第10話  20世紀に置き捨てるべきもの


 筆者はこれまで年の始めというものが、仕事上まったく意味のないものと思っていた。しかし今回は世紀変わりである。大きな節目として何かまとめて書き残すのも一興に違いない。さて題材だが、筆者は1950年生まれで半世紀を生きた。この50年日本のいいところを探して21世紀に引き継ぐべきものを取り上げてみたいとおもったが、それは平和くらい(といっても、これほど大事なものはないのだが)しかない。というわけで視点をかえて「20世紀に置き捨てるべきもの」をこれが正論だ!!でやってみることとした。

 まずは「民主・人権・平等イデオロギー」。捉え方用いられ方にもよるのだがこれらほど横着な空論はない。レーニンは「地獄への道は善意で敷きつめられている」といみじくも宣ったそうな。共産主義者が、みずからの主義の未来を暗示するようなこの言葉を何故吐いたのかわからないが、20世紀の名言であろう。民主・人権・平等はとりあえず心地よい善意として響きわたる。行き着く先に地獄がまっているとも知られずに。

 民主主義の危うさについては北朝鮮の正式名称である朝鮮民主主義人民共和国を思い出せば十分だろう。また民主政治は選挙に有利になるように政治家は予算を奪いあい、官僚は出世を考え権力闘争に明け暮れながら権限を拡大する。人々は他人の負担でより多くの受益を確保しようとする。そして財政はばらまきになり肥大化し、行政組織は無限に自己増殖する。民主イデオロギーの弊害と限界がここにある。

 民主・平等にいたるとヒトラー、スターリン、ポル・ポト、毛沢東等のやった中抜きジェノサイド(皆殺し)が分かりやすい。彼らは民主・平等の美名のもとに、知識階級と中産階級を根絶しようと企んだ。現在の日本はひたすら社会(共産)主義に近付いている。おまけにリストラで中流階級は根こそぎ失業させられている。この中抜きジェノサイドに似た日本型社会(共産)主義の醜態はもともと生まれつき平等でないのに、心地よくひびく卑しき悪しき結果平等を唱えてきた結果だろう。21世紀の平等は機会平等だけで十分だ(ただし、今では我々は機会平等さえ奪われつつある*)。

 次は人権。筆者には人権とか、人が生まれながらにして持っている権利なぞ、一体何のことやら曖昧模糊として分からないのだが、20世紀前半の人命軽視と後半の人命過剰尊重において、人命と人権は不可分に歩きはじめ、とうとう巨大な金科玉条になってしまった。曰く、人の命は地球より重い。犯罪者にも人権がある。子どもの人権、生きる権利、死ぬ権利、・・・書き連ねるのも億劫だ。義務を忘れ、自分の存在意義も考えず人権を乱発してきた結果の一つが現代の一億総無責任時代と考えるのは邪推ではなかろう。筆者は現在の「悪民主・誤用人権・結果平等イデオロギー(空論)」を21世紀に伝えてはならないと思う。

 勢いこんで書き始めたのだが、どうも筆者にはここまでで心情の全てを吐露してしまったようだ。浅学非才を嘆かずにはおられないがもうすこし各論を書いてみよう。

 「男女共同参画型社会」という、これまたもっともらしい言葉がある。今の日本には、政治の奔放さと行政の潔癖さと緻密さがなくなってしまった。なぜか? それは女性を家庭から解放するというフェミニズムが、「男女共同参画型社会」という錦の御旗をたてて社会を撹乱し、人間が生きるための最小単位である家族のありかたを歪めたからにほかならないと思う。本来家族という単位をどういう方向に向かわせ、生活の糧をどのように稼ぐかという政治的ダイナミックスは社会を鳥瞰する本能に長けた男の仕事であろう。また自分のテリトリーを認識し死守し、そのなかで新しい生命を産み育むことは緻密さと潔癖さを本能として与えられた女の役割であろう。「男女共同参画型社会」はこの天賦の絶妙な生活単位を崩壊させる以外のなにものでもない。政治が行政化し、行政が政治化してしまって、日本は新しいパラダイムを生み出せなくなってしまった。しかもあろうことか介護の社会化なぞと血迷ったあげく介護保険というお化けまで現出させてしまった。家族の崩壊は社会の崩壊へ、そして日本の崩壊へと突き進んでいる。ここでも筆者は「地獄への道は善意で敷きつめられている」という言葉をつくづく名言だと思う。

 子どもにも人権がある。子どもは無限の可能性を秘めている。子どもを褒めて育てよう。子どもにはもっと余裕のある教育を。子どもの目線で考えよう。いちいちごもっともに聴こえてしまうが本質は大ウソであると思っても世論がうるさいので嘲笑しておくしかない。しかし、問題なのは「ガキに人権なぞない」、「子どもの可能性なんて皆無かもしれない」、「子どもの邪悪な悪魔部分を殴り捨てながら育てよ」、「子どもに余裕を与えたら、艱難辛苦から逃避するだけだ」、「教育においてなんで教師がガキにおもねる必要があるのか」などなど、こういう正論が被覆され忘却されてしまう。最近知ったのだが、小中学校から教壇が消えて久しいという。開いた口が塞がらなかった。子どもは子どもらしく教壇上の教師に堂々たる威風を感じつつ学ぶべきだろう。大学生になると、教壇は学生から遥か下方においてある。大学生に至って、はじめて教授を越えて学究すべきだという暗黙の配置があるのだ。

