第7話:「診療情報の開示と診療録の電子保存におもうこと」


 確か、平成11年5月に情報公開法が成立。これは由々しき事と思ってたら案の定、我々の頭上にも、突然時限つき原子爆弾が出現した。
 「医師と患者の信頼関係を築き、保つために診療情報開示を求められたら開示しなければならないことを医師会の倫理規範にして強制力を持たす」そうである。いままで我々の大部分は患者さんに聞かれたら、普通に自然に伝えるべきことを伝え話すべきことを話してきたではないか。医師と患者の信頼関係構築に強制的診療情報開示がどれほどの意義をもつものか、筆者は疑問をもたざるを得ない。
 情報公開という耳障りのいい言葉は、あげ足取りや発想の貧弱なものにとっては金科玉条だろう。しかし発想豊かにちらっとでも想像してみよう。情報公開窓口の開設、場所の確保、人員の配置、必要機器の設置、コピー用紙の消費等々固定経費の増大にまで考えが及ぶと筆者ならば、うんざりしてしまう。さらに行政に対する情報公開を足繁く求めるひとたちの多くはオンブズマン、ある種の市民団体、民主的な(?)団体組織などらしい。しかも求める内容は主として役人の飲食費・接待費・交際費だという。彼らの行動を一切否定しようとは思わないが求める被公開内容に偏りがありそうなことは否めない。
 同じような事態が我々の医療機関にもやみくもに訪れようとしている。我々はすこし想像を逞しくして情報公開の功罪のうちの罪の部分を真剣に考えてみなければならなくなった。医師法・医療法・健康保険法等々医師を規制し医療を統制する法律ばかり存在し、全責任を医師に押しつけ、医師を守る法律が皆無という状況の中、医師と患者の委任契約のあり方、開示すべきでない情報の細かな選別、公開された情報の内容についての医師の免責規定、被公開情報の悪用の禁止に関する法的整備など、情報公開を持ち出す前に、あるいは同時に成文化し法制化しておかなければならないことが山積しているはずだ。こういうことが全くおざなりにされた上での空論的倫理規範云々を思うとき、筆者はソドムの町に一人置き去りにされた性善説のお人好しの立場すら想像する。まさに医療暗黒時代の到来の幕開けといっても過言ではない。

 次に「診療録の電子保存」についての厚生省通知。 この一連の通知が規制緩和に一環だと書いてある。微に入り細を穿つように書かれたこの冗長な通知は、個々の医療機関に運用規定の作成まで義務付けている。これがなぜ規制緩和の一環になるのか、筆者には1999年最後の悪い冗談にしかみえなかった。
 「診療録の電子保存」についての厚生省通知にざっと目を通してみた。以下の5項目が(至極当然だが)必須らしい。
 1. 真正性
 2. 見読性
 3. 保存性
 4. 安全性
 5. 個人情報保護

 ところで、フォトショップという画像処理ツールがある。画像に対して何でもできる。例えば、一枚の胸部レ線に、勝手な陰影を付けたり消したりなんでもできる。これだけのことで電子カルテ構想は消滅の危機に瀕する。つまり最初の真正性のところで、もうすでにつまづいているのである。さらにオーダーした検査データの結果はどんなに急いだってリアルタイムには返って来ない。後で書き込み、それに対するコメントも当然あとから書き加える。これが真正性を疑われる(改竄されたとみなされる)原因となる可能性すらある。

 昨年、通信傍受法(盗聴法)ができてしまった。確かに犯罪を未然に防ぐという意味では通信傍受法にもそれなりの意義はあるだろう。しかしこれによって、どのように言い繕っても通信に対して「何でもあり」になったことは確かだ。特にコンピュータは「何でもあり」というマシン。つまりコンピュータ通信に安全性やプライバシー保護を求めるのは幻想に近い。膨大な資金を次ぎ込んでもなお完全であることは、到底期待できないだろう。
 異常事態や不測の事態の到来を未然に防ぐことはもちろん大切な事であろう。しかし人間のやることは完全ではあり得ない。間違えたり失敗したりする可能性のあることは、いずれは必ず現実のものとなる。はじめから大仰で空虚な文章を操って徹底的に規制するのではなく、不都合な事態が運悪く現実に生じたら、迅速に対応して原因を究明し、徐々に改善のみちを模索して行く方が現実的な政策や経済的負担の上からも良策だろう。もちろんこの過程で生じた犠牲者への過不足のない精神的経済的支援についても、予めきちんとした法整備を用意しておくべきことは言うまでもない。

 嗚呼!! 規制、強制、統制・・・、歪んだ民主・平等・人権イデオロギーのもとに社会主義的政策が全体主義的に突き進んで行く。大東亜戦争、護送船団方式による高度経済成長の破綻、顕在化した老人医療無料化の弊害、バブル経済と破綻によるデフレ、政治家の金にまみれた腐敗、官僚腐敗、政治の混迷・混乱、名誉失墜した技術大国、東海村臨界事故、限度を知らぬ高齢者福祉政策、老人・病人隔離施設の結核菌など感染症の蔓延などなど、どうやら日本と日本人は、過去の経験に学ぶことなく、行き着く果てに達してしまわないと、それぞれの内包する危うさに気付かず正しい舵取りに思い至らないという致命的欠陥を内蔵しているようである。

平成12年1月4日 鳥越恵治郎記