれ風下を避けて逃げなければならない。このと
き交通混雑は必至でパニック状態になることは容易に想像される。
シミュレーションを続ける。仮にKさんが団地の部屋にずっと居続けたとしよ
う。屋内にいても空気の汚染に伴って呼吸を通じての体内被曝が次第に深刻にな
る。特にヨウ素131は空中に漂う微粒子(エアゾル)のかたちでやって来て、居
続ければ甲状腺の被曝だけで1000mSvを軽く越える。ヨウ素はハンカチを鼻・口に
あてて呼吸をすればある程度の遮蔽効果があるが、木綿のハンカチを8枚重ねにし
てやっと除去効果が90%程度という。ヨウ素にはヨウ化カリウムを被曝前に予め
服用すると効果があるが、通常はヨウ素剤の配置はなく、原発周辺では配置して
あっても被曝前に服用可能の状況になるかどうかは疑問である。Kさんは遠く離
れているのでヨウ素剤の備えはない。しかも他のセシウム・バリウムなどの微粒
子が吸気中に含まれていると肺の被曝も心配になる。こちらのほうも最初の数日
で200mSvに達するだろう。
さらにKさんが彼の団地に居続けたとしよう。放射能はやがて地表に降りてきて、
地表やあたり一帯の放射能汚染が進行する。ヨウ素131・132・135、テルル132、
セシウム134・136・137、バリウム140などといった放射性核種である。それによ
りまず問題になるのは地表の放射能が発するガンマ線からの外部被曝である。 
降り積もった放射能によって、Kさんのいる100km圏は次第に毎時1〜2mSv前後の
汚染地帯になってゆく。ちょうど1時間もいれば年間の線量限度に相当する線量を
受けてしまう強さだ。
  そのうえに心配なのは、あたり一面の汚れのために生じる内部被曝である。さ
し当りの問題はチリ・ホコリの類である。放射能を強く含む粒子(ホット・パー
ティクル)が空気中に漂えば、吸いこんでしまうおそれが強い。ホット・パーテ
ィクルは肺に入って肺の被曝を増やす。傷口などがあるとそこから汚染が体内に
入る場合があるから要注意だ。
  放射性の粒子・チリなどは衣服についたり頭髪の中に入りこんだりして被曝を
増す原因となる。こんな場合外出には帽子をかぶること、外出から帰ったらホコ
リをよく落とすこと、風呂に入り体を清潔に保つことなどが肝要だ。
  以上のようなKさんをとりまく状況から結論すれば、やはり迅速避難をしなくて
は危ない。たった一日避難が遅くなっても地表汚染は続くから、できる限り早い
避難をすることでだいぶ被曝をさけられるだろう。仮にこのような条件下で100km
圏に一週間も留まっていたとすると、どのくらいの被曝になるだろうか。その一
週間の生活の仕方によっても大いに変わってくるのだが、ここでの計算の結果を
示すと、
  甲状腺被曝:3000〜4000mSv
  全身被曝(主として外部被曝):約100mSv
  これはやっぱり驚くべき線量で、とくに甲状腺被曝については何らかの有効な
手をうたないと甲状腺機能低下などの障害や甲状腺癌に高い率でつながっていく
ことになろう。全身線量としても一週間で自然放射線量の50〜100倍を浴びること
になり、緊急避難を要するレベルだ。
  しかも子供たちの被曝の問題が深刻だ。ここまでの計量では特別に子供のこと
を考えてこなかったが、甲状腺の大きさが小さい子供は呼吸量の少ないことを考
慮しても、ヨウ素の甲状腺内濃度が高くなり大人の2倍以上の線量となるだろう。
さらに地表汚染に伴う被曝も身長が低く汚れに近いところにいる子供たちの方が
大きくなる。外で遊びまわったりしてホコリを吸いこんだりすることも多いだろ
う。したがって子供の場合少なくとも大人の2倍を見こんでおかなくてはなるま
い。とりあえずの結論であるが、100km圏は本格的な原発事故の場合、至近距離で
あると考えて対処する必要がある。遠い存在と思えた原発は急に身近な存在にな
