第1話:「電子カルテの危うさ」

「電子カルテ」を語る前に、我々にはどうしても考慮しなければならないことがある。それは今我々を取り巻いている、社会体制(国家体制)のことである。いまさら、いうまでもなく我々は民主主義の中に生きているつもりである。

しかし、もう一度よく考えてみよう。 日常茶飯事になった、金権政治、官僚腐敗、金融政策の乱脈ぶり、薬害問題、動燃のウソ八百、証券業界の不祥事、結局は国民への付け回しとなる大借金・・・、全く枚挙に暇がない。
一体誰が、それら醜聞や醜態の責任者なのだろうか?マスコミは一瞬だけ騒々しく盛り上げるが、責任者を誰も明らかにしない。
まさに『人間を幸福にしない日本というシステム』(K.V.ウォルフレン)の中で、国民は息苦しい毎日を送っているのである。
その無責任システムは『官僚独裁主義』または『日本型共産主義』、もっと分かりやすくいえば『一億総オウム国家体制』というべきシステムである。つまり日本は民主主義国家というには、あまりにも幼稚なのである。
この社会体制の維持のために「由らしむべし、知らしむべからず」という基本概念が根底にある。
つまり、行政府は「国民はそれが何故必要か説明する必要はない、黙って従わせればいい。」という不遜極まりない認識で国民を管理しているのである。
こういう国家体制の中でのきまりは、『情報隠匿』、『言論統制』の徹底であり、最終的な『国民への責任転嫁』なのである。
実際に現日本は、まさにそういうシステムで動いている。

さて、話を医療に戻そう。 医師は医師法の中で、非常に幅広い裁量権を与えられている。つまり『医師は医療を行うに当たって、与えられた裁量権が大きければ大きいほどその責任は重く、人格は高邁かつ廉直でなければならない』のである。
また医師の裁量権は、患者を治療するに当たって、必要欠くべからざる権利であり、裁量権を失う事は、治療の拠って立つところを失ってしまうことになるのである。

ところで、現実の医療状況はどうであろうか? 社会の『医療不信』をマスコミを通じて医師の責任に転嫁し、国民を守るべき行政の不祥事を、やっきになってもみ消そうとしている。
これこそ、先に述べた『情報隠匿』、『言論統制』の徹底と最終的な『国民への責任転嫁』のあらわれなのである。
その魔手は医療保険制度にまで及び、例えば投薬規制、薬剤情報の記載、特定疾患指導の記載・・・等々、徐々に医師の裁量権を奪い、統制しようとしている。
カルテは、現在、医師の裁量権を守る唯一の砦である。カルテに医師がどう書こうが、極論すれば全く書かないでおこうが、それは医師の裁量に全てまかせるべきであると私は思う。
つまり『医師の裁量権』と『医師の責任』は不可分の関係にあり、もし裁量権が侵害されたら、責任もあいまいになることになる。
多くの医師は、全責任をもって患者の治療にあたっている。その大きな裁量権の故に重大な責任を背負う事が出来る。

そこに、もし汎用フォーマット(プロトコル)の「電子カルテ」なるものが現れたら一体この国の医療システムはどうなるだろうか?
「・・・この項目に、義務として・・・という入力をしなければならない。 ちゃんと入力してあれば・・・点を与える。」なんていう、裁量権の規制や統制が、闇雲に氾濫するに違いない。
医師の高邁で廉直であったはずの資質も、責任逃れの項目入力で引っ掻きまわされるに決まっている。問診すべき事を忘れたり、重大な所見を見逃したり、「電子カルテ」の項目を埋めるだけで、多くの無駄な時間を失ってしまう。
浅知恵の輩が、悪賢い管理者の口車と、無駄金投入につられて「電子カルテ」の構想を練る。考えただけでも身震いする事態である。
天に唾する、必ず自分の首を絞める事になるような「電子カルテ」なぞ絶対に開発してはならないと、私は思っている。

 

H9/10/20 鳥越恵治郎