 さらにもう一つ、いまどきのガキの挨拶のできないことと言ったら常軌を逸してる。診察室にドタドタと入って、黙って椅子に座る。ついてきた母親も何ら挨拶しないで、唐突に子どもの症状をしゃべりだす。嗚呼、世も末だ。ついでに、子どもを褒める母親のこと。ある悩みの相談にて、「もうね、この子は良い子なんです。勉強もできるし、家事の手伝いもよくしてくれるんです」。「お母さん、ガキに良い子なんぞいません。子どもは学校と家庭と通学途中にすくなくとも三つの違った顔をもつ詐欺師です。ここのとこで大きな認識間違いをしたら、子どもはちゃんと育ちませんよ」。家族の何の根拠もない心地よいほめ言葉に敷きつめられて育った子どもは、きっと地獄をみるのだろう。

 社会をあげて福祉福祉の大合唱。福祉を叫ぶ国家は必ず破綻する。福祉は平等を建前とするが故に、規制だらけの官僚統制を必要とする。さらに夢多きはずの若年労働者を重税で苦しめる。結局稼がない官僚や地方の役人をはびこらせ、稼ぎ手の若者の労働意欲を失わせる。これでは国家は衰退するばかりであろう。人間は徹底して利己的であるために、他人や社会が自分に対して利他的であることを望む。高福祉低負担を叫ぶ社会(共産)主義者は他人が利他的であることを要求し、他人のカネを自分たちで使うことを期待しているにすぎない。筆者は社会(共産)主義を決して支持する気になれない。それは社会(共産)主義を支持する動機のこの卑しさのゆえである。福祉偏重国家はこの卑しさを国家権力が代行することで正当化し、自己欺瞞に陥っているのだ。筆者はここでも、地獄への道は善意(福祉)で敷きつめられているのだと言いたい。

 日本は確かに物質的に豊かになった。しかしそのかわりに多くの優秀な日本人の資質を失ったようである。長田弘氏詩文集「記憶のつくりかた」の中の「鳥」のなかにも名言がある。「『ゆたかさ』の過剰も『善意』の過剰もまた、生きものを殺しうる。(中略)それは、ほんとうは飛びたかった鳥だった。必要な飢えによって飛ぶ鳥。しかし、不必要なゆたかさによっては、どこへも飛べなかった鳥だった」。

 さてここらあたりで国民への安全保障について一言。我が国特有の「専守防衛」戦略は国土を主戦場に想定しているから、はじめから日本の町が焼かれ、老幼婦女子が殺される事を覚悟している。日本は逃げる場所もない。近代都市は破壊に弱い。あなたまかせの抑止戦略や防御方法のない専守防衛戦略など笑止だ。こんな状況では安全保障の為の外交は「屈辱的外交」しかない。結局、侵略されたら直ちに降伏するというのが為政者の本音なのだろうか。安全保障はどこに消えたのだ。この国は今に至っても国民の財産と命を本気で守る気がなさそうだ。まさに命を蹂躙し翻弄するという表現がピッタリの日本という怪しいシステムの本質をここでも垣間見る事ができる。第二次世界大戦後、殆ど同じ様な運命を辿って復興したドイツは、早々と自衛のための軍隊を充実させた。国防のために想定する戦場を国土の外側に移して防衛戦略を練っている。この彼我の違いをもたらせた原因と責任は一体どこにあるのだろうか。

 とうとうネタがなくなってしまった。最後にもう一言。筆者は日本人でありながら、どうしても昭和以後のこの国が好きになれない。一体それはなぜなのだろうか。小さい島国で飽くことなく続いた権力闘争のなれの果ては、あの残忍な秦の始皇帝も顔負けの官僚制度を生みだした。そして現在、政財官トライアングル(権力階級)は資本主義と社会(共産)主義を極めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、操作=国民基本台帳法、通信傍受法、N-システム道路監視網、予定された個人情報保護基本法など)をもって国民を飼い馴らしている。いまや日本は政治献金の総元締めである圧力経済団体と、無知無能捉われやすく(賄賂に弱く)強権的で政治と行政を私物化し権力闘争に明け暮れる独裁官僚群と、利権をエサにされて官僚の提灯持ちと小間使いに成り下がった自民党族議員と、賄賂とやくざが支配しスパイが暗躍する、お先真っ暗な魑魅魍魎の私物国家となってしまった。そうして殆んどの国民が危ういあなたまかせの平和のなかで惰眠を貪っているあいだに交付税、補助金、助成金で地方自治を強力に制御し、特殊法人・公益法人とそれにぶら下がる幾多の寄生虫的天下り法人を介して民間活力を完全に抑制する中央集権制という巨大なピラミッド型の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」が徐々に透き間なく構築され、国民の将来の希望を完膚なきまで奪ってしまっているのだ。筆者はこの国民を篭絡し韜晦する全体主義システムを21世紀に引きずってはならないと強く思うのである。

 筆者はここまで20世紀に置き捨てるべきものを思い付くままに書き散らかした。この小文が発行されるのは21世紀。どうやら日本の21世紀は地獄にむかってまっしぐらのようである。坂口安吾は「堕落論」のなかで言っている。「人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人のごとくに日本もまた堕ちることが必要だろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」。

  *「機会不平等」、斉藤貴男著、文芸春秋

平成12年12月25日 鳥越恵治郎