るのだ。そうだとすれば平時からきちんと事故対策を考えておかねばならない。
(それだけでなく原発そのものの存在の是非についても本気で考えなくてはなら
ない)。
以上原発の大事故の急性期(1週間程度)についてシミュレーションしたが、
危険な事態はさらに続く。
続いての心配の種は飲料水の汚染である。雨水の放射能汚染が河川を通して上
水道を汚染する。普通の浄水場ではヨウ素の汚染は半分程しか除去できない。そ
の他のセシウムやストロンチウムのような金属イオンとして水に溶けている放射
能はいっそう除去しにくい。チェルノブイリの経験ではセシウムは地表下数セン
チの地層吸着が強く、意外に雨水-->河川-->水道水の汚染が少なかった。しかし
地層の構造・地下水(水系)の位置と流れは様々に違い、特にヨウ素汚染には十
分注意しておく必要がある。
次は食品汚染について。まずは原発直後から始まる風下のヨウ素とセシウム汚
染だ。ヨウ素やセシウムは空中から降ってきて葉っぱの上に積もる。葉物野菜や
牧草の汚染は最も直接的で素早い。風下の100km地点だとヨウ素は1平方メートル
あたり1億ベクレルを優に超え、セシウムは約500万ベクレルとされている。これ
は火山灰が降り積もるイメージだ。牧草の汚染があるので牛乳や乳製品汚染もす
ぐにはじまる(これは今回の福島原発事故でも既に経験しているのでわかり易い
)。葉物野菜や牛乳などのヨウ素やセシウム汚染(セシウムは半減期が長く牛肉
汚染も問題となる)の絶対的な対策は何もなく、洗えば大丈夫という明確な根拠
もなく、食べない・飲まないのが最善の防御手段だ。また政府発表の「毎日○○
kgを食べ続けない限り健康に影響のないレベルだ」という言説は信用しないほう
がいい。放射線には一切被曝してはならないというのが原則である。さらに厳密
にいえば放射性テルル・バリウム・ストロンチウム・プルトニウム・ルテニウム
・ウラン・クリプトン・コバルトなどの汚染も問題にしなければならないがこれ
らの安全基準値ははっきりせず短期・長期的な人体への影響も諸説あって詳述で
きない。もちろん一切被曝してはならないというのが原則であることに変わりは
ない。
なお緊急時の備えとして福井県の「小浜市民の会」では次のような準備を呼び
かけている。(1)ポリバケツ・水筒・保存食(汚染前の水と食糧の確保)、(2)雨
合羽(ビニール製・帽子付き)、ビニールシート(顔面を覆う)、(3)ガーゼマス
ク、(4)ヨウ素剤(ヨウ化カリウム)、(5)小さな懐中電灯、(6)小型トランジスタ・
ラジオ、(7)できれば放射能検出器。これにつけ加えるとすれば、何よりも迅速な
避難と体や衣服の汚れ(加えて車の汚れなど)を極力落とすことが大切だと思う。


【付録11】
私達は宇宙や大地、人間の体内や食物など自然界から様々なかたちで
避けることのできない自然放射線を受けている。
・ 自然放射線の年間総量 :2.0 ミリシーベルト
・ 原子力発電所の線量目標値(年間:0.005 ミリシーベルト
・ 胸のX線写真(1回当り)   :0.1  ミリシーベルト
・ 食べ物から(年間)      :0.2  ミリシーベルト
・ 宇宙線から(年間)      :0.3 ミリシーベルト
・ 大地から(年間)       :0.5  ミリシーベルト
・ アメリカ・デンバーの自然放射線(年間):1.6  ミリシーベルト
・ 胃の透視(1回当り)     :15  ミリシーベルト
・ 放射線治療(1回2mSvを週5回、これを6週間続けて治療する)
  :60  ミリシーベルト

平成17年10月12日 鳥越恵治郎
平成20年 9月24日 追加
平成23年 7月 8日 追加
平成24年 8月25日 追加
平成25年 5月28日 追加
平成25年 7月31日 追加
平成25年11月13日 